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そののち、ごろんと仰向けになるように体勢を変えられたかと思うと、怜が上から覗き込み、少し熱っぽい呼吸の混じった声で春佳に問う。
「――キス……してもいい?」
それを拒む理由などなかった。
人生で初めての行為を最愛の相手から受ける喜びを、素直に表現したかったのに、高ぶる気持ちに邪魔されて思うように声が出ない。
「はい」というしおらしい返事もできず、春佳はただ首を縦に動かすばかりだった。
それでも怜は笑ってくれた。目を細め、口角を緩やかに上げた優しい微笑みが、春佳の胸を満たす。
どんな顔をしたら良いか分からず、目を閉じる春佳。
温かい両手に頬を挟まれた。見えなくても分かるほど近くに、彼の影を感じる。
甘い吐息がかかって間を置かず、唇に柔らかな体温が触れる。数秒とない僅かな時間。それが何か気づくと同時に離れていく。
再び視界を開くと、顔を綻ばせてこちらを見つめる怜がいた。彼の瞳は、抑えきれない思いを訴えているように潤んでいる。
それにつられて春佳の口元も、自然と緩む。
「……ふふっ。こんなに好きな人に初めてのキスをしていただけるなんて、私は幸せです」
それが春佳の率直な思いだった。
幼く拙い空想で描くしかなかった触れ合いが、怜との間で現実に形作られた事実にこの上ない喜びを覚え、春佳はふわふわとした気持ちになる。
「なら、よかった……大好き、春佳ちゃん」
怜の顔が再び近づく。
「――もう一回、してもいい?」
先ほど同様に頷く春佳に口づける怜の所作は、今度は些か急いだ様子に見える。
直前に見たどこか苦しげな顔を思い出すのも束の間、春佳の唇に一回目とは異なる湿った何かが触れた。
それは僅かに開いた隙間からゆっくりと割り入って、そっと口内を擽る。
「……ん……っ!」
舌を絡め合っているのだという扇情的な事実に脳裏を刺激され、驚いた春佳は思わず声を上げる。かなり強い声が出たにもかかわらず、怜によって口を塞がれている今は、それが頼りなく鼻から抜けるだけだった。
それでも怜は、春佳の動揺を察知してくれた。
「……これはちょっと怖かった?」
「だ、だって、怜さん……今の、何か変でした……!」
唇が離れて自由に声を出せるようになったのに、上手く言葉を紡げない。
「今の、し、舌が……こんな、大人みたいな……いや、あの、大人なんですけど……!」
それが少女の頃に思い描いていた愛情表現よりも、一層深い形であることを、頭では理解している。
だが、長年抑圧された心は、反射的にその喜びを強い羞恥心へ置き換えるのだった。
「は、恥ずかし……あの、嫌じゃないんですけど……え、その、これはどうすればいいんですか……何が正解なんですか……? どう感じるのが……わ、分からないです、私……っ」
それは半分本当だが、半分嘘だ。
かなり狼狽しているとはいえ、怜からより濃密な接触を求められたことに、春佳自身の心も、そして身体も期待を膨らませていたのは確かなのだ。
分からない、という言葉は詭弁だ。欲しがる自分へ対する恥や罪悪感や不安を、巧みに覆い隠すための。
「春佳ちゃん、お願い……今は僕だけを見て?」
怜が春佳の上肢を抱えたまま共に起き上がり、悩ましく眉を顰めながら訴えかける。
仰向けに組み敷かれている時よりも拘束は緩くなっているのに、腰に回した彼の手が思考を甘く縛る。
「君のこれまでの環境のことは知っているし、だからこそ、この状況で価値観とかしがらみとか色んなものが湧いてくるとは思う……でもね、今ここにいるのは僕なんだよ。いいとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういうのは全部、僕のことだけを考えて感じて欲しいな……」
密着した身体の熱を確かめながら、怜が耳元で囁く。耳殻に当たる唇が震えるのに合わせて、春佳の深部にも痺れが走った。
「……怜さん……くすぐったいです……っ」
「だろうね」
「わ……わざと、そうしてるんですか……」
「そうかもね」
あっさり認めながらも、怜は口づけや息遣いによる耳への執拗な弄りを繰り返す。むず痒い感覚に身を捩る春佳を見つめながら含み笑いを漏らす彼の仕草は、優しい悪戯のようだ。
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