七 栃木にて

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七 栃木にて

「お嬢。お疲れですか」 「平気です。それよりも余市さんのほうが疲れたでしょう」 「わしはどうなっても良いのじゃ。お嬢のほうが大事です」 「まあ。おかしい?ふふふ」 長い移動。こうして二人は予定の旅館にやってきた。この日の翌日に是清と合流予定。疲れ切った二人はそれぞれ別の部屋で休み食事だけは旅館の広間で食べた。この時、なぜか千代子はソワソワしていた。 「お嬢。どうされましたか」 「余市さん。ちょっと私にお時間をください。あのもし」 「はい?」 千代子は同じ年頃の仲居の娘に声をかけた。東京土産をこっそり渡した千代子に対し、夜、彼女は部屋に来てくれた。 「お仕事中ごめんなさい。時間は大丈夫ですか」 「少しなら。それよりもどういう相談ですか」 「私。これからこの町の『佐伯』さんの法事に出るの」 「『佐伯』さん、ああ、あそこか」 地元の娘が納得する中、千代子は続けた。 「私、法事のしきたりを勉強してきたけれど、自信がなくて」 「あそこの家は特にうるさいよ。それによそ者には厳しいよ」 「それは覚悟しているけれど。詳しい人がいないかしら」 「そうだね」 娘はふと千代子の髪のリボンを見ていた。千代子はそれに気がついた。 「ああ。これ?よかったら使ってください」 「いいの?こっちではそんなの売っていないから」 千代子が外す様子を嬉しそうに見つめる娘は白い歯を見せた。 「あんた、名前は?」 「千代子です」 「そう。千代子さん。わかった。その法事で知っている人が参加するから。そいつに頼んでおくよ」 「ありがとう。さ。これをどうぞ」 リボンを手渡した千代子に娘は黙って部屋を出て行った。 神楽坂のトメは恥をかく前に地元の人に詳しく聞けとうるさかった。この通り同年代の娘から話を聞けた千代子はほっとしていた。 ……明日はいよいよ、佐伯様ね……でも来るのは明日だから、備えて寝よう…… 今日の移動の疲れもあった千代子は寝ることにした。布団に入った彼女はすぐに眠った。 ◇◇◇ 「余市」 「うわ?坊。もう着たんですか」 「悪いか?仕事が早く片付いたんだ」 仕事が手に付かない是清は、小林に早く行ってくれと言われてやってきた。だが是清はそれを言わず澄ましていた。 「荷物は坊の部屋に置いたのですか」 「ああ。それよりも。娘はどうした」 「お嬢は寝ました」 「もう?」 「はい」 がっかりの是清に余市はため息をついた。 「慌てても仕方ないです。坊も温泉にどうぞ。休んでくだされ」 「ああ。すまなかった。お前も疲れたろう。あとは自分でやるから」 こうして一人部屋の是清。急いできたため風呂から出た途端、寝てしまった。 明日に控えた法事の夜はこうして更けて行った。 「坊!起きてくだされ」 「もう少し……」 「もう行く時間ですぜ。お嬢がお待ちです」 「は!そうだった」 寝坊した是清は浴衣の乱れた姿で髪もめちゃくちゃだった。そんな時、部屋の襖がすっと開いた。 「おはようございます。お初にお目にかかります。私が千代子です。あら」 「……」 布団から起きたばかりの是清は千代子に見られてしまった恥ずかしさで、顔を手で覆った。 「……もうだめ、俺」 「坊!時間ですぜ。本家の奥様は時間にうるさいです」 早くしろと布団をはぐ余市と是清に千代子は思わず背を向けた。 「あの。私、先に行っていますか」 「え」 寝癖でボサボサの是清をまだわかっていない千代子はすでに喪服の洋服を着ていた。髪を結い白いうなじはみずみずしい若さが滲んでいた。 「ご本家の方に、旦那様は仕事で遅れると言っておきます。みんなで遅刻するよりもそちらが良いですもの」 背を向けたまま話す千代子に布団に胡坐をかく是清は頭をかいた。 「しかし」 「坊!早く支度をしてくだされ。お嬢、申し訳ないが、そういうわけで」 「はい。では佐伯様。千代子は先に行っていますね!」 彼を見ないようにそのまま行ってしまった千代子を見た是清は布団から立ち上がった。 「なあ、余市」 「へい」 「あいつ、面白いだろう」 嬉しそうな是清に余市は、うなずいた。 「へい。余市はお嬢が気に入りました。最高の嫁御にございます」 「ふ。確かに最高だ」 是清、髪をかき上げた。 「では。わが花嫁の初陣のため、支度をするとするか……」 「いいから急いでくだされ!」 こうして是清は支度を始めた。 その頃。千代子はハイヤーで佐伯の本家に向かっていた。 「そうか。あんたも法事か」 「はい。私、東京から来たんです」 「ここはみんな親戚みたいな村だから……あまり大きな声では言えないけど、佐伯の家は気難しい人が多いよ」 運転手の話に千代子はうなずいた。 「それだけ由緒あるお家柄なのですね。代々引き継ぐのは大変ですもの」 「まあ、そうはそうだけど。閉鎖的というか、村社会というか」 悪い点を濃く話す運転手に千代子はまっすぐ前を見ていた。 「決まりを守り続けるのは大変ですものね。あ、あのお屋敷ですか」 見えてきた古い家。その家の前で降りた千代子は運転手に丁寧に頭を下げた。すると窓が開いた。 「ここはね、よそ者には試験があるんだ。気をつけな」 「試験ですか?ありがとうございます。どうぞお気をつけて」 そして、振り向いた。 ……さあ、千代子、行くわよ。これでやっと離縁できるのだから…… 深呼吸。空には雲雀の声。澄んだ空気の中。喪服の千代子は一人、屋敷へと向かった。 ◇◇◇ 玄関の外。そこには喪服の人々が並んでいた。知っている顔があるはずもない千代子は一番後に立っていた。 「あんた。見ない顔だね」 「私。東京から参りました。佐伯是清の妻です」 「是清さんの?これは大変だ」 急に慌て出した親戚たち。それでも千代子は受付の順を守り、記帳した。 「あなたが東京の嫁さんだね」 「はい」 「奥で大奥様がお呼びです。きてください」 「はい」 古い家、長い廊下の奥の部屋。そこには親戚と談笑している老婆がいた。 「大奥様。こちらが東京の」 「ああ。是清の嫁か」 「はい。初めてお目にかかります」 ……高齢なのに、お元気そうなお方だわ…… 千代子は畳に正座をし、綺麗なお辞儀をした。老齢の親戚たちはしん、となった。 「で、是清は?」 「お仕事で遅れましたが、まもなく到着します」 「そうかい。それは楽しみだね」 威圧的な老婆の言葉。親戚たちも息をのんだ空気の中、千代子は真っ直ぐ佐伯の最高実力者を見ていた。何かを含んだ言い方であったが。法事の時間となった。 「東京さん。あなたはここにお座り」 「はい」 屋敷の大広間。しかし、ここには座布団がなく板の間だった。見るとみんなには座布団がある様子だった。 ……私は平気だけど、是清さんは無理でしょうね。 そろそろ着くはずの知らない夫。彼が隣に座ると思った千代子は、ふと他のにも座布団がない若い女性を見つけた。彼女はそばにいた女性に尋ねていた。 「すみません。座布団が無いのですけど」 「そうですか」 「え」 それだけで終わってしまった会話。彼女は仕方なく板間に座っていた。そこで千代子は他の女性に尋ねた。 「恐れ入ります。うちの旦那様のお座布団はどこから持ってきたら良いのでしょうか」 「……お待ちくださいね」 すると彼女は座布団が入っている場所を教えてくれた。千代子は二枚と先ほど女性の分も運んできた。 「あのよければどうぞ。私、間違ってたくさん持ってきてしまいました」 「あ?ありがとう」 「こちらこそ」 そして。全員が座り住職が入り読経が始まった。すると空席だった千代子の横に静かにやってきた。彼は座る時にわずかに自分に触れた。 ……来た。是清様だわ…… 彼が完全に座った時。千代子はちょっとだけ隣を見た。そこには見たことがある男が座っていた。 ……酢の物さん!?そうか、歳月のお客さんだったのね…… 酢の物が好きな男としか認識してなかった千代子は、彼が夫だということに驚いたが、彼の人柄を思い安心した。そんな二人は読経を聞いていた。 最後尾に座っていたため、葬儀の礼儀はなんとかなった二人。やがて食事の時間になったこの会は、隣の部屋に移動になった。 「おい。大丈夫か」 「はい。酢の物、あ?旦那様」 「……ちょっとこっちに来い」 是清は廊下の端まで千代子の腕を取った。 「良いか。俺はお前を千代子と呼ぶから。お前も是清さんと呼べ」 「はい」 「他には。俺の祖母がいるから。挨拶をするぞ」 「私はもうしました」 「もう?」 うんと千代子は彼を見つめた。 「それよりも。私。お食事の支度を手伝います」 「あ、ああ」 「では、これで」 「千代子」 是清はまた腕を取った。 「旦那様?どうされました」 「名前」 「は、はい。是清様」 ……喪服だというのに。なんと愛らしい…… 出かける時のワンピースも眩しいが。この喪服もどこか清楚で是清はドキドキした。 「是清様?」 「ああ。千代子。何かあれば俺を呼べ。無理をするなよ」 「はい!では、行って参ります」 台所に消えた千代子を是清は見ていた。この時、彼の従兄弟が話しかけてきた。 「よ!あれがお前の嫁さんか」 「ああ」 「ずいぶん若いじゃ無いか。それに東京の娘さんは綺麗だな」 「ああ。綺麗なんだ」 「へえ」 彼はそっと従兄弟に微笑んだ。 「本当に俺の嫁は綺麗なんだ。さてと、挨拶か」 彼もまたうるさい親戚の中に入って行った。こんな食事会が始まった。 「千代子。この御膳はあそこでタバコを吸っている人だから」 「はい」 「千代子。それが済んだら燗の酒を配ってちょうだい」 「はい」 喪服姿の千代子は持参した黒いエプロンで配膳をこなしていた。これを職業にしている千代子の動きは完璧であり親戚たちを驚かせていた。 「奥様。あちらのご主人様が、洋酒が良いと申されています」 「洋酒。ではこれを」 「はい。それと。タバコが切れた方がいますので、私、買ってきます」 「タバコ。あ、ああ」 千代子はひとまず屋敷を出てタバコを買いに行った。その間、是清は親戚に質問攻めにあっていた。 「お前。全然帰ってこないと思ったら。いつの間にか嫁がいるとは」 「式にも呼ばれてないぞ。俺たち」 「すみません。彼女の家が喪中なので、式はまだなのです」 ここは是清の父の実家である。父は妻の実家の仕事のため東京に出てきたため、彼は東京育ち。両親が亡くなっているため是清だけが参加していた。 「それにしても。どうだい。今の仕事は」 「まあ、ぼちぼちですよ。あ。ちょっと挨拶をしてきます」 ここでようやく是清は祖母に挨拶した。老齢の彼女は嬉しそうだった。 「お婆様、ご無沙汰しています」 「是清か。もう生きている間に会えないと思ってましたよ」 「ご冗談を。それにしてもお元気そうで」 「元気じゃないとここにはいないからね」 嫌味のはじまりに周囲はハラハラして聞いていた。 「で。お前の嫁はどこの娘だい」 「日本橋の質屋の娘です」 「質屋か」 老婆は静かに是清を見つめた。 「日銭が入る家の娘は、金遣いが荒いから困るね」 「千代子はそんなことありません。慎ましい娘です」 「顔も綺麗な娘だから。お前、さぞ金がかかるだろう」 「あれは質素が好きで、贅沢を嫌います」 「ずいぶん惚れ込んでいるね」 「はい」 肯定する孫に老婆は片眉をあげた。 「そうかい、それは楽しみだ。あ」 「どうされました。あ。千代子」 タバコを買いに行っていた千代子は頼まれた人に配っていた。それを見た是清は声をかけた。 「千代子。ちょっとこちらへ」 「はい。是清様」 一時間前に夫婦の対面をした二人は祖母の前に並んだ。 「改めまして。これが嫁の千代子です」 「奥様。本日はお招きいただき、光栄です」 「……千代子と言ったね。これは私からだよ」 そういうと彼女は懐から祝儀袋を出した。受け取った千代子であるが、なぜかこの空気が変わった気がした。 「是清。それは結婚祝いだよ」 「ありがとうございます。千代子、お前も礼を」 「はい」 是清がそっと背を押した時。ガシャーンとコップが割れた音がした。 「すみません!ごめんなさい」 「そそっかしいね。あの子は」 一同がざわつき祖母は顔をしかめている時、千代子はコップを落とした女性と目があった。彼女はなぜかうなづいていた。 ……もしかして……このことかな…… 「どうした千代子」 「是清様……ちょっと失礼を」 「あ?何をするのだ」 千代子はもらったご祝儀の袋を目の前で開けた。 つづく
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