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津城は俯いた。
そのままゆっくり煙草をふかす。
良かった…もしかしたら組員の顔、確認出来なかったのかも。
香乃の身体から少しだけ、力が抜けた。
でも、香乃は忘れていたのだ。
『秋人さん、何で後ろから見てるの…わかるんですか?』
あの縁側で、いつか訊いた答えはこうだった。
『香乃は、見られてる気がして顔を上げたら相手と目が合った事無いか?』
『あー、ありますね』
『人の視線ってのはねぇ…そこに想いが乗れば重さがあるんだ…殺意でも、好奇心でも、慈愛でも。それに、香乃の視線は俺には特別だ…気付かないわけが無い』
香乃の想いが乗った視線に…自分が気付かないわけが無い。
津城はそう言ってあの時微笑った。
津城がじっと足元を見たまま数秒動きをとめた。
そばの組員が吸い終わりかと、携帯灰皿を差し出したがそのままで。
ゆっくり津城の頭が動き、そのまま顎が上向いた。
ばち、と視線が合った…気がした。
迷いなくすっ、と左斜め上を見上げた。
一直線に、津城は香乃を見上げたのだ。
オーバーサイズのパーカーに、スリムパンツ。
目深に被ったキャップで、香乃の顔は鼻の辺りまで影になっているはずで。
香乃はそのままキャップのつばの隙間から津城と、多分目を合わせて息を詰めていた。
津城の表情は動いていない。
香乃だと気付いたのかも分からななかった。
でも。
津城はゆっくり空を見上げ、煙を吸い込んで……深く長く吐いた。
ポケットの左手が外に出て、視線をまたこちらに流した津城が腕をあげ……伸びた項の髪ごと首の後ろを揉んだ。
そしてそのまま、自然な仕草で左の耳朶に触れ…確かめるように撫ぜて。
それからその手を下ろした津城は、構えていた組員の灰皿に腕を伸ばして煙草を受け止めさせた。
まだ、ここにあるぞと言われた気がした。
香乃を想う心が、ここにあるぞと津城は示したのだ。
それに気付いた香乃は、握って固まったままのカップをソーサーに戻し自分の左手首を掴んだ。
咄嗟に掴んだ手首にも、同じ様に心が乗っているよ。ここにあるよと時計に触れた。
香乃だと、それで津城は確実に分かっただろう。
津城は表情を変えはしなかった。
ゆっくり立ち上がり視線を前に戻して歩いていく。
待機していた組員は誰一人、津城の視線を追ってこちらを見なかった。
それくらい自然に、ただ街並みを見て煙草を一本吸っただけの素振りで。
…津城は香乃に、まだ想っているのだと伝えて去って行った。
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