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 施設での勤務を開始し、二か月余りが過ぎたころ、私はそれまでは注意深く現金出納の帳簿に記入するときに書き損じないよう気をつけていたのだが、とうとうやってしまった。「1020」と書かなければならないところで、「1200」と書いてしまったのである。  帳簿の締めは月末なので、今すぐにどうこうというわけではないが、訂正印を押さなければならない。そして私は、訂正印用の小さな印鑑を、まだ所有していなかった。  翌日の休日、私はさびれた商店街のハンコ屋に行くことになった。  ハンコ屋の横開きのドアを開けると、店内には誰も居なかった。 「すみませーん」と私は店の奥に向かって声をあげた。  回転式の棚には、五十音順に並べられた印鑑が蓋の向こうにびっしりと並んでいる。また、レジが置いてあるカウンターのむこうは畳が敷かれた空間になっていて、印影を拡大コピーした紙がいくつか無造作に置かれていた。 「はいはい」という返事がようやく返ってきて、私よりも一回りくらい歳上の女性がカウンターに現れた。 「すみません、印鑑作っていただきたいのですが」私は言った。 「どのような印鑑ですか?」 「訂正印に使う、小さい印鑑なのですが……」  私は自分の姓を告げた。  すると店の女性は、「ちょっと待ってくださいね」と言い、カウンターの下にしゃがみ込んだ。  間もなく顔を上げて、 「既製品でよろしければ、これがありますが」  そう言って私に小さなつやのない、焦茶色の棒を手渡した。  私はそれを見る。鏡に映したように反転した私の姓が、そこに掘られてある。  私は面食らって、しばし茫然とした。  私の姓は、かなり珍しいものである。親族以外で、同じ姓の人に会ったことは一度もない。あまり有名でない音楽家に同じ姓の人がいるので、全国を博捜すればそれなりに同姓の人はいるのかもしれないが、珍しいことには違いない。  その姓の、しかも訂正印が、このさびれた商店街のハンコ屋に眠っていたということに、私は衝撃を受けたのだった。 「もし別のがよろしければ、印鑑を作成しますが」  そう言われて私は、「これをください」と返事をした。 「もう一度、漢字が間違ってないかご確認ください」  私は目を細めて反転した私の姓を見る。なぜか、鏡に映った自分の顔を覗いているような気分になった。  そして私は、代金である一五七四円を支払い、小さな紙袋に入れてもらった訂正印を受け取って、ハンコ屋を出た。「印鑑が出来上がるまで何日くらいを要するだろうか」という私の見積もりはまったく無駄なものとなった。  ハンコ屋を出て、この訂正印は私に買われるために存在した、私は傲慢にもそう思った。  私以外に、私の姓と同じ人がこの街にいるとも思えず、なれば私以外の誰がこれを必要とするだろうか。この訂正印はハンコ屋の片隅に埋もれて、私が現れるのを何年も、或いは何十年も待ち望んでいたに違いない。    私は帰宅して、もう一度訂正印を手のひらの上に乗せて眺めた。幅五ミリに満たないほど細長く真っ直ぐなそれは、伸び切ったときの尺取り虫のようだと私は思った。 了
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