七 栃木にて

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「千代子、それは失礼だぞ」 目の前で開封し、紙幣を数える千代子を是清はたしなめた。しかし、千代子は手を止めなかった。 「お待ちください。あ?これは」 袋の記入の額よりも実際は一枚多く入っていた紙幣に千代子は気が付いた。 「奥様。大変です。一枚多いです。これはやっぱりお返しします」 「なんだって」 困惑する是清の顔に対し、祖母はどこか笑っていた。 「いや良い。それも受け取りなさい……」 「でも。これは」 「千代子」 ここで是清は妻の手を握った。 「それはお婆様の好意だから、素直に受け取ろう。そして、もう一度お礼を言おうか」 優しい面差しに千代子は納得した。 「はい」 二人は最後、深々と頭を下げた。こうしてこの法事は終わった。この後、片付けも食器洗いもこなした千代子はコップを割ってしまった女性に声をかけた。 「お世話になりました。いろいろ助けていただいて」 「何のこと?」 「教えて貰わなければ、金額が違うので困ったと思います」 「ふふふ。旅館にいたのは私の妹なんだ。まあ、お疲れ様」 そんな千代子には帰りの電車の時刻が迫っていた。手伝いを切り上げさせた祖母は、玄関で二人を見送った。 「お世話になりました」 「お婆様、ではまた」 「是清。近う」 「まだ何かあるんですか」 ぶつぶつの孫に祖母はささやいた。 「あの嫁は決して離すでないぞ」 「わかってます」 「器量良しなので、お前など愛想を尽かされるぞ」 「大丈夫です!大切にしますからご心配なく」 長話をしていると千代子が彼を呼んだ。 「是清様!お時間です」 「はいはい。ではお婆様。またお会いしましょう」 「ああ。また二人でおいで」 こうして二人は、余市と一緒に車に乗った。 「はあ。どっと疲れた、お前は平気か」 「そうですね。でも私、ちょっとお腹が空きました」 「実は俺もなんだ……話ばかりで飯が食えなかった」 「わしもです」 すると千代子は是清に向かった。 「私、余ったご飯でおむすびを作りました」 「でかした!では早速」 「ダメです。電車で食べましょう」 「坊。我慢です」 「お前まで?くそ」 そして一旦旅館に戻った三人は喪服から洋服に着替えた。そして夜行列車に飛び乗った。やっと空いていた二人がけの椅子には是清と千代子。離れた椅子には余市が座った。三人はおむすびを食べると疲れで爆睡した。 ……ん?なんだ重い?ああ、千代子か…… 誰もが寝ている宵の列車。千代子は是清にもたれて眠っていた。その寝顔、その吐息。愛しかった。 ……俺と離縁したいのだろうな。しかし…… 是清は上着を千代子に抱きしめるようにかけた。その時、そっとキスをした。 ……ああ、どうすれば良いのだ。こいつは俺と離縁したがっている…… 憎らしいほど愛しい娘。是清は千代子の無垢な寝顔に頬を寄せた。そんな電車は揺れながら東京へと進んでいた。 ◇◇◇ 「やっと帰ってきた」 「疲れたな。あ。余市は」 「お手洗いです。あの、是清様」 夜のガス灯の下。千代子は電車の中では言えなかったことを駅前の広場で打ち明けた。 「離縁についてですけど」 「ああ。それな」 是清は頭をかいた。 「まず。今回の法事、誠に助かった、ありがとう」 「こちらこそ。あの、それで離縁」 「待て待て。あのな。今回俺たちはたくさんの親戚に会っただろう」 是清は親戚の手前、今はまだ離縁できないと話した。 「祖母もあんなに喜んでいたんだ。すぐには離縁したら可哀想だろう」 「それはそうですけれど。でも私」 「お前が困っているのは知っている。だが、それは『佐伯』と名乗れば良い話だ」 夜の灯り眩しい駅前の広場は静かだった。 「でも」 「まだ何かあるのか」 「……」 「言ってくれ。千代子」 真剣な目の是清に千代子は息をのんだ。 「愛のない結婚なんて。よくありません。私は亡くなった母に言われたんです。『本当に好きな人と一緒になりなさい。そうすれば苦労も辛くないから』って」 「では作れば良い」 「え」 真顔の是清は千代子をじっと見つめた。顔が近い彼に千代子はドキドキした。 「愛を作れば良いんだろう。俺も頑張るから。お前も努力いたせ」 「是清様。ご冗談を」 「俺はいつでも本気だ」 是清は隣に立ち、そっと千代子の肩を抱いた。 「さ、家まで送るぞ、千代子」 「是清様」 「それとも。誰ぞ好きな男でもおるのか」 ……やっと言えた! 何度も想定したこの言葉。何気ないこの好機。是清の会心の言葉、千代子は首を横に振った。 「いません」 「左様か」 「是清様は、何人いるのですか」 「おいおい、千代子」 驚いて彼女を見るとその顔は笑っていた。 「ふふふ」 「お、お前。俺をからかうとは」 「是清様が悪いのです。ずっと千代子に会ってくださらないのですもの」 「それは!あれだ、ちょっとした誤解で」 「それに。歳月にいらしてたのに。黙っているなんて」 「悪かった。すまん!この通り」 千代子は夏の夜風に髪をなびかせた。 「では、結婚のいきさつを教えてくださいね」 「ああ、約束する」 「坊!お嬢」 ここに余市がやってきた。 「何やら楽し気の様子ですが、二人はお疲れではないのですか」 「俺は疲れてなどいないぞ。千代子はどうだ」 「でも。是清さんは先ほどからあくびを」 「おほん!さあ、帰ろうか。千代子、送るぞ」 何気なく取った妻の手に是清の胸は高なった。 夜の駅、行き交う人々の中、新婚夫婦を星は輝きながら見つめていた。 「栃木の家にて」完
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