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既に全員分のパイプ椅子が並べられており、正面の講壇へ近い順に1年生から3年生の区分けがされている。2年生の席からは、1年生の席の中で頭一つ飛び出した背の高い生徒の後ろ姿がよく見える。牟児津の10年来の幼馴染みの、瓜生田 李下だ。牟児津はその姿が視界に入っているだけで、なんだか心強い気になっていた。
生徒らの不安げな話し声が講堂の壁に響き、言語が雑音になって耳に届く。そのざわつきなど聞こえていないかのように、講壇にひとりの生徒があがった。その姿を現した瞬間、講堂を包んでいたざわつきは一瞬のうちに消え去った。
その生徒は、マイクの前に立った。
「皆さん。ご機嫌よう」
教室で聞いた、あの甘ったるい声だ。講壇に登る段階から一言目を発するまで、その動きは洗練され一切の無駄がなかった。輝く桃色の髪には全く乱れがなく、きれいな軌道を描いて後頭部から腰の下まで流れ落ちている。清楚に着こなした制服の上からでも分かる抜群のプロポーションと、上品な所作を指先まで張り巡らせる凛々しいほどの精神力、そして少女漫画から飛び出してきたかのように円らな両眼。
離れた場所からでも分かる。クラス中が夢中になってしまうのも納得してしまうほど、その姿は魅力的に映った。この人と同じ学園に通っているという事実だけで、胸が激しく高鳴ってしまうほどだった。そうなってしまっている自分に気付いたとき、牟児津は顔が赤くなるのを感じた。
「生徒会本部副会長の田中です。本日ここには、学生生活委員長として立っております」
田中 光希が薄く微笑む。講堂中が桃色のため息を吐いたのが分かった。
「この度は急に御呼立てにもかかわらずお集まり頂き、誠にありがとうございます。どうしても皆様にお伝えしなくてはならないことが起きてしまいました」
ただ軽く会釈をしただけだった。それなのに、まるで田中が間近にいるかのように、教室に漂っていた残り香と同じ匂いがした気がした。はっとして周りを見ると、クラスメイトのほとんどはうっとりしている。田中の魅力は強烈だった。もはや精神攻撃に匹敵するレベルだ。
「先日」
少しだけ、田中の声色が変わった。相変わらず品性を感じさせるものではあったが、とろけるような甘さの代わりに、堅牢な鉄塊のような重さを感じさせた。ふにゃふにゃにふやけた生徒たちの心には、冷たい鉛を押しつけられたように感じた。
「とある部が部室を引き払い、一件の空き部室ができました。既に引越作業は完了しており、そこは現在完全な空室です」
講堂が大きくざわついた。部室棟に空室が生まれることなど、めったにないことだ。そこに部室を構える部は、いずれも優秀な部員や実績に富み、少なくとも数年間は部の継続が安泰であるという認識が、学園内にはある。しかし必ずしもそういった部ばかりではないことを、牟児津をはじめ数名の生徒はよくわかっていた。
「空き部室の受入先は未定となっておりますので、部屋の鍵は学生生活委員室で保管しておりました。で、ですが……」
田中が、突然口ごもった。講堂中が生唾を呑み、次の言葉を待つ。
「そ、その鍵を……紛失いたしました。誠に申し訳ございません!」
再び田中が頭を下げた。先ほどと同じ香りは漂ってこなかった。その代わり、一段と大きなざわめきが講堂を埋め尽くした。部室棟に空き教室が生じ、その鍵を事もあろうに紛失し、生徒会副会長が表に立って謝罪している。いずれも珍事中の珍事、前代未聞の出来事の連続である。
「本日は活動実績定期報告書の提出〆切だったため、人の出入りが頻繁にありました。常に委員が在室している必要がございましたが……つい、わたくしがお部屋を空けてしまい、部屋に戻ったときには鍵がなくなっておりまして……!皆様がわたくしを信用して鍵の管理をお任せて頂いていたのに、なんとお詫びを申し上げれば良いか……!」
「委員長は悪くないです!仕方ないですよ!」
「そうですそうです!」
「泣かないでー!」
「アイドルかよ」
さめざめと涙を流す田中の哀れな姿に耐えかねて、講堂のあちこちから慰めや励ましの声が飛ぶ。こんな全校集会があるか、と牟児津は逆に冷静になってしまったが、どうやら多くの生徒は田中に同情しているらしい。
「温かいお言葉、感謝に堪えません。ですがこれは学生生活委員会──否、わたくしの失態です。謹んでここにお詫びを申し上げます」
要するに、委員室で保管していた部室の鍵を失くしたという話だ。鍵の紛失は確かに一大事だが、牟児津にはあまり実感がわかなかった。学内施設の管理は生徒会と教師側で完結する話であり、全校生徒を呼び出すほどの大騒ぎなのだろうか。
田中が生徒を集めさせた理由は、すぐに分かった。
「鍵が既に複製されている可能性を考慮し、当該部室の鍵は学生生活委員会の予算で更新を行います。しかしわたくしは……お尋ね申したいのです」
「な〜に〜?」
「アイドルじゃん」
もはや講堂は田中の涙によって完全に緊張の糸が切られ、その発言のひとつひとつにリアクションを返す場となっていた。恐ろしく支配的な田中の魅力と、あっさりそれに流されている周囲に、牟児津は半ば呆れていた。
「いま鍵をお持ちの方、どなたかは存じませんが、どうかその鍵をわたくしにお返し願います!そのまま鍵をお持ちになることはあなたの為になりません!今でしたらまだ間に合います!何卒、ご自分でお申し出ください!」
悲痛な叫び、そして完全な静寂が訪れる。瞳を潤ませ、声を震わせ、懸命に放った田中の叫びは、講堂の壁を虚しく叩くだけに終わった。数秒の間をおき、田中は残念そうに俯き、そして再び口を開いた。
「……残念です。一時の気の迷いはどなた様もあるもの。清らかな心でありたいのなら、その迷いを濯ぐのは今でしたのに」
その声色は、聞く者の心を痛くなるほどに締め付けた。まるでそれが自分に向けられたものであるかのように、田中の言葉はいちいち人の心を揺さぶる。だからこそ、次の発言で、弛緩しきった講堂の空気が再び引き締められた。
「それでは、学生生活委員長として強硬手段を執らせて頂きます」
雲行きが変わってきた、と牟児津は肝が冷える気がした。ついさっき涙ながらに叫んでいた田中の表情は、今や力強い決意と若干の興奮に満ちている。初めに見せた淑やかで愛くるしい表情といい、いくつの顔を持っているのか分からなくなってくる。
「本日16時半ちょうど、わたくしは学生生活委員室にてお待ちしております。そこに、件の部室の鍵をお持ちください。お持ちいただいた暁には、学生生活委員長権限で、現在空室となっている部室、その新しい鍵と交換いたします」
再び、水を打ったような静寂。続けて押し寄せてくるどよめき。田中が何を言っているのか、誰もが理解しかねた。鍵を持って来た人物に空き部室を譲り渡すという宣言。それは、鍵を盗んだ者にとって得しかないのでは。しかし徐々に、講堂は田中の意図を理解し始めた。
「いま鍵をお持ちになっている方でなくてもも結構です。指定の時刻に鍵をお持ちになった方ならどなたでも、わたくしは交換に応じます。皆様、部室をお求めでしょう?」
「ほ、欲しいですー!」
「部室!夢にまで見た部室のチャンスだ!」
「鍵を持ってるのはどいつだ!見つけてふん縛れ!」
興奮と熱狂。津波のように押し寄せたその感情の変化に、牟児津はついていけずただ飲まれて耳を塞いだ。見れば多くの生徒は席を立ち、拳を振り上げている。
「皆様、お気持ちはお察ししますが、どうか伊之泉杜学園に通う淑女としての自覚を忘れずに。危険行為や校則違反はなさらないよう、くれぐれもお願いいたしますね」
「うおおおおおっ!!」
「これのどこが淑女だよ」
「わたくしからは以上です。では皆様、ご機嫌よう」
激しく高揚する講堂を残して、田中はそそくさと講壇から降りて姿を消した。後に残ったのは、部室を獲得する千載一遇のチャンスに興奮した部室を持たない部会に所属する生徒たちと、その熱に当てられて同様に興奮している生徒たちだった。それについていけない牟児津は、終わったなら早く教室に戻りたい一心で、耳を塞いで座っていた。
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