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第二話 古文書の謎
ここは横浜市の外れにある「くわしい探偵社」である。昨日も今日も、朝から開店休業状態。社長であり探偵員の小夜子さんは暇だった。
小夜子さんは自治会館の掃除に駆り出された。今年は回覧板を回す係になっていた。こちらは順番で回ってくるからいたしかたないが、自治会館の掃除当番があるなんて聞いてなかった。しかも、平日の昼間の作業なので現役で働いている人は出てこられない。手伝える人なんて、よっぽどのヒマ人だ。小夜子さんは、その、よっぽどに入るのである。
自治会館は50人くらいが入れる広さだった。机を一方に動かし床を掃除して、次に机と椅子を拭き、一時間ほどで終了した。最後にカップ麺をもらった。災害用の備蓄品だから消費期限が迫っているのだそうだ。これくらいしてもらわないと割りが合わない。
自治会長さんが壁に掛かった大きな額を指差した。
その額には草書体の達筆な字で三文字書かれてあった。小夜子さんは、右端の文字は守と読めたが他の二文字が読めなかった。波と難の字のようだ。
会長さんによれば、この三文字は右から順に、守と破と離で、しゅはり、と読むのだそうだ。見た目には左から横書きで『離破守』と書いてある。しゅはり、だとすると右から左へ読むことになる。小夜子さんは、昔は今とは逆に右から左に横書きにしたのだと思った。
守破離は初めて聞く言葉だった。これは、茶道や剣道の修練方法のことで、入門時は先生の教えを守る、次の破になると他の流派にも学び、最後の離は習得した型を離れて自分の道を切り開くという意味だった。
「この間、ここで、周辺の自治町内会の会合があって、隣の地区の町内会長が読み方や意味を教えてくれたんだ。その人は高校の歴史の先生だったので、こういう古い書を読むのが得意らしい」
自分では読めなかったようだ。お年寄りの会長さんが読めないのだから、小夜子さんが読めないのも無理はない。
「この額の文字は横書きのように見えて実は縦書きなんだよ。かつては日本語は必ず縦書きにして、横書きにすることはなかった」
と会長さんが言った。
見た目は横書きなのに本当は縦書きだなんて、いったい何を訳の分からないことを言い出すのか。どうせ、これも近隣の地区の町内会長から仕入れたばかりの知識だろう。
「そこの、あなた」
小夜子さんが指名された。
「はて、誰だったかな、初めて見る顔だが、自治会の新入会員かね」
すると、隣にいた副会長が「くわしい探偵社」の人ですよ」と言った。会長さんにはいまだに顔も名前も憶えてもらっていないのだ。
「探偵ね・・・あなた、私が言う通りにホワイトボードに書いてみなさい」
「はい」
返事は良いが小夜子さんはふくれた。何で私なんだよ、それに命令口調だ。小夜子さんはブツブツ言いながらマーカーを持ってボードの前に立った。
「守破離の文字を縦書きで書いてもらおう。ただし、一行に一文字ずつ書くんだ、すると、嫌でも横書きみたいになるから不思議だ」
会長さんが大きな文字で守と書くように言ったので、小夜子さんはホワイトボードの右端にでかでかと『守』と書いた。
「ここからだよ、縦書きなんだけど一行には一文字だけだ。さあ、どうするかね」
「縦書きなんでしょう、けれども、一行は一文字ってなると、守の下には続けて書けないから、二文字目は次の行へ移るしかないですね」
小夜子さんは、次の行、すなわち、『守』の左隣に『破』の字を書いた。
「あ、ホントだ。右から左へと横に書いちゃった」
「言っただろう、これで一行に一文字ずつ書くと、縦書きしても、横書きのように右から左に書いたことになるんだ」
「さすがは会長、お目が高い」
横合いから副会長さんがお追従を言った。完全なゴマスリだ。それに、お目が高いとは、鑑賞力があるという意味だから、このような場合に使うのは適切ではない。
「二文字では中途半端だ、三文字目の離の字も書いてごらん」
そう促されて小夜子さんはマーカーを握り直した。だが、チョンと点を打って、横棒を引いたところで手が止まった。
「ええと・・・」
離の字はどう書くのだったか思い出せない。
チョンに横棒、その下は・・・
スマホはひらがなを入力すると漢字に変換してくれる。そのうえ、探偵社では依頼者への報告はパソコンで文書を作成しているので、漢字を手書きする機会がなくなっていた。
結局、小夜子さんは離の字が書けなかった。自治会の会長さんたちには、小学校で習う漢字も書けないと決めつけられてしまった。
漢字なんて、読めるけど書けないのが普通だ。そんなに言うなら、試しに薔薇という漢字を書いてみなさい、憂鬱と書いてみなさい、誰だって読めるけど書けないのだ。
だいたい、自治会はあの会長のような古手の守旧派が牛耳っていて、長老たちの壁は打破できない。自治会離れが進む原因はここにある。これが自治会の守破離だ。
小夜子さんは、二度と自治会の行事には行くものかと口惜しがった。
「まったく、憂鬱になるよ、ゆーううつに」
ところが、それから十日後、小夜子さんは、高校の歴史の先生だという隣の地区の町内会長さんを訪ねることになった。というのは従兄から鑑定の仕事を頼まれたのである。
東京に住む、年の離れた従兄新田六兵衛さんの家に骨董屋がやってきた。骨董屋は古い手紙が写った写真を見せた。それは江戸時代の書状で、そこには、新田六太夫を上野守に任ずると書かれてあった。
しかも、「此の度の仇討ちに仍って」とか「承り候」という文言も見られた。
これを見て従兄の新田六兵衛さんは、ハタと膝を叩いた。
新田家は先祖代々、名前に六の字が付く人が多い。六太夫という人も実在しただろう。しかも、現在は東京に住んでいるが、もとをたどれば群馬県の出身である。群馬はその昔は上野国といった。ここまではピタリと当たっている。また、書状の中の、仇討ちとは赤穂浪士の討ち入りであるのは間違いない。つまり、吉良上野介に替って先祖の新田六太夫が上野守に任命されたということになるのだ。
骨董屋は、この書状は新田家の手元にあるべきだと言った。すなわち売り込みである。持参したのが写真なのは、実物は年月による破損もあるという説明だった。
これは凄いことではないか。しかし、これまで先祖に関して、上野守であったという話は伝わっていない。骨董屋の話を信じていいものか迷った。そこで、探偵社の小夜子さんに白羽の矢が立った。その書状の内容が事実かどうかを調べてくれというのである。
小夜子さんは書状を解読しようと思った。くねくねとした草書体で書いてあるので、ところどころは読めても解読となると容易ではない。先日の守破離よりも難解だ。さらに、承り候などと、古めかしい文体だ。高校で習った古文や漢文の知識では、江戸時代の古文書には歯が立たなかった。
つい先日は、離の漢字が書けなかった。読めるけど書けないのは普通なのに、今回は読むことすらできなかった。
そこで、元教師の力を借りることにした。しかし、隣の地区の会長の桜木氏とは面識がなかったので、あの守旧派の自治会長に紹介してもらった。
桜木氏は元歴史の先生だということで、角ばった顔の、いかにも学者先生のような人に見えた。小夜子さんは鑑定を頼んだ手前、恐る恐るといった感じで尋ねてみた。
「この古文書、先生の鑑定ではいかがですか」
とたんに、何を言ってるのかという表情をされた。出だしからいい感じがしない。
「これはいけませんなあ」
桜木氏は書状の写真から目を逸らせた。
「残念ですが、これは贋作です、ええ、全然ダメですよ。骨董屋はひと儲けようとした企んだのでしょうが、これで人を騙せるとは思えません」
あっさり贋物だと言われてしまった。
「ダメでしたか、この古文書は・・・」
小夜子さんはため息をついた。すると桜木氏は、こっちの言うことを聞いていなかったのか、みたいな目つきをした。
「ここに、上野守と書いてあるんだが、そもそも、これが大きな間違いです」
そう言って、書状の写った写真の真ん中あたりを指した。
「あなたは何も知らないようだから、手始めに官位について説明しましょう」
いかにも元教師の口調である。
「律令で四等官制度というのが決められていて、それぞれの役所に、長官・次官・判官・主典という役職を置いたんだ。これを、かみ・すけ・じょう・さかん、と称した。役所ごとに表記や読み方が異なり、一般的な省では、卿・輔・丞・録といい、国は、守・介・掾・目というんです」
その他、鎮守府では長官は将軍、主典は軍曹、衛府では長官は督、次官は佐、判官は尉などとなる。
「かみ・すけ・じょう・さかんの四等官制度は、現在の会社で言えば、社長、部長、課長、係長みたいなものです」
「それなら私にも分かります」
「そこで、問題の上野守、こうずけのかみ、なんだが、上野国は親王任国と言って、親王、つまり、天皇家の男子が長官である守に任ぜられるしきたりになっていた。特別に太守と称していました。親王が上野太守に任命されるので、貴族や武家は次官である上野介が最高位なんです。親王任国は平安時代以降は形式的になるんだが、江戸時代には本多正純、小栗忠順が上野介を拝命した。中でも上野介といえば、吉良義央、すなわち、吉良上野介が知られていますね」
「それじゃあ、先祖が上野守に任命されたのはあり得ないことなんですか」
「そういうことになります」
さすがは歴史の先生だけあって、四等官、親王任国制度など今まで知らなかったことを懇切丁寧に解説してくれた。だが、鑑定の結果は残念なものだった。
「有意義なお話、ありがとうございました。歴史の授業を受けているみたいでした。結局のところ、この古文書は贋物だったんですね。従兄には買わないように伝えます」
小夜子さんがそう言うと先生がゴホンと咳をした。どうも先ほどから古文書と言うと怒ったような顔をする。贋物と判定したのだから、次は鑑定料の催促だろうか。とりあえず、従兄から預かった五万円を用意してある。
「確かにこれは贋物だが、授業料だと思って買ったらどうでしょうか」
「授業料ですか」
鑑定料ではなく授業料だという。いかにも高校の先生らしい。
「そうです、授業料です。昔から道具屋が持ってくるのは大概が贋物と決まっている。それを承知で買うのが金持ちの金持ちたる由縁です。そうやって、何度も贋物を掴まされているうちに、だんだんと目が肥えて、真贋を見極める力が身に付いていくんです。そこで、頃合いを見計らって道具屋が本物を持ってきます。金持ちは、何時の時代の何々と、その品の来歴を言い当てる。道具屋は、よく勉強しましたねと言うわけです。これが授業料ということです」
桜木氏は、昔の資産家は鷹揚なもので、贋物を買わされるのも遊びだと割り切っていたと言った。現在ではそうした風潮はなくなり、騙された方は詐欺だと訴える。世の中がギスギスして、これでは風流とは言えなくなったと言うのである。
「ありがとうございます。今のお話を従兄に聞かせます。ところで、先生、今回の鑑定料はいかほどでしょうか」
「鑑定料、そんなものはいりませんよ。だって、鑑定するまでもなかったんだから」
桜木氏が鑑定料は受け取らないと言ってくれたので小夜子さんは喜んだ。初めは怖かったが、いろいろ教えてくれるし、鑑定料はタダだし、思いのほかいい人だった。
「あなたは漢字が書けないという評判だそうだな」
「はあ、ええ、まあ」
喜んだのも束の間、字が書けないと言われてしまった。地元の自治会長さんが先日の一件を桜木氏に喋っていたのだった。
「どうも、話を聞いていると、書けないどころか、読めないようですね」
「それはまあ、江戸時代の古文書でしたから、字が崩してあって読めませんでした」
「いや、僕が言いたいのは、あなたはさっきから『こぶんしょ』と言っているけど、正しくは『こもんじょ』と読む、ということなんです」
「はあ、こもんじょ、でしたか」
肝心なことを言い間違いしていたのだった。小夜子さんは桜木氏の前では、ずっと、こぶんしょと言い続けていた。そういえば、こぶんしょと言うたびにジロリと睨まれたりした。それには理由があったのだ。
「日本史学では江戸時代までの文献史料は、文書、すなわち、もんじょと言い、明治以降の文献は同じく文書と書いて、ぶんしょと言っているんです。古文書は、こもんじょと読み、現代の公文書は、こうぶんしょと読むので混乱しがちです」
「もんじょとぶんしょ。そうだったんですか、初耳でした」
「文書、もんじょ、には書状、安堵状などがあり、これが『古文書』で、研究の上では一級史料となります。これに対して後の時代に編纂されたものを『記録』と言います。記録というのは、例えば、吾妻鏡ですね。鎌倉時代を研究するには欠かせない重要な史料です。ただ、記録類は編纂した人の手が入っているので、書かれている事柄が必ずしも歴史的事実だとは限りません。そこはよく注意しましょう」
なるほど、これはいい勉強になった。小夜子さんは先生の話をノートに書き留めた。まるで学校の先生と生徒のようである。そうだった、桜木氏は元教師なのである。
「古文書の話をしましたが、それでは記録はどうかとなると、平安から江戸時代までのものは、『古記録』、すなわち、こきろく、と言います」
小夜子さんは古記録と書いた。
「明治、大正ともなると古いとは言えなくなりますね。ことに昭和ともなれば、その記録に書かれた当事者や関係者が存命中というケースもある。それを一概に古いと決めつけては気の毒です」
言われてみればその通りだ。終戦の年に生まれた人は現在では七十八歳くらいだ。まだ現役バリバリの人もいる。
「では、小テストをしましょう」
「小テスト?」
「江戸時代までの記録は古記録ですが、それでは、昭和の記録は何というでしょうか」
「ええと・・・新しいから、新記録ですか」
「新記録、正解です。日本なら日本新記録、世界ならば世界新記録、略して世界新」
「世界新?」
「陸上男子100メートルの世界記録は9秒58。これよりも速く走ったら世界新記録を出して、金メダルは間違いない。東京オリンピックでは日本勢は頑張った。いやあ、感動をありがとう」
・第二話 終わり
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