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第1話「アイドルかよ」
なんでもない穏やかな日だった。午前の授業は退屈だったが、それもいつも通りだ。昼休みにまったりと昼食を摂った後はずっと机に体を預けてのんびりとしていた。午後の授業が始まるまでまだ時間がある。先にトイレを済ませておこうと、牟児津 真白は席を立った。
席を外していたのはほんの数分だったが、牟児津がクラスに戻ったとき、空気がまるで変わっていた。砂糖水の雨でも降ったかのような、ほのかに甘い匂いが漂っていて、クラスメイトたちの顔はどことなく蕩けている。
「どったの?」
誰に言うともなく、牟児津は問いかけた。返事をしたのは、普段の凛とした顔つきがすっかり崩れて落書きのようになった、時園 葵だった。
「た、田中副会長がいらしたのよ……ステキだったわぁ……」
顔だけでなく声も蕩けている。うっとりした表情で薄く頬を紅潮させているのは、恋する乙女ようだ。副会長と聞けば、さすがの牟児津も誰のことか分かった。ここで言う副会長は、高等部生徒会の副会長だ。だが牟児津は、その詳しい人となりは知らない。
「ふーん。副会長ってどんな人だっけ」
「伊之泉杜学園高等部生徒会本部副会長兼学生生活委員長、田中 光希先輩よ!!知らないとは言わせないわよ!!」
「ひえっ」
不用意な牟児津の発言は、時園をはじめ多くのクラスメイトの蕩けた顔を敵意に満ちた顔に変えた。時園が捲し立てた副会長の肩書きも、牟児津にはその半分も理解できなかった。掴みかかられるような勢いで詰め寄られた牟児津は、近くにいた葛飾 こまりに目で助けを求める。
「あの、真白さん。高等部には生徒会本部と十一委員会があることはご存知ですか」
「そりゃさすがに」
正直なところ、牟児津は委員会が11もあるのは知らなかったが、小さい見栄を張った。
「生徒の自主性を重んじることを是とする伊之泉杜学園では、より生徒に近い位置にいるという理由で、学園本体より生徒会の方が実質的に学生生活全体を取り仕切り、管理する立場にあるんです。中でも高等部では生徒が精神的に成熟しているということで、各委員会の長と生徒会長及び副会長から成る生徒会本部は絶大な影響力を持っています」
「なんだそのマンガみたいな権力構図」
「実際そうなってるんだから仕方ないじゃない。活動内容がほぼ警察と変わらない風紀委員なんかが良い例よ」
「で、田中先輩はその生徒会本部の副会長と学生生活委員長を兼務されている方なんです。普通は片方だけでも、相当な激務で学業との両立は難しいと言われているにもかかわらずです」
「そんなん大人がやればいいと思う」
「大人の影響を極力少なくして、学生の自主性や自律性を育てるのが伊之泉杜学園の校風なのよ。初等部から通ってるなら分かってるでしょ」
「んまあ……」
正直、分かってなかった。
「学生委(学生生活委員の略)といえば時園さんも所属してらっしゃいますけど、学生生活全般に関する総合的な管理運営──特に部や同好会の活動を中心に雑務を担当しています。真白さんに分かるように言うなら、なんでもやるってことです」
「わあ分かりやすい、ってバカにすんな!それくらい分かるわ!」
「だから副会長がされてるのはただの兼務じゃないのよ!この学園全体を実質的に運営していく生徒会本部の副会長と、学生生活の全てを管轄する学生生活委員の長を同時に務めてらっしゃるの!総理大臣と大統領を同時にやるくらいすごいことなのよ!」
「それを国でやったら独裁になるんじゃね?」
「一般生徒や部会の上にある委員会の、さらに上にあるのが生徒会本部ですから、具体的な実務を担当しているという意味では、事実上この学園で最大の影響力を持ってると言っていいですね」
「あっそう……そんなラスボスみたいな人がなんだってうちのクラスに」
時園と葛飾の口から田中副会長という人物の傑物ぶりが語られるほど、牟児津の中でそのイメージがどんどん巨大になっていった。ただでさえ激務の役職を二つ兼任しているとか、事実上の学園内最高権力者とか、そんな浮世離れした話は牟児津には関係のない話だ。なるべくそういった人物とは関わらないように生活してきたのだ。
だから牟児津はすでに嫌な予感がしていた。そんな女傑が何の意味もなくこのクラスを訪ねるはずがない。何か用があって来たに違いないが、その相手が自分ではないかと戦々恐々している。しかし、それは杞憂だった。
「なんか鯖井さんに御用だったみたいよ。うらやましいわよねぇ……田中副会長と直にお話できて、あまつさえあんな激励のお言葉をいただけるなんて……!私も副会長とお話してみたいわ……」
「同じ委員会なら話す機会くらいあるんじゃないの」
「バカ言わないで!ただでさえお忙しいのに、私みたいな末席の者のために副会長の貴重なお時間を頂戴するなんてことできるわけないでしょ!」
「感情が難しいなあ」
副会長ともなると、風紀委員長や広報委員長など、あの一癖も二癖もある面々をまとめる立場だ。相当な人徳者なのだろう。時園はじめクラス全体が蕩けてしまうのも、さもありなんというものだ。そんな人物がわざわざ出向く用事とはいったい何なのか、牟児津は少しだけ興味があった。わが身のこととして考えるとこんなに胃の痛むことはないが、他人事だと思うとたちまち面白そうなゴシップに感じられるから不思議だ。いつも引っ付いてくる番記者の野次馬根性を笑えない。
「そんな貴重な時間を使わせた鯖井さんっていったい……何やらかしたんだろ」
「嬉しそうですね真白さん」
「そんなことないよ」
「いつも自分がやらかしてるから、人の失敗が嬉しくなっちゃったんじゃないの」
「私は一回もやらかしてない!」
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