始動

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始動

エレベーターを俯き加減でおりた時、ホテルの入口辺りで携帯を弄る組員を確認した。 待っているのは矢田だろうと思っていたけれど違ったのか。 ピコン、鞄のなかで音がして。 それを急いで開いた相手は矢田だった。 『出てすぐのタクシーに乗ってください。香乃さんの名前を伝えてあります』 そうか、新居までを矢田が送ってしまうと駄目なのか。 香乃は組員を見ないで横を通り過ぎた。 何処かのスパイ映画みたいだ。 一人で放り出される気分になって、甘えてたんだなと心の中でため息をつく。 タクシーに乗り込んで、香乃は新居から少しだけ離れたバス停を伝えた。 何となく、例え見ず知らずの人にさえ、自分の居場所を知られない方がいい気がしたからだ。 ここからそう遠くない距離にある部屋は、2人で過ごした家とも、津城の事務所からも離れている。 ばったり会うなんて事は無いだろう。 スピードを上げたタクシーがグングンと津城から離れていく。 怖いと思った。 このまま、もう会えないんじゃないかと思った。 今はまだ、津城は待っていてと言ってくれるけれど。 一ヶ月後は?二ヶ月後は? その心が変わらないとは言い切れない。 離れている事になれて、もうそのままでも構わないと…自分が居なくてもやって行けるとそう思うのでは無いか。 そんなまだ起こってもない不安が押し寄せてくる。 タクシーの中では泣くまいと、身体に力を入れて俯いてやり過ごした。 バス停でおろされた香乃は、詰めていた息を吐き出して、ズシンと重くなっていた足を踏み出す。 タクシーの後について来ていた組の車は、ゆっくりした香乃の足取りを停ったままで待っている。 時間がかかってしまって申し訳ない、申し訳ないのだけれど…これで精一杯だ。 本当ならここに蹲って一歩も動きたくない。 そのバス停から香乃の新居までに、角を三つ曲がった。 車はその度に止まり、香乃が進むのを待ってくれる。 新しい部屋のドアなんて、津城の気配のない部屋なんて開けたくない。 あの日、感情に任せて飛び出した自分は…取り返しのつかない間違いを自ら選んだのだ。 振り返らずにマンションの入口を潜った。 もう心は瀕死の状態で、玄関を閉めて後ろ手で鍵を閉めたらもう、力尽きた。 内見で一度だけ見た部屋は様変わりしていた。 香乃がいつか映画を見ながら何気なくいいなと言った、カントリースタイルのソファーが…短い廊下の先にチラリと見えた。 「…ふふ、嘘つき」 何度目かの涙が、飽きもせず頬を伝っていく。 進んだ廊下の先、手前の小さなキッチンも…その先にある小さなリビングスペースも、奥のベッドスペースも。 香乃がここを出たとして、どの組員が使うのか。 可愛くて、柔らかな雰囲気にはとても馴染めない男ばかりなのに。 津城が整えてくれた部屋は、人が滅多に来ない森の中の、小人が暮らす部屋の様で。 その優しさが、今の香乃にはより大きな寂しさを連れてきただけだった。
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