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津城は画面を開いて、そのまま耳に当てた。
「...下で待て、香乃が先におりる」
低い声は僅かに高圧的で。
この声で連れて行けないと言われていたら、逆に楽だったかもしれないと重たい頭でぼんやりと思った。
津城は黙って香乃を立たせて、下着から全て香乃に着せていった。
子供みたいにされるがままで立ち尽くしたまま、ぽろん、ぽろんと涙が零れた。
ボタンをとめてくれる津城の手に、当て付けみたいに雫が落ちる。
声も出さずにただ涙を流す香乃を、津城は見なかった。
全ての服を身につけ終わると、津城は少しだけ香乃の手を握った。
そして屈めていた身体を起こして顔を巡らせた。
おもむろに背後のコンパクトな冷蔵庫の横の、空のアイスペールに差されたアイスピックを取って戻った。
何をするのだろう。
津城はテーブルの上に雑に置かれた時計を手に取って香乃を振り返る。
見上げた香乃に薄く微笑んで、香乃の左の手首を取った。
「...細いなぁ」
あの縁側と同じ柔らかな呟き。
香乃には大きすぎる津城の時計が一度手首に回されて、サイズを確かめた津城が黒いベルトに躊躇いもなくアイスピックを突き刺した。
その穴を確認した津城は、もう一度強く突き刺して押し込む。
絶対高い、重厚感のあるベルトに穴が空いた。
「...手巻きなんだ、こうやって」
香乃の手首にそれを乗せて、ぶつ、と最初の抵抗を押してベルトを締めた津城は香乃の背後にまわり背中から抱いてツマミを下から上へ一度巻いた。
カリカリと何かが引っかかる音がした。
「付けてたら自動でも多少巻けるけど...香乃には重いから...時々こうやって巻いてくれ...」
耳元でそう言った津城が、香乃の左のピアスに触れた。
津城がくれたあの、青の花だ。
首だけで振り返った視界に、それを自分の左耳に通した津城が微笑んでいた。
ぼろぼろと涙が零れた。
離れているのが寂しいと、そんな風に表現する津城はずるいと思って、それ以上に好きだと思う。
「ふふ、似合わない...」
思わず泣き笑いで囁いた香乃と、
「そりゃあ...お互い様だ」
と微笑む津城。
それが、その部屋での最後の会話だった。
津城に肩を抱かれ、扉の前で一度だけ短いキスをして。
ほんの数秒、香乃の目を正面から見つめた。
彼が何を思っているのか、分からないままその目は逸らされ、津城は扉を開けて香乃の身体をそっと送り出した。
香乃は目を閉じて歩いた。
現実だと思いたくなかったから。
微かな音を立てて扉が閉まった音を背中で聞いて、重たい腕でエレベーターのボタンを押す。
ガチガチに固まってしまった背中と心では振り返れなかったから。
叫び出したいのを堪えながら、香乃はほんの少しだけ、あの扉の向こうで津城が泣いていればいいのに...と思った。
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