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暫しその背中を瞶めていた晴幸は、口の中で小さく『先生』と呼んだが、向けられた背中の、物言わぬ冷酷さに打たれたよう、瞼蓋を伏せて、胸元に当てた拳を緩く握り、頑なに背中を向ける雷斗に、『失礼します』と退室を告げ、静かに書斎を出て行った。
「ちょっと、晴坊──」
思わず声を飛ばした美代に、雷斗は、態とらしい咳払いを浴びせると、
「お茶が冷めてしまった。煎れ直してはくれないか」
感情的になってしまった場面を美代に目撃され、気不味さを思ったか、俯向いた顔を上げられぬまま呟いた。
「……美代? お茶を──」
返事も無く、湯飲みを下げるでも無い美代に、恐る恐る目を向けた雷斗は、己に向けられた鋭い視線に、ドキリ──と固まり言葉を失った。
「──なんだ。また私が悪いと言うのか?」
美代の視線から逃げるよう、ゆっくり椅子を回して背中を向けた雷斗は、物言わず凝視めて来る美代に、
「……ちょっとばかり、執筆を手伝うようになって、晴幸は調子に乗っているのだ」
チラチラと、己の肩越しに後方を窺いながら口にしたが、美代の厳しい視線が緩むことは無く、雷斗は深いため息を着くと、
「──分かった、分かった。私が言い過ぎた……そんな顔で睨むのは辞めてくれ」
根負けして、自分の非を認めたのだが、依然美代の不快は晴れぬようで、
「先生、美代に謝った処で、晴坊の傷ついた心は癒えやしませんでしょう? 謝罪と言うのは、誠心誠意、相手に向けなければ成立しやしません」
毎度の説教を雷斗に向け、瞬時、叱られた子どものように肩を竦め、眉間を曇らせた雷斗は、依然緩まない視線に『謝って来る』と、椅子から立ち上がり部屋を出た。
「全く──、言葉を選ばず口に出すとは──晴坊の方がよっぽど大人でしょうかねぇ……」
眼差しだけで見送った美代は、『やれやれ』と呟いて、二人が揉めていた原稿用紙を手にすると、目を走らせてプッ──と笑ってしまった。そこに書かれていたシーンは、所謂男女の濡れ場と言う場面で、晴幸が、引っ掛かりを覚えたのだろう描写に、
「器は大人で有ろうとて、いつまでも、ウブなところの可愛いこと──」
原稿用紙を裏返し、机に置くと、手早く湯飲みを片付け、盆に乗せると書斎を出て行った。
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