最後の夏を君と

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最後の夏を君と

 あの日の夏。僕と日葵(ひまり)が過ごした、最後の夏。  その日、世界祭の開かれる夢侯宮(ドリーム・アイ)へ向かう道中で僕は、一匹の“啊俐(アリ)”を見た。普段地下から出てこないはずの()()()は、優に三メートルはあるであろう丸々と太った胴体、その泥に塗れた銀筒を七本の鉄脚で引きずりながら、世界祭で賑わう門出橋の真ん中を堂々と闊歩していた。  なぜ“地下の掃除屋(スウィーパー)”が表に?管理機構SWQは何をしている?  普段の冷静な僕であればそう強く警戒しただろう。そもそも前時代の蟻と呼ばれる昆虫を鋳型に製造された“啊俐”の胴体は大きくても精々一メートルを超えない程度であるし、何より脚は六本で()()()()()()()()()()。その明らかに異様な体躯を見れば、何らかの異常事態が起こっていることは直ぐに察知できたはずだ。ただしその日は千年に一度の世界祭。真世界誕生の軌跡(キセキ)が時を超えて現世に顕現するとされる、原始の日。誰しもが祭りの異様な熱量に当てられ、浮き足立っていたのだ。僕も、例外ではなかった。  ──遙か遠い記憶、太陽が西の大地に永遠に沈んだあの災禍より前に、青の犇めく田園地帯で、僕は日葵と一つの約束をしていた。例え何が待ち受けていようとも、二人で一緒に、世界祭の奇跡(キセキ)を見届けると。その約束が永い時を経た今日、果たされようとしていた。僕らは固く手を繋いだまま、世界祭の震源地となる門出橋の入り口に差し掛かっていた。 「もうすぐだね」と日葵。 「ああ、もうすぐ」  その橋の上で交わした言葉を僕は殆ど覚えていない。恐らく瑣末なことであったのだろう。ただ一万年前の特異点に繋がるとされる架け橋──門出橋を今まさに歩いているという事実に、軽く失神しそうになったのは覚えている。 「おうい、久し振りだなあ!」  群衆の波をかき分けるようにして恩師の佐賀先生がこちらに歩いてきた。駆け寄ってきた先生の笑顔は何処か靄がかかったように曖昧で、僕も釣られてつかみ所の無い笑み(又は皺寄せの僅かな気配)を口元に寄せた。  そして、それは起こった。  一瞬だった。多分そうだ。僕が気付いたときには先生の眼球は地面にあったし、そこにはモノとなった男の頭が冷たくあるだけだった。僕が視線を元に戻すと、丁度先生の首から下が啊俐の胎内へ取り込まれる所であった。啊俐は大きな顎で不器用に先生の身体を咥え、一気に体内へ飲み込んだ。銀の胴体は身悶えするかのようにぎこちない蠕動運動を繰り返した後、ピタリと動きを止めた。その時──  バンッ、バチバチバチ  世界祭の開幕(はじまり)を告げる花火、その閃光の花弁が一斉に虚空へ打ち放たれた。余りにも多くの花火が一度に爆ぜたため、大地への警告となるはずであった命の悲鳴は掻き消された。世界祭を装飾するための数多の舞台装置が同期的に作動し、盛大な終幕(フィナーレ)に向けて、橋の両岸で狂い咲く千の花火を音響と照明で彩った。祝福されるべき天空の花道。その晴れ舞台の上を人々は脇目も振らずに逃げ出していた。(あるいは人ではなく“碑杜(ヒト)”と言うべきかもしれないが)  僕は動かなかった。いや、正確には、繋いでいた日葵の右手が、僕を掴んだまま離してくれなかった。  日葵は啊俐にゆっくりと語りかけた。 「これから、あなたはどうするの?」  その間延びした語調に僕は驚きを隠せなかった。啊俐は、血と体液で汚れた舌を自身の口器の輪郭に沿って這わせると、“慟哭の蜂巣”と揶揄される複眼を日葵と僕に向ける。 「彼だけは逃がしてあげて」  日葵は表情を変えることなく言った。いつの間にか花火は消えている。啊俐の錆色の体表は夜空に炸裂する千の火花すらもいとも容易くその光沢に取り込んだらしい。  静寂の闇が降りた門出橋で、啊俐は値踏みするように僕と日葵を交互に見た。長い触覚の先から白濁した液が蒸気と共に漏れ出している。 「日葵……?」 「ごめんね」  日葵は一瞬哀しそうな眼をした後、不意に僕の手を離した。着崩した浴衣の懐からお気に入りの龍笛(りゅうてき)を取り出すと、僕が声を挙げるより先に天高く吹き鳴らした。 「“暦苑(レオン)”!彼を、ここから遠い場所へ!」  僕の股下の陰から日葵の従僕である暦苑がヌルッと現れると、暦苑はその華奢な背中で僕を軽々と持ち上げた。 「待ってくれ!僕も残るよ!」  僕の叫びは日葵には届いていないようであった。日葵は何も言わず、暦苑に跨がった僕の背中を左の親指で軽く押し出した。絶望の闇夜が啊俐の背後から迫るなか、その指から伝わる確かな熱感は、僕の目に映る日葵がまさに()()()()()という事実を、僕と日葵を隔てる接線の直上に顕現させていた。  〈千年後、またこの場所で〉  “獅子”を(かたど)った暦苑が滑らかな動きで踵を巡らし大地を蹴り出す寸前、日葵はそう耳打ちをした。時が止まったように静謐な黒、その夜においても(ほの)かに唾液の絡んだ日葵の囁きは僕の耳に色濃く(のこ)った。  暦苑は日葵に背を向けて走り出した。僕は身体中から力が抜けたようにだらんと背中に身を預けたまま、それでも視線は日葵から離さなかった。日葵の奥、啊俐の背後の闇から夥しい数の啊俐が顔を覗かせた後も、僕の視線は日葵の哀愁漂う(うなじ)に釘付けになっていた。 「綺麗だな」  直径三十メートルを超える巨大な頭蓋骨の眼窩、苔むした頬骨の上に腰掛けたまま僕はボソッと呟いた。底の見えない巨大な断崖の壁に半分埋没しているこの白骨は、数百年前に絶滅したとされる“磨壬(マジン)”族のものだ。断崖の遙か上空から絶え間なく流れ落ちる飛泉(ひせん)が、磨壬の平滑な頭頂骨に軽やかに跳ね返り、心地よい規律(リズム)を日の当たらない内腔にも響かせている。 「今度はどちらの方角へ行こうか。君はどう思う?暦苑」  僕の横で丸まっていた暦苑は気怠そうに眼を開けると喉の奥をコロコロと鳴らし、再び眠りに落ちていった。僕は幾分大袈裟に肩を竦めると、足下に広がる名も無き峡谷と、その向こう側の雄大な“亜天樹林(ユニバース)”に目を遣った。岩肌に跳ね返った飛沫が瑞々しい響きを帯びたまま虹となり、僕と亜天樹林の間に一本の橋を架けている。直ぐ横から聞こえる暦苑の柔らかな寝息。僕は日々薄れてゆく日葵の輪郭を取り戻すかのように眉間に力を込め、彼女が消え去った遠い場所に思いを馳せる。 「もう一度、北へ」
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