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出てくるまで待って、もう一度その姿を見たい心を窘めて、香乃は数分で席を立った。
急いで店を出て事務所とは逆に進んで一つ目の角を曲がった。
早朝の仕事も、デパ地下もコンビニも、全てパンツスタイルで仕事をする。
香乃の服は出歩かなくなった分、毛色を変えてカジュアルな物に変わっていた。
動きやすいもの、ロッカーでポンと脱げばすぐ着替えられるもの。
雰囲気は随分変わっていたけれど、それでもここは津城のテリトリー。
誰かに目撃されたら、隠れて見に来た事がバレてしまう。
教えてくれた組員にも、迷惑をかけたくなかった。
……嬉しかった。
見られて嬉しい。
香乃は頭の中で、次の休みを確認する。
それから週に数回、香乃はほんの数十秒…津城の姿を見る為だけに、その淹れたてのコーヒーを飲みに、出かけるようになった。
早朝の仕事を終えて、デパ地下までの移動時間に毎日通う事はできたのだけれど。
香乃に"淹れたて"を教えてくれた組員がついてくれる日だけしかあのカフェには行けなかった。
もうデパ地下の仕事終わりにだけ、車はあったのだけど、万が一がある。
香乃が気付かずにあの場所に行ってしまえばすぐにバレてしまうから。
夜仕事を終えて、部屋に帰る道すがらの組の車の運転席を瞬時に確認するスキルがついた。
あの組員も、窓を開けて乗っていてくれるので分かりやすくもあったけれど。
明日は会えるかと期待を胸に歩いて、違う組員だと途端に元気が萎んでいく。
それでも、全く津城を見る事もなく過ごした二ヶ月と少しの時間に比べれば幸せだった。
それから一ヶ月…一瞬の津城の姿を持ってしても、香乃の心だけを軽くしただけで、身体は限界を迎えていた。
ちょうどデパ地下のセール期間と、香乃を重宝してくれた早朝の仕事の内容が、重たいフライパンや鍋を酷使する調理担当に変わったことも大きかった。
フライパン荷重で左手に発症した腱鞘炎と、意外に重い洋菓子の番重が冷蔵庫と売り場までの僅かな距離で腰と肩を直撃して。
疲れは取れず、寝ても回復してくれない。
それでも、津城には会いに行きたい。
疲れが注意力を削いで、香乃は見過ごしてしまった。
昨夜運転席に座っていたあの組員が変わっていた事を。
それでも、電車をおりてカフェに着くまでに一度でも振り返っていたなら、車がついて来ている事に気付いたと思う。
でも香乃は振り返らずに歩いたのだ。
ただ、津城を見る為だけに。
前だけを見て、歩いたのだ。
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