十 妬いて

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十 妬いて

「こんばんは」 「いらっしゃいませ。どうぞ佐伯様」 梅雨の時期、石畳の細道は濡れていた。今夜は小林とやってきた是清はチラと千代子を探した。彼の気持ちを知る女将はまあまあと彼の背を押した。 「後で行かせますので。まずはお食事を」 「社長。どうぞ」 「ああ」 いつもの百合の間。ここで是清は栃木での法事の時の話を詳しく話していた。 「小林。座布団もな。『無いです』ではダメなようだ。『どこにあるのですか』と尋ねよということだ。女の世界は恐ろしいよ」 小林は酒を飲み、是清に向かった。 「それは女に限りませんよ。例えば仕事でも『無い。無い』という人がいますね。これですと『どうしたの』とか『何が無いの』とこちらから問うことになるじゃないですか」 「いるな、そういう人」 「うちの事務員がそういう話し方じゃないですか」 小林は箸を持ち、塩辛を食べた。 「だから。これを最初から『判子が無いが、一緒に探してくれ』と言ってくれた方が、効率的ですよね」 「そんなふうに言えるものはおるまい」 男二人の会話の席に、彼女が顔を出した。 「いらっしゃいませ。今夜のお汁は『蛤のおすましです』」 「お千代。忙しそうだな」 「はい。どうもです」 千代子はどこか必死で配膳をしていたが、実は夫だと告白したばかりの是清は寂しくなった。 「そんなに忙しいのか」 「はい。奥で大宴会があって手が足りないのです。すみません」 そう言うと彼女は行ってしまった。 「社長」 「なんだ」 「本気で彼女をどうするおつもりですか」 「ああ。それなんだが」 是清は悲しく手酌で飲んだ。部屋には雨の音が静かさを作っていた。 「あれは働き者で面白い。だからこのまま嫁にするつもりだ」 「でも。千代子さんは全くそう思っていないようですね」 「ぶ!」 是清は酒を吹いてしまった。小林は掛からないようさっと避けていた。 「な、何を言うのだ」 「これは私の勘ですが、千代子さんは純粋な方のようなので。社長がはっきり言わないと、気持ちが伝わらないと思いますよ」 「はあ。そう、かもな」 是清は毎日のようにここに来て千代子に逢っていた。しかし彼女の態度は小林と同じくらいの温度である。 つい自信を失った是清は思わず手洗いに立った。 ……奥の部屋は確かに騒がしいな。どこの会社だ…… 思わずすき間から椿の間を覗くと、そこには見たことがある男性がいた。 「佐伯様!」 「うわ!驚いた。女将か」 「気になりますか」 彼の背後でささやく女将は客の正体を教えてくれた。 「吉永不動産さんです。たまにこうして宴会を開いてくれます」 「芸者も呼んで。派手だな」 「ええ。あ。ちょっとこちらに」 「え」 腕を取られた是清は廊下の垂れ幕の中に密かに隠れた。ここは緊急の隠れ場所。垂れ幕の裏に潜む女将と是清は廊下に出てきた二人を見つめた。 「さあ千代子さん。今日こそ返事をもらおうかな」 「吉永様。私は結婚しているのです。何度もそう申しております」 「はは!騙そうったってそうは行かないよ」 酔って口説く吉永と、真顔の千代子の様子を見た是清は飛び出そうとした。しかし女将が必死に留めていた。 ……ダメです…… ……離せ!…… そんな思いも知らず、二人の世界は続いた。 「僕はね。僕を追ってくるような女は嫌いなんだ。君のように僕に興味がない女性はとても気になるんだ」 「そう言われても。興味がないのは本当なので」 ……千代子!はっきり嫌いと言ってやれ…… ……抑えて!佐伯さん…… 「嬉しいよ。僕はね。初めて君に会った時、君が僕に言っただろう?ズボンが破れて下着が見えているって。あの日は朝からそうだったのに誰も僕に言ってくれなかったんだよ。君だけだよそんな正直なのは」 「それはお気の毒でした」 ……お前が嫌われているだけだって!…… ……佐伯さん。ダメです…… しかし。吉永はそっと千代子の頬に手を当てた。 「千代子さん。僕の恋人にしてあげるよ」 「お断りです。私には夫がいますので」 「……それって誰?どうせ小者(こもの)だろう」 ……小者?ふざけるな…… ……堪えて…… 「小者の意味がわかりませんが。多分違います」 「だが俺よりも上のはずがない」 「あのですね」 千代子は彼の手をほどき、真っ直ぐな目で訴えた。 「私。夫がいるんです。だから他の男性とお付き合いはできません」 「では。離縁したら良いのだな」 「え」 吉永はここで千代子を壁ドンした。 ……佐伯さん。今よ…… ……え?ここで?…… いきなり女将に押されて是清は戸惑った。しかしこの時、誰かが入ってきた。 「そこにいるのは千代子さんですか」 「あなたは」 是清と一緒にいる人、としか認識していない千代子に、小林はそっと千代子を背にした。 「お前、どこかで見た顔だな」 「私は佐伯商事の者です」 逃げるように背中に回った千代子を小林は庇った。 「佐伯?それが千代子さんと関係があるのですか」 「彼女は佐伯の妻です」 「え」 一瞬、固まった吉永。しかし、笑い出した。 「ははは。ありえない。そんなはずがない」 はいここ!と女将に押された是清は、ようやく垂れ幕の中から出て来れた。 「いや。そうなんだ……」 狭い場所に女将と一緒にいた是清はあせだくで、千代子の肩を抱いた。 「やあ。吉永さん。妻がお世話になりました」 「佐伯?まさか。そうなのか千代子さん」 「はい!この人は私の夫です」 千代子は演技なのか、思わずなのか、是清に抱き付いた。是清のドヤ顔に吉永は目を細めた。 「では、私は仕事に戻ります」 仕事がある千代子はこうして奥に消えていった。三人の男は沈黙になった。 「というわけです。吉永さんどうぞごゆっくり」 「……」 吉永は悔しそうに酒の席に戻った。是清と小林も疲れて店を出た。夜の道。是清は頭を抱えながら帰路についた。 そして。夜の部屋で考えていた。 ……どうすればいい?どうすれば俺の嫁になるのだ?いやその前に。 料亭の仕事は是清にとって困ることだった。可愛く健気な千代子は人気者である。そんな彼女が他の男に奪われるのは是清には許せるものではなかった。 布団に入った是清。これを考えながら眠った。 「坊、朝ですぜ」 「……全然ねむれなかった」 「え?いびきをかいていましたけど」 「うるさい……」 寝ぐせの彼は不機嫌のまま朝食に付いた。そして夕べの愚痴を余市に話した。 「なんかあいつ、モテるんだよな」 「お嬢は優しいですからね。ほおっておくと他の男に奪われるかもしれませんぜ」 「え?どうしたらいいんだよ」 「さあ……爺に聞かないでくだされ」 もやもやの是清はそれでもスーツを着こなし出社した。しかしやはり落ち込んでいた。 「仕事にならないじゃないですか。そうだ!そうですよ」 「どうした」 小林は、千代子に焼きもちを妬かせようと言い出した。 「妬かないと思うぞ」 「やってみないとわかりませんよ。これは自分にまかせてください」 やけに張り切っているので是清は任せることにした。 そして数日後、二人は歳月に来ていた。小林は何げなく聞こえるように話し出した。 「いや。社長はすごいですよね。女性に手紙をもらうなんて」 「あ、ああ」 恐る恐る千代子を見たが、彼女は二人が食べる鍋料理を必死に整えていた。 「あんな美人。滅多にいませんよ」 「そ、そうでもないさ」 「あの、旦那様。これに大葉を入れますが、お嫌いではありませんか」 二人は大丈夫と返事をした。 そんな中。千代子はちょっとイライラしていた。 ……何が御手紙よ……私には離縁しないと言ったのに…… 「もう。あ」 完成した土鍋の鍋に刻んだ大葉をパラと掛けてお椀によそっていたが、匙の汁が千代子の手に落ちていた。 火傷の痛みを我慢した千代子は二人に食事を出すと、部屋を後にし、手を水で冷やしていた。 「お千代、火傷か」 「兄さん。大丈夫です」 板前の一番若い彼は心配そうに千代子の手を見てくれた。 「痛むか」 「全然です」 「ではどうして泣いているんだ」 「え」 彼はみるみる怒り出した。 「今夜の客に何か言われたのか」 「違います。本当に平気です」 「もういい。あの席には行くな」 「え。でも」 そう言うと彼は是清の酒席を自ら担当してくれた。そして洗い物を千代子にやらせてくれた。冷たい水のおかげで千代子の手は症状は和らいでいた。 「お千代。あの客は帰ったからな」 「はい」 「それと、お前」 板前の彼は頭をかきながら話した。 「お前、その、結婚しているって本当か」 「はい、いつの間にかですけれど」 「それはその、お前は嫌じゃないのか」 ……あれ?そうだわ、いやだったはずなのに…… いまはそれよりも、是清の態度に千代子はどこか苛立ちそして悲しくなっていた。 ……私。からかわれているのかな 「おい、お千代」 「兄さん、……私、今日は帰ります」 仕事を終えた千代子は夜の中、傘をさして帰っていた。 「おい」 「きゃあ?是清さんですか」 暗闇に立っていた書類上の夫に千代子は驚きでドキドキした。 「驚かせてすまない」 「もう。止めてくださいよ」 「だからすまないって、謝っているだろう」 そんな横柄な態度の彼は、雨に濡れていた。 「どうぞ。傘に」 「いいのか。お前の家まで送るから」 一つの傘で二人は夜道を歩いた。この時間、神楽坂は帰る客も途絶え、従業員が多かった。 「千代子。どうして最後は来なかったんだ」 「手を火傷したので」 彼に頭が来ていた千代子はそう言ってやった。すると是清は驚きで傘を持ってくれた。 「もしかして。鍋の時か」 「そうです」 「貸してみろ……赤くなっているな」 ……どうせ。私は形だけの奥さんだもの…… 「平気です。大丈夫」 「でも」 「いいの。私はあなたにとって形だけの奥さんでしょう!これ以上、私に構わないで!」 感情が溢れた千代子は彼に傘を預け走り出した。 ……はあ、はあ……バカみたい…… 「千代子。待て!」 追いついた彼は傘を投げ出し、夜道の千代子を抱きしめた。 「離して」 「離さない。俺はお前の夫なんだから」 「嘘です。お父様に言われて、借金の担保なのでしょう」 「千代子」 「お金のためでしょう?私に優しくするのは」 ……ああ、彼女はこんなに傷付いていたなんて…… 焼きもちを妬かせるつもりが、こんなにも彼女を苦しめてしまったことを是清は抱きしめるように反省した。 「……千代子。俺はお前が好きだ」 「嘘」 「嘘じゃない。本当だよ」 そう言って是清は千代子に口づけをした。千代子はびっくりしていた。 「さあ家まで送る。傘は、あった」 拾ってきた彼はびしょぬれだった。千代子も濡れたまま長屋の家に帰って来た。 「さあ、入れ」 「待って今拭くものを」 「俺はいいよ」 傘を差した是清は、千代子に向かった。 「とにかく早く家に入れ。そして鍵を掛けるんだ」 「でも」 「心配なんだ。早く入れ」 千代子は言う通りにした。是清は雨音の中、静かに帰って行った。 翌日。千代子は是清の自宅の顔をだした。 「まあ。やっぱり寝込んでいるんですか」 「濡れて帰ってきましたのでね」 「ちょっと失礼しますね。是清さん」 「ん、千代子か」 自室で寝込んでいた彼を千代子は看病すると言った。余市は千代子に任せて買い物に出かけて行った。 「悪いな」 「私のせいですもの、今、手拭いを取り替えますね」 「千代子。お前は平気なのか、手の火傷は」 まだ心配している彼に、千代子はもう心を許していた。 「平気です。さあ、休んでください。側にいますので」 「いてくれるのか」 「……いるだけですけどね」 そんな彼を看護していた千代子は、夕べの疲れで一緒に寝てしまった。 布団が重い是清は少し体をずらし、千代子と眠った。 雨あがりの南の太陽。池のカエルがうるさかったが、ともに眠る二人には互いの心音しか聞こえていなかった。 完
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