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再び呼吸だけの静かな時間が流れ、そののち。
『……本音を言えば、来て欲しいです』
春佳が小さな声で、おずおずと話す。
『これといって特別頼みたいことはないのですが、傍にいて欲しいなって思ってしまいます……良くないですね。身体が弱ると、何だか人恋しくなってしまって……』
「良くないなんてことないよ。人間のメンタルってそういうものだもん。だから、そういう時はもっと遠慮なく言ってよ」
『でも……風邪を移してご迷惑をかけてしまうのは、嫌です』
「あのねえ。僕はそんなことよりも、春佳ちゃんがつらいのを一人で我慢することの方が嫌」
この期に及んでこちらに気を遣う春佳の姿勢は、愛おしくもあるが、それ以上にもどかしい。
「お願いだからこんな時くらい僕を頼ってよ……曲がりなりにも彼氏なんだから」
『はぅっ、か……彼氏……っ』
怜が何の気なく口にした単語に対し、電話の向こうの春佳は咳き込むほどの動揺を示した。
『……ど、ドキドキします……彼氏という響きが、その……』
「そこに今更ドキドキするの? そろそろ付き合って一か月だよ?」
窮屈な家庭環境で長年過ごしてきたこともあり、本来なら青春時代に経験するような交流の機会も乏しかった春佳は、はっきりいって初心だ。仕事などの社会的な場面ではともかく、怜とのやりとりのなかでは、実年齢よりもずっと幼い振る舞いを見せることがしばしばある。
それがいじらしくて、怜は時折わざとからかいたくなる。
「春佳ちゃんも、もう少し彼女としての特権行使してちょうだい」
『か、彼女……っ、そうですね……私、怜さんの彼女です……っ』
案の定単語に反応して、あからさまにどぎまぎする春佳だが、照れているような口ぶりが怜の心をいたずらに擽った。
とはいえ、これ以上病人を刺激するのも気が引けるのでほどほどにして、結論へと持ち込む。
「そういうわけだから、僕、これから春佳ちゃんのお家に行くからね。色々買い物してから行くから、一時間くらい待ってて」
『……すみません。お言葉に甘えます』
敢えて有無を言わせないように言いつけると、春佳はやや委縮した口調ながらも提案を受け入れた。強引に頷かせたことに怜の心も多少は痛むが、これが最善だろう。
それでもなお、春佳は往生際悪く「本当に無理なさらないでくださいね」「ちょっとだけでいいですから」と何度も念押ししていた。
怜はそれらに対して「分かったよ」と宥めながら、やがて通話を終える。
そして立ち上がり、部屋の壁に掛けていたボディバッグを手に取り、腕を通したのだった。
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