色葬

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 ようやく残暑が終わって肌寒くなってきたというのに、その日は八月並の猛暑が私の頭を灼いていた。  群青の空にはこんもりと膨れ上がった入道雲が浮かんでいる。ぎらぎらと輝く下品なほどの太陽光が、それを電球のように照らしていた。当然汗が流れてくるので、お気に入りのハンカチで拭う。梅雨明けに買ったものだが、優しい若草色が気に入っていた。  ふと立ち止まって、世界を見つめてみる。  緑の畑作地帯の真ん中には、砂利の一本道がどこまでも続いている。その遙か先には、山々が並んでいるのが見えた。ああ、夏だな。そんなありふれた感想を抱いた。  田舎に帰ったあとは、この長い道を歩くのが好きだ。たまには運動をしなければいけないし、何より、この空気感が好きだった。  誰もいない広大な自然の中を歩いていると、失ってしまった何かを補填できるような気がする。生い茂る草の青臭さ、何にも阻まれない空の広さ、全身を撫でる風の柔らかさ。子供の頃は当たり前だったものだ。それはいつだって身近にあった。夏の温度、夏の匂い、夏の音。子供の頃の夏は、何だか今よりもずっと美しかったような気がする。  久方ぶりに会った父は、随分と老いていた。いつだって偉大だった父の背中。縁側で日本酒を飲む父の背中は、こんなにも小さくなっていたのかと驚かされた。役目を終えると、人は急激に老けてしまうらしい。あんなにも強かった父の背は、蝉の抜け殻に似た侘しさを放っていた。  私は下戸だが、昨日は父の酒に最後まで付き合うことにした。生粋のだった父は、もう私よりも先に潰れるようになっていた。 「ああ、大きぅなったなあ」  酔い潰れた父を寝床に運んでいる時、彼はそんな言葉を零した。  その言葉に含まれた想いを、今の私には計り知ることができない。父の年齢に追いついたその時になら、彼の心を分かることができるのだろうか。  故郷の風景を、じっと目に投影する。  その美しさのすべてを、今の自分は飲み込むことができない。生きれば生きるほど、感性が掠れていくのを感じる。少年だった私の心をうつあの美しさが、心の器からこぼれ落ちてしまうのだ。あの蝉の声に隠されていた大切なものが、今ではどこか他人事に思えてしまう。 「大人になんて、なりたくなかったな」  いつまでも子供のままじゃいられない。私はずっと子供のままでいたかった。しかし、生きていくには許されないことだった。大人になることを世界から強制された。その対価として、私は私の中の少年を殺した。大人になるということは、大切なものを切り捨てていくということなのだ。  いや、違う。きっと、大事にしたまま大人になることはできたはずなのだ。ただ、それを弱さと見なして捨てたのは私自身だ。背負う力がないひ弱な私は、捨てることでしか前に進むことができなかったのだ。  昔の私なら、この季節外れの夏日に何を見るのだろう。  もの悲しさに目を伏せ、私は道を歩き出す。 「おや」  孤独が形をなくしてしまい、私は再び立ち止まる。  どこまでも続く一本道の先に、夏が立っていた。
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