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6.逡イ、巡ラス
「えっ、熱もあるの? 大変じゃん」
ひと通りの症状を聞いた上で反応した怜に対して、電話の向こうの春佳は至って明るい口調で言う。
『熱といっても、微熱ですよ。寝ていれば治るような』
しかし、その声が鼻の詰まった苦しげなものであることは、誤魔化しようがない。紛れもなく風邪である。
『……ですので恐れ入りますが、今日のお約束をキャンセルさせていただきたくて、お電話差し上げた次第です』
こんな状況でもなおビジネスのような硬い敬語を貫く春佳は、滑稽なほど頑なだ。
このひと月で、毎週末会うのが習慣になりつつあった春佳と怜。どこかの店で夕食を共にし、その後ホテルで一晩過ごすのが二人の定番だったが、今日は珍しく午後の早いうちから会って、映画を鑑賞する予定だった。
『怜さんと映画見たかったですのに……痛恨の極みです』
春佳が見たがっていた映画は、最近公開されたばかりの恋愛映画だった。テレビでもCMや出演者による告知でそれなりに話題になっていた作品である。如何にもヒロイン本位の甘いストーリー。更にいえば、主役の女子高生を演じるアイドルが、以前より演技力に難があると世間から評価されていることから、怜からすると正直あまり食指の進まない作品だった。
しかし、どうしても一緒に見たいと春佳がせがむので、その可愛らしさに免じて誘いに応じた次第だ。脚本にも役者にも然したる興味はないが、そんな少女趣味ともいえる映画に夢中になる春佳をひたすら観察するのが、唯一のモチベーションだった。
「まあ一応話題作だし暫く公開してるだろうから、また改めて行こう? 約束するよ」
『すみません……っ』
言葉と言葉の合間に鼻を啜る音が混ざるのが、何とも気の毒だ。
「それはそうとして、実質一人で家にいるような今の状態で、大丈夫なの? 買い出しとか、食事とか」
『咳をしても一人、みたいな状況は、別に今に始まったことじゃないので慣れたものです。ある程度身体が軽くなるまで寝ているだけなので、お気遣いなく』
「そんな状況に慣れているっていうこと自体がもうさあ」
自由律俳句を引用してまとめられた春佳の境遇に思いを馳せ、怜の胸中が痛む。
実家でありながら、春佳以外の家族は現在殆ど出入りがない家。もとより、あまり良好には見えない家族関係。いずれにしても、体調を崩した春佳が家族に看病やサポートを頼める見込みはかなり薄い。
「――ねえ春佳ちゃん、正直に答えて。もし僕がこれから君の家に行って、ちょっとしたご飯を用意したり、買い物を代行したりするって言ったら、迷惑? 一人で休んでいる方が気楽?」
かなり踏み込んだ提案だが、現時点で怜は春佳を放っておくことができなかった。
当の本人は、暫くの間黙り込んでいる。耳に当てたスマホからは、口呼吸と思われる苦しそうな息遣いを繰り返すのだけが聞こえた。
やがて。
『……迷惑ではありませんが、怜さんに風邪を移してしまうかもしれないので、結構です』
「今聞いてるのは、君の気持ちの話。僕がどうこうっていうことじゃなくて」
自分の態度が些か押しつけがましいと自覚しつつも、春佳から明確に断られない限り、怜はこの姿勢を通すつもりだ。
怜から見て率直にいうと、春佳は不器用だ。それは育った環境のせいも大いに考えられるのだが、彼女は欲求のコントロールが下手だ。表出するべきところで抑え込む癖がある一方、こちらが驚くような形で唐突に表すことがある。
そのため、本当は助けを必要としている状況でも、それを隠している可能性が大いに考えられる。
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