6.逡イ、巡ラス

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~~~~  春佳の住居は彼女の親名義の家であり、当然怜が合鍵を持っているはずもない。  インターホンで呼び出して、体調の優れない彼女に出迎えてもらうのは、仕方がないとはいえ居たたまれなかった。 「わざわざ部屋から下りてもらうことになっちゃって、何だか却って申し訳なかったなあ」 「別に動けないほど弱ってるわけじゃないので、気になさらないでください。それよりも、家まで来てくださってありがとうございます」  春佳本人曰く微熱ということだが、確かに電話で話した印象で想像したよりは、顔色は悪くないように見える。ただ、鼻の詰まった声と時折出る咳が、やはり気の毒だ。 「あの……こんな失礼な格好ですみません」  マスクで半分覆われた顔からでも伝わるほど、春佳は恥ずかしそうにもじもじしている。  量販店のものとすぐに分かるデザインのルームウェア。下は灰色のスウェットパンツ、上は同じ素材で灰色と白のボーダー柄になっている。似合う似合わないよりも、機能性重視で選んだのだろう。 「僕、そういうの気にしない。ていうか、風邪引いて家にいるんだから楽な格好で当たり前でしょ」  怜が春佳の家に立ち入ったのは、八年越しに再会したあの日以来のこと。しかし、彼女の自室に通されたのは、今日が初めてだ。  以前訪れた際に上がったリビングもかなりすっきりした印象だったが、春佳個人の部屋も長年住み続けているとは思えないほどに簡素なものだった。暮らすのに必要な最低限のものだけ置いているといった部屋だ。  それでも、怜と付き合ってから、自室用の小さな折り畳みのローテーブルと来客用の座布団を購入したのだという。 「どうぞ座ってください。今、お茶を淹れてきますね」 「――いや、違うでしょっ」  ごく自然な流れで着座を促されたところを、怜はぎりぎりのところで拒む。 「僕がもてなされちゃ駄目じゃん。君の看病をしにきたのに」  春佳をこれ以上放っておくと、怜に対してあれこれ気を遣って動き回りかねない。  そんな彼女に横になっているように言い、来る途中で立ち寄ったドラッグストアの袋から買ってきたものをひと通り出して、ローテーブルの上に並べる怜。ひとまず風邪薬と冷却シート、のど飴は症状への応急処置として。汗を掻くような発熱ではなさそうだが、一応スポーツドリンクも500mlのペットボトルで二本買った。  それから、怜が帰った後でも食事を摂りやすいよう、レトルト食品や缶詰もいくつか。仮にそれらが余ったとしても、ある程度の期間は保存できるだろう。 「あと、今は食欲ある? うどん買ってきたんだよね。よかったら一緒に食べない?」 「食べます、一緒に食べます……!」  春佳の目がぱっと輝き、声に少し張りが出る。  時間帯も正午を過ぎたところだったので、昼食時にはちょうど良い具合だ。つゆと一緒に煮込む具材もあるので、多少の調理時間は要するが。 「そしたら、ちょっとだけキッチンをお借りしてもいい? なるべく汚さないようにするから」 「勿論です。ご案内しますので、どうぞお使いください」  心なしか浮足立った声色で言う春佳は、性懲りもなくベッドから降りる。 「いや、春佳ちゃんは寝ててよ。この間リビングにお邪魔した時に見えた、カウンターの奥がキッチンになってるんだよね。食器とか調理器具の場所だけ言ってもらえたら、それ以外の場所は開けたりしないし、作ったら部屋まで運ぶからさ」  風邪を引いた彼女を看病するつもりで訪問したのに、却って煩わせることがきまり悪くて、怜は言う。  しかし、何故か春佳は物言いたげに目を伏せていた。 「……それとも、自分が見えないところでキッチンに入られるのは、流石に嫌?」  交際を始めて一か月が経つとはいえ、怜がこれまでに春佳の家に立ち入った機会はごくわずか。一応家族も住んでいる実家で、あちこち動き回られるのが嫌だという考え方も、理解の余地はある。  ところが、春佳の言いたいことは、そうではなかったようだ。 「いえ、キッチンを使っていただくのは本当に構わないんです。どうせ、今は親も殆ど帰ってきませんし。ただ、その……」  はにかむように身をくねらせる仕草ののちに、続く言葉。 「部屋で待っているのが寂しくて、怜さんについて行きたいだけなんですが、駄目でしょうか……?」  まるで子どもの他愛のない駄々のよう。待ち時間なんて、せいぜい二十分もかからないはずだ。しかも、家のなかでのことである。  なのに、待てずに怜について回ろうとする彼女のいじらしさは、こちらを何とも言えない気持ちにさせる。 「もう……今日の春佳ちゃんは、甘えん坊さんなんだね」 「……すみません、迷惑なら控えます」 「いいよ。僕としては、気を遣って動き回って欲しくないから寝てるように言っただけで。でも本来は君の家なんだし、身体がつらくないならそこは好きにしなよ」  春佳本人の気持ちを抑えつけてまで部屋で待機させる理由はなかった。  怜から許しが出たという解釈なのか、こちらの言葉に対して彼女が「ありがとうございます」と繰り返し礼を述べるのが、非常に気まずい。意図していたことではないとはいえ、何だか相手の行動を制限してしまったようで、妙な罪悪感が湧く。  そんな感情を覆い隠すために、怜は春佳の頭へ手を伸ばして髪を撫でた。  恐らく、怜の胸の内には気づいていないのだろう。春佳はその行為をいつもの愛情表現だと思っている様子で、無邪気に喜んでいる。  屈託なく笑って、「嬉しいです」と自ら首を傾けて頭を寄せる彼女は、ますます幼い子どものように見えた。
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