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「初めまして。私は千ヶ滝春佳と申します。アリスさん、可愛いお名前ですね」
直接声をかけた春佳に対して、アリスは言葉の代わりに、舌打ちで反応する。あからさまにわざと立てた、ちっという音が、密度の低い室内に乾いて響き渡った。
すると、それまで穏やかに笑っていた燈子の顔が一瞬にして険しくなり、いつもとは異なる低くはっきりとした声を発した。
「――やめなさい、あーちゃん。何を言ってもいいけれど、それだけは禁止だと決めたはずでしょう」
バイト時代を振り返っても、生徒にもスタッフにも、燈子がこのような厳しい態度を示すところを、春佳は見たことがなかった。
咎められたアリスははっとしたのち、不服そうな面持ちで顔を下げる。
「その舌打ちは相手を不快にさせるだけで何も伝えないし、相手からも何も返せない。コミュニケーションが停止して、それ以上何も生み出せないの。どんなに短くても拙くてもいいから、思ったことは言葉にしなさい」
燈子の太刀を振るうような鋭い物言いは春佳に向けたものではないが、それでもこちらまで姿勢を正したくなるほど的を射たものだった。
とはいえ、多感な中学生には少々厳しいとも思える。決して褒められる態度ではないが、アリスにも事情があるのだろう。
「あの――」
「…………ないで」
何らかの助け舟でも出そうと思い、春佳が切り出したところへ、アリスの声が重なる。
「え……?」
聞き返すと露骨に睨まれたが、それでもアリスはぼそりと一言だけ、しかし紛れもなく彼女自身の意思と取れる言葉を絞り出した。
「……アリスって呼ばないで」
その思いの意味するところを探っていると、アリスの言葉が更に続く。
「……自分の名前、嫌いだから」
そこまで聞いて、春佳は漸く自分の失言に気づいた。
「あっ、そうか……ごめんなさい」
そういう理由なら、彼女のことを下の名前で呼んだことのみならず、それを軽率に「可愛い」と口にしたのも気に入らなかったのだろう。
遅ればせながら謝罪する春佳から目を背け、アリスは眉間に皺を寄せて不貞腐れている。それがただの不満だけではなく、ばつの悪さを感じているようにも見えた。
思春期という年齢をはじめとした諸々の要因があるのだろう。アリスはとにかく攻撃的な防衛の姿勢が強い。
これ以上話しかけたところで拒絶されることはほぼ確定的と思えたが、どこか放っておけなくて、春佳は更に会話を続けることを選んだ。
「あの……皆さんには何と呼ばれていますか。自分もそれに合わせて呼びます」
アリスから直接答えが返ってこなかったら、後でスタッフに確認すればいい、程度の期待だった。
そんな、返答がない前提の質問だったが、数秒間を置いたのち。
深い溜息をついてから、アリスが視線だけでこちらを見、またぼそりと答えた。
「……“あーりん”とか、“あーちゃん”とか」
「まあ、私らスタッフは基本的に“あーちゃん”って呼んでるね」
補足するような立ち位置で会話に加わったのは晶子だった。
晶子は気まずそうに背を丸める女子生徒を生来の勢いのままにホールドし、くしゃくしゃと戯れるように頭を撫で回していた。
「やったね。えらいじゃん、あーちゃん! しかも、呼んで欲しい呼び方まで自分で言えたんだもん」
「……うっざ。いちいち持ち上げなくていいし」
大袈裟に褒めるリアクションをアリスは鬱陶しそうに一蹴するが、晶子は意に介することなく、からからと笑っていた。
「残念でしたー。いちいち褒めるのが私のポリシーです!」
「意味分かんね。ホントうざい」
幼い一辺倒の暴言は舌打ちと然程変わらないのでは、とも思えたが、言葉になっているからなのか、燈子はそれについては支持的に見守る姿勢のようだ。
大人同士の社会ではそう頻繁には使わない粗挽きの言葉は、春佳をその度にひやりとさせる。
しかし、同時に妙に小気味よい刺激を与えた。
まだ面接前。
飽くまでも見学者の立場であるし、控えめにするのが礼儀と心得てはいる。しかし、アリスにどうしても声を掛けずにはいられない何かを、春佳は感じ取っていた。
「あの……お話ししてくださって、ありがとうございます。不快な気持ちを伝えるのって、すごく勇気が要ることだと思うので」
「え……何。今日の人、今まででいちばんキモい」
「でも、ここ最近来た人のなかでは、いちばん貴女と会話が続いたでしょう」
ほぼ予測通りの強い言葉でなじられて呆気に取られていると、燈子が間に入り、穏やかに指摘する。
すると、アリスの口元は反射的に舌打ちをしそうな形に変わったが、寸でのところで思い止まったのか、その状態のまま悔しそうに歯噛みしていた。
たった一・二往復ほどで、しかも最後は強制的に拒否される会話が、いちばん続いたと評価されるのはどういうことなのか。
春佳のなかで疑問が湧くが、そこには触れることなく、燈子はアリスと晶子に向かって言う。
「授業中にお邪魔したわね。私はこれから春佳さんと上でお話ししています。帰りにまた声を掛けさせてね」
「ええ是非」
「本当に邪魔なんだけど」
快く承諾する晶子と毒づくアリス。
相反する二つの反応のどちらに感情を合わせるべきか狼狽える春佳だったが、至って涼しい顔のまま燈子が「こちらへどうぞ」と促すので、ひとまずその後について行く。
その先には、ちょうどパーテーションの配置で隠れていた空間に木製の階段があり、温かな色合いで二階へと続いていた。
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