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そういうわけで、相変わらず胸騒ぎを抱えたまま過ごしている春佳の日常だが、それとは別の動きもあった。
転職のことである。
現在の職場は、十一月いっぱいで退職する手続きを既にとっている。同僚の赤城が休職してただでさえ人手が不足している状況だったので、上司は少々難色を示していた。それでも、思い切って母親と同じ勤務先であることもあり、働きづらさを感じていると打ち明けたところ、彼も「まあ、それも尤もだな」と理解を示してくれたのだった。
それで、最近は残りの業務を整理しながら、同時並行で次の職場を探していたところ。
そんなさなか、春佳にとって非常に好条件の就職先が幸いにも見つかった。
大学時代にアルバイトをしていた学習塾が、市内で別の新たな教室を開くことになったのである。
なるべくなら自分の経験のある職種に就きたくて、事務関係か教育関係の職場を検索していた春佳。就活サイトで、その塾がオープニングスタッフを募集しているのを見つけたので、正職員の勤務条件や業務内容を確認した上、連絡を取り、履歴書を送った次第だ。
すると有難いことに、春佳のことを覚えていてくれたオーナーが、面接も兼ねて是非見学に来て欲しいと歓迎してくれたのである。
有休消化も兼ねて、水曜日。十四時に差し掛かる時刻に、春佳はその塾を訪れる。
新しい教室は最寄り駅の西口から十五分ほど歩いた県道沿いにある。以前は調剤薬局が入っていたテナントをリフォームした小ぢんまりとした建物だ。
「お久しぶり、春佳さん」
「燈子先生、ご無沙汰しております」
春佳を出迎えた年齢にして五十代後半の小柄な女性は、オーナーの安中燈子である。ふっくらした丸顔、笑った時にくしゃっと細くなるたれ目、スローテンポな話し方、その全てが似合う人となりだ。
春佳がアルバイトをしていた当時から、特に若い女性職員の間で「憧れのマダム」と親しみを込めて評価されていたのが印象的だった。ただ、当時四十代の燈子がマダムと呼ばれていたことが適切だったかどうかは、些か意見が分かれそうなところではあるが。
「この度は新しい教室の開設、おめでとうございます」
「ありがとう。こういう形で春佳さんにまた会うことができて、とても嬉しいわ」
この度開所を予定しているのは個別指導塾である。ワンフロアの室内を高さのある衝立で区切って、四つのブースが設置されている。各ブースには机と椅子が一組と、それとは別に丸椅子が一つ置いてある。生徒が学習に取り組む際、それぞれ担当の講師が傍について指導をするとのこと。その他教室の隅には、資料や備品をまとめて置いてあるスペースもあった。移動式のホワイトボードやタブレット端末などもあり、これらを使って授業を行うのだと推察される。
現在は開所前の準備期間中だが、そのうちの一つのブースには既に人の影があった。
燈子は春佳を連れて、そこにいた者達へ話しかける。
「晶子さん、あーちゃん。こちら、春佳さん。今日は見学と面接にいらしてくれたの」
そこで机を直角に挟むように座っていたのは、燈子よりもやや年下と思われる女性と、中学生くらいの女子生徒だった。
二人が囲んでいる机の上には、社会科の資料集や地図帳、そして課題プリントと思しき用紙が乗っていた。
「ああ、初めまして。館林晶子です。こちらの教室の管理者になります」
燈子に声を掛けられて立ち上がり、対応する彼女は、即ち教室長に当たる人物である。
春佳からも改めて名乗り、その後話を聞くと、この晶子が燈子の妹であることが分かった。市内の高校で教員として働いていたところを二年前に早期退職し、姉の経営する塾で講師として勤めていた。それでこの度、新たな教室を開設するにあたり、教室長の職に抜擢されたとのこと。
晶子の第一印象は、力強く活発な印象だった。燈子に比べると細身だが伸びた背筋が美しくも頼もしい。教師という人を導く職にかつて就いていたことが、まさにイメージ通りだと春佳は思った。
「この子は桐生アリスちゃん。今は中学二年生で元々中央教室に通ってたんだけど、今度からこっちの西教室に通う予定だから、オープン前だけど一足先に利用しているの」
中央教室というのは、春佳も以前にバイトをしていた、以前から営業している施設のことを指す。教室が二つになるので、そちらを中央教室、そして開所予定のこちらを西教室と呼び分けているらしい。
それらを含めて晶子がざっくばらんな調子で説明しながら、傍らの女子生徒を紹介する。
ところが、アリスと呼ばれた彼女は一向に言葉を発することなく、春佳を睨めつけるように見上げていた。
彼女の出で立ちは、まるでこちらを威嚇しているかのようだった。特に目元を中心に装飾している色の強いメイクと、黒を基調としたパンクファッション。一見すると作業着のようにも見える彼女の身体よりもワンサイズ大きいその服は、ごつごつしたベルトやアクセサリーのシルバーがアクセントになっていた。反面、長い髪の毛を高い位置で二つに束ねているのが、威圧感を何ともいじらしいものにしている。
そんな取っ散らかった幼さを感じるものの、春佳はそれが嫌いではなかった。
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