八 延長

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八 延長

「ただいま。トメさん」 「おう!夕べ帰ったんだろう。して、どうだった?」 「疲れました」 翌朝。隣人の老婆にお土産を渡した千代子にトメは朝食を出した。 「ゆっくり食べなさい。で、その知らない旦那はどうだった?」 「あのね。トメさん。知っている人でした。歳月に来ていたんです。ほら。酢の物が好きな旦那さんの話をしたでしょう」 「え?酢の物さんかい」 「ええ。その人が佐伯さんだったんです。もう、黙っているなんて酷いですよ」 ……まあ。優しい人だと思っていたけれど。 酒を飲んで絡む客が要る中、是清は品の良い客であった。トメはさらに質問を続けた。 「そうか酢の物さんか、して。どうだった栃木の家は」 「みなさん優しかったですよ」 「そうかい」 意地悪をされる前提で向かった千代子にとって、今回の法事は全く緩いものだった。そんな千代子はトメ特製の豚汁を食べるとため息をついた。 「じゃあ、今度はいよいよ離縁だね」 「ダメになりました」 「は?約束はどうしたんだよ」 千代子は栃木の親戚が優しくしてくれたので、悲しませたくないと言い出した。 「みなさんそれは良い人なんですもの」 「全く。お人よしだね」 呆れるトメは千代子をじっと見た。 「もしかして。その酢の物男に本気で惚れたとか」 「え?いいえ?」 そう言って頬染める千代子にトメはそっと肩に触れた。 「いいかい『女はね。男に好かれてなんぼ』なんだよ。良いことだよ」 「皆さん、色々いうんですね」 疲れが見えた千代子をトメは休ませた。なんでもないと言っていたが、やはり緊張していたのか千代子は午後の仕事の前まで家で眠った。 ◇◇◇ 「全く。坊は何をしているのやら」 「そんなに怒るなよ。余市」 「嫁に来いと言えば良いのです。それをグズグズと」 佐伯の屋敷に帰ってきた翌朝の二人に婆やが食事を出してくれた。何も知らない婆やに、二人は結果を報告した。 「まあ?ご祝儀のお金の枚数が違っていたのですか」 「ああ。千代子の奴。その場で開いたので冷や汗が出たよ」 「それは坊ちゃま。奥様は、千代子さんが正直に申し出るのか試したんですよ」 「大奥様は腹黒だ。恐ろしいのう」 震える余市に是清は納得した。 「そうだったのか」 それを超えた千代子に朝食の納豆を混ぜていた是清は今更感動していた。婆やは彼に醤油を渡した。 「でもお返しをしないとなりませんね」 「ああ、それはだな。千代子が手配するともうしておった」 「さすが」 「気が利いた娘さんですね」 ここで。是清は箸をおいた。 「坊?」 「どうしたんですか、ネギはたくさん入っていますが」 「二人とも聞いてくれ。俺はだな。千代子を本気で嫁にしたいのだ」 子供の頃から知っている余市夫婦に是清は正直に打ち明けた。 「だが。あいつは父親の政略結婚と思っている。故に俺をまともに相手にしようとしておらぬ」 「確かに」 「ちょっと良いですか」 婆やは二人を見た。 「私の感想ですけどね。あのお嬢さんは確かにお人よしですけど。嫌いな男性の法事で、そんなに頑張るとは思えないですね」 「というと」 「見込みはあるでしょう。坊ちゃまは紳士であるし。仕事もできる男です。ちょっとわがままで子供っぽいところがありますが」 「そうなのか?」 「ね?自覚がないでしょう。これをわかって貰えばきっと嫁に」 「そうですぞ。坊はやればなんでもできます」 「わかった!とにかく、俺は頑張るさ、いただきます」 彼は婆やが作った朝食を食べた。そして会社へと出かけて行った。 ……さて、お仕事にいかなきゃ…… 睡眠を取った千代子は料亭の仕事に向かった。その前にこの日は養命薬舗に返済のために立ち寄った。 「ご主人、私の残高がいくらなのか教えてください」 「……伊藤さんの残高はこれです」 「え、こんなに」 すでに結構な額を返している千代子であったが、残金は予想以上だった。驚く彼女に主人は続けた。 「お母様に貸した分ですね」 「でも。もう借りた金額は返しているはずです」 「金利、と言うのが世の中にはあるのですよ」 「それはわかっていますが、あまりにも」 「困りましたね」 ここで主人はいつもと違う顔になった。 「金がないなら。つくってもらうしかありませんよ」 「作るって、それはどういう」 「どんな方法でもです。で、これが次回からの返済額です」 「え?倍以上じゃないですか」 千代子が返せない事を知っている顔で主人は時計を見た。 「さあ、歳月に行く時間ですよね。おいでなさい」 「……失礼します」 千代子は店を出た。その顔は暗かった。 ……どうしよう。お金を返さないと…… 曇天の空の下、千代子は重い足取りで歳月へと向かった。 この夜、仕事を終えた千代子は翌朝、女将に相談した。 「え?養命薬舗って、あそこは危険な薬なのよ」 「でも、母が亡くなる前、あまりに苦しむので」 「ああ。何てことでしょう」 養命薬舗の悪名を知っていた女将は一緒に悩んだ。トメにも話せない千代子は女将に頭を下げた。 「女将さん、私の仕事を増やしてくれませんか」 「でも」 「何でもやります。お金を返さないと」 売られてしまうという言葉を二人は飲み込んだ。女将は窓辺で揺れる風鈴を眺めた。 「……まず。これは日本橋のお父様に相談するべきよ。でも今はいないから。それまでの間、何とか返済をするしかないわね」 「はい」 「うちの仕事だけでは返せない……でも舞妓は」 「何かないですか?私、やります」 「ちょっと考えさせてちょうだい」 この夜、是清は多忙のためか歳月に来なかった。千代子は仕事をこなし夜道を歩いていた。 ……どうしよう、お金なんかないのに…… 収入も乏しく生活もギリギリの千代子は悲しくなっていた。そんな千代子は家に帰った。すると急に虫の音がした。 「どこ……ここかな、あ!いた!」 壁に追いつめザルで捕獲したのは鈴虫だった。この音色が美しかった千代子は、ザルに閉じ込め玄関に置いた。そしてこの音色を聞きながら眠った。 翌日。千代子は歳月に鈴虫を持って来た。 「まあ。風流ね」 「庭に離したら虫の音がして良いですよね」 「待って!ああ、そうだわ」 女将はどこからか虫かごをもってきた。これを中庭に置いたところ、客が欲しいと言い出した。 「これをですか」 「ああ。息子の土産にしたいと思って」 気前の良い客は紙幣を置いて帰って行った。これを知った女将は千代子を呼び出した。 「虫よ!昔はよく売りに来ていたのよ」 「鈴虫が売れるですか」 千代子はお金が欲しかった。そこで歳月の仕事を休んだ千代子は虫取りに向かった。 ……この河川敷なら。たくさんいそう…… 足は草で切れ、出ている腕は蚊に刺されていた。それでも千代子は必死に虫を捕獲していた。 ……佐伯様なら、お金を貸してくれるかもしれないけれど。それは…… 今回の栃木の法事の件は女将にも事情を話していた。自分には書類上の夫がいること。今回は栃木で対面したはずであるが、今は借金返済のことでその話題は吹き飛んでいた。 さらに佐伯の事を話せば女将は間違いなく彼に相談しろというはずだった。 彼に離縁をしたいと申し出ている千代子は、書類上の妻であり愛があるわけではなかった。そんな是清に甘えるわけにはいかず、千代子は草むらで虫を捕まえていた。 ……自分で返さないと。人に頼るなんて、できない…… 泥だらけで必死に虫を追い駆ける千代子を夕日だけは悲しく見つめていた。 七「離縁の延長」完
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