九 夏の音色を抱いて

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九 夏の音色を抱いて

是清は法事後、仕事に精を出していた。それは千代子を本気で嫁にするため、柳原への誇示の目的もあった。 「社長。例の九段下の土地の件ですが」 「ああ。そうだな」 千代子を妻にするという誇示のため是清は土地の取得を進めていた。 東京都内は文明開化の勢いのまま会社の建設が続いていた。是清が目を付けたのは九段下の土地であった。 広い土地は価値がある。投資家の是清は土地を借金で買いすぐに高値で売る手法で利益を手にしてきた。 「昨日土地を見てきました。今は空き家ですが道路に面しているのでいいですね」 「空き家か、では持ち主は誰になっているのだ」 土地を買う時。必ず行うのが土地の所有者の確認である。住んでいる者が土地の持ち主とは限らないため、取引の前に役所に行き土地台帳を見せてもらうのが当然になっていた。 「いつなら役所に行けますか」 「今週中に行くか」 「わかりました……事務員に予定を調整させますね」 こうして彼は週末、融資をしてくれる銀行の職員と小林と一緒に役場に赴き、棚から台帳を取り出し、希望の土地のページを開いた。 「ええと、九段下……地目は『市街宅地』」 三人は坪数と地価を目で追った。 「それで登記した日付は、『明治25年3月28日』か。そして『事故』の欄は」 「いつもこの『事故』って文字にはドキとしますね」 是清と小林の話に銀行員もうなづいた。 「私もそう思います。『所有者移転の理由の意味』ですからね。ここには『譲興』とありますね」 「遺産だな。持ち主は遺産でこの土地をもらったんだな」 三人は慎重に読み解いていた。さらに『所有質取主住所』の欄には、東京四谷の住所があり、その下には氏名があり『福沢退助』とあった。 「では、佐伯さん、判明できて安心しましたね」 帰ろうとする銀行員に是清はまだだと台帳を探した。 「いいえ、安心するのは早いです。今度はこの福沢さん住まいの四谷の台帳も調べましょう。小林、どこだ」 「ありました」 そして福沢退助の現住所である四谷の住所のページを開いた。 「ん。この『事故』の欄の最初が空白ということは明治22年よりも前からこの土地を持っているということだよな」 「そうです。それに佐伯さん。この福沢と言う人物はこの一帯の地主になっていますね」 銀行員の言葉に小林も納得していた。 「ということは。この福沢退助さんは昔から土地持ちで、九段下の土地は遺産でもらったということですよね」 「ああ。昔から金持ちって奴だ」 「これは安心できすね」 三人はそう言って台帳を棚に戻した。取引相手としては問題のない相手に三人は安堵し会社へを戻って行った。 ◇◇◇ そんな是清は仕事帰り三日ぶりに歳月に顔を出したが、千代子は休みで不在だった。 「女将、千代子はどうしたのだ」 「あ?ちょっとした用事があったようで」 「左様か」 ……おかしい。何かを隠しているような…… 加えて千代子の夫は実は自分であったことを女将に話していないことを知った。 是清は食事を済ませ歳月を後にした。胸騒ぎがした彼は翌朝、余市を千代子の家に向かわせた。 ……なんじゃこれは…… 玄関前には大量の籠があり、どれも逆さで中には虫が入っていた。余市は驚きながらも声を掛けた。 「お早うございます。お嬢、余市です」 「余市さん?今開けますけれど、驚かないでくださいね」 「失礼します……うわ」 古い長屋の引き戸が開くと、そこには顔が腫れた千代子がいた。 「お化けでしょう」 「いや?ど、どうされたのですか」 「どうぞ、まずは入ってください」 即されて中に入った余市は、体中、どこかむくんでいる千代子に驚いた。 「大丈夫です。だいぶ引きましたので」 「何をしたのですか」 「蚊に刺されたのです。虫を捕まえていたので」 そして千代子はお茶を淹れ始めたが、体調が悪そうなので余市が代わりに淹れた。 「なぜ虫取りなど」 「……歳月のお客様に頼まれたんです、これも、お仕事だから」 そういって千代子は御茶を飲んだ。余市はそんな千代子を見ていられなかった。 「それで、この虫はどうするのですか」 「もうすぐ虫かごが届くので、それに入れて売るのかと」 「お嬢、それは余市がします。お嬢は休み下さい」 「そんなわけにはいかないわ」 しかし。千代子はだんだん熱がでてきた。医者は不要という千代子の意思が強いため、余市は隣人のトメが持って来たお茶をどんどん千代子に飲ませていた。 そして届いた虫かごに鈴虫を入れた余市は、夕刻、千代子の代わりに歳月に届けた。これを販売すると聞いた余市は、千代子の代わりに神楽坂の道で虫を販売した。 ……ん、今はもう夜なのかしら…… 「起きたか」 「是清様」 月明りが射す長屋の部屋。粗末な布団で寝ていた千代子の脇には彼が心配そうに胡坐をかいて千代子を見つめていた。 「どうしてここに」 「お前の体調が悪いって余市が言うから来てみたんだ」 「すみません、ご心配かけて」 「いい!まだ寝ていろ」 起きようとした千代子を制した是清は、彼女の額にそっと手を置いた。 「まだ熱がある、お前、それは虫に刺されすぎたんだ。黴菌が入ったのかもしれないな」 是清はそういうと濡らした手拭いで千代子の顔を拭いた。 「ひどい顔だな……まだ痒いか」 「大分、良くなりました」 「話は女将から聞いた。それに俺の正体も話したぞ」 是清は悲しそうに話し出した。それは女将に自分が千代子の夫だということと。千代子の借金のことだった。 「そう、ですか」 「お前……俺に借金の肩代わりをしてもらうのがそんなに嫌か」 「だって、私は、是清さんの奥さんじゃないから」 「千代子。お前にまだ結婚のいきさつを話していなかったな」 月明り、虫の音の中で是清はすべてを話した。横になっている千代子は黙って聞いていた。 「俺にとってはお前の父親との五年間の提携のつもりだった。しかし、お前が利用されてしまったことを申し訳なく思っている」 「是清さんのせいじゃないです。すべて父のしたことだから」 「千代子。このまま嫁に来ないか」 「え」 是清はそっと千代子の手を握った。 「俺は……お前に手紙をもらってから。どんな娘なのか気になって歳月に通ったんだ。そこでお前がとても頑張り屋で、とてもまっすぐな娘だと知った。だから、お前といっしょになりたい」 「是清様」 千代子の手を自分の頬に押し付けた是清は、真剣だった。 「返事は後でよい。とにかく、俺の気持ちはそういう事だ。今は、まず休め」 そういうと是清は千代子の手を布団に戻し、額の手ぬぐいを交換しようと水を汲みにいった。その広い背中を千代子は見ていた。 ……やっぱり、優しい…… 千代子は歳月で勤めるようになってから色んな客を見てきた。優しい人、お金持ちの人、態度が悪い人、その中で彼は、「誰が相手でも態度が変わらない」人だった。 そんな彼の平常心を千代子は密かに尊敬しつつ、彼の事を意識していた。 「千代子、俺がいるからもう少し寝ろ、何も心配するな」 「……はい……手を」 「ん、手か、いいぞ」 千代子が眠るまで是清は手を握ってくれていた。夏の夜風が健やかに流れる長屋は、静かに夜が更けていった。 完
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