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十一 烈火のごとく
「失礼ですけれど、あなたは佐伯さんの家の人ですか」
「左様ですが、あなた様は」
「私は日本橋の柳原と申します」
佐伯の家から出てきた余市を女は捕まえるように道の端で話をした。
「今、お屋敷に娘さんが入っていきましたよね」
「あ、ああ」
「誰ですか、あの女は」
余市は、目を吊り上げて怒る突然の一代の勢いに圧倒された。
「言いなさい!私は是清さんの妻なんですよ!」
「それは何かの間違いですじゃ……それに坊はもう千代子様と結婚されているのですぞ」
「なんですって!?」
「離してくだされ!これ以上は警察を呼びまずぞ」
腕を解いた余市は逃げるように買い物に向かった。その場には彼女が立ち尽くしてた。
……そうか、あの姿、確かに神楽坂の……くそ……
母が亡くなったと日本橋に来た時、彼女は千代子を密かに見ていた。まだ幼い雰囲気があるが色の白い愛らしい目をしていたが、母に追い返された彼女のみじめな様子をほくそえんでいた。
この日。一代は日本橋に戻った。その胸は憎しみの炎で燃えていた。
◇◇◇
夕刻。是清は体調がよくなった。二人は余市が作った粥を食べた。千代子は歳月の仕事のため是清の自宅をでて職場へと向かった。
この夜。仕事を終え帰宅しようとした仲居達は、女将に呼び止められた。
「みなさん。最近、若い娘を狙う事件が起きているそうなの。そこで今夜から板前さんが送ってくれることになったから」
歳月の仲居達はほとんどが近場の住まいである。千代子も他の仲居達と組みになり、提灯を持つ板前を前に帰宅していた。
「最後にお前か」
「兄さん、お世話になります」
それでも千代子の長屋も近かった。板前は家に入るように千代子を即した。
「はい、それでは……あれ」
「ん。どうした」
「……鍵が開いているわ」
「どけ!俺が入ってみる」
入らなければ灯りを付けられない長屋。板前は引き戸を開き玄関に入った。
「お千代……勝手に入るぞ……灯りはどこだ。う」
「きゃああ」
板前が入った途端、室内にいた何者かが飛び出してきた。その者は暗闇で正体はわからなかったが、玄関でぶつかった千代子は男であるとわかった。
勢いで転んだ千代子は、それでも立ち上がった。
「兄さん、大丈夫ですか」
「お千代!水だ、早く」
「え」
千代子が家に入ると、そこは火の海だった。
◇◇◇
「では、お前さんが第一発見者か」
「はい」
まだ燻っている火事の現場で歳月の板前はそう証言した。
「お千代が戸が開いているというので、自分が部屋を確認しようとしたら、男が暗闇から飛び出してきて」
「刑事さん。兄さんの言う通りです」
「見知らぬ男ね……」
全焼した現場を刑事は目を細めていた。
「それは本当かね」
「え」
「お前さん達が部屋で逢引きをしている時、うっかり火事になったのでそんなでっち上げをしているのじゃないかね」
「逢引き?俺とお千代がですか?」
「ああ。板前と仲居の道ならぬ恋って奴だ」
「そんなはずありません!刑事さん、私達、そんなことはありません」
まるで板前が犯人だと言わんばかりの刑事に、板前と千代子は否定している時。背後から声がした。
「刑事さん!そんなはずありません。私達、夕べは一緒に帰ったんですもの」
「そうよ!私はお千代達と分かれて、家に入る前に悲鳴が聞こえて、すぐここに駆けつけたんですもの。逢引きなんてする時間ありませんよ」
「早く火付けの犯人を捕まえください!ほら、早く」
「わ、わかったよ」
仲居達の怒りに押された刑事は板前と千代子を不問とした。まだ大騒ぎの現場には、隣の老婆も寝間着姿で呆然と立っていた。
「千代子ちゃん……燃えちゃったね」
「う、うう。ごめんなさい」
「……お前さんのせいじゃないさ、でも……」
全てを焼失した千代子とトメは東の太陽の中、ただ空しく立っていた。
◇◇◇
日本橋。柳原質屋。
「言われた通り、娘の顔は殴って店にでられないようにしてやりました」
「そう」
嬉しそうな一代に男は続けた。
「腕もへし折りましたし、家も間違いなく全焼ですぜ」
「そう。腕を?ほほほほ」
最高の笑顔の一代に男は必死に訴えた。
「あのお嬢、それで」
「ところで。お前、顔は見られなかったでしょうね」
「暗闇だったんで。ところでお嬢、俺の借金は」
「ええ。無しにしてあげるわ」
一代は証文を手にして嬉しそうな顔をした。
「でも。それはまだよ。もっと貶めないと」
「そうだ……これがタンスにありました」
「簪、母親の物ね」
一代はひとまずこれを受け取った。
「わかったわ……まあ今回の仕事に免じましょう」
一代は証文をビリビリと破った。低姿勢だった男は笑うのを押さえ帰って行った。
……住む所もなく。ひどい顔で仕事も失い……ああ。いい気味だわ……
是清に手を出した罰を与えた一代は嬉しさに紅を引いた。男の話を信じた一代は、報告後、一人部屋で酒を飲んだ。太陽はまだ南であった。
◇◇◇
茫然とする千代子を案じた女将は、佐伯に連絡をした。迎えに来た余市に説得されたちよこは、佐伯の屋敷にやって来た。
「さあ、元気を出してくだされ。あのトメさんは息子さんが迎えにきたではありませんか」
「……すみません。ご厄介になって」
「何を言うのです!お嬢は坊の奥様ですから。ささ、まずは風呂に」
火事で煤けていた千代子は、徹夜ということもありどこか心あらずで風呂に入った。
この夕刻、是清は慌てて帰宅した。
「爺!千代子は」
「今、風呂から出たところです」
「どうだ?調子は」
「……爺ではだめです。坊はそばに、あ」
「お帰りなさいませ」
風呂上がり。ばあやのお下がりの朝顔の浴衣を来た千代子は、感情のない顔で是清に向かった。まだ濡れた髪のまま彼女は頭を下げた。
「この度は……私のために」
「いいんだよ」
「いえ。そうはいきません……私は、あなた様の……書類上の」
……それだけの関係だから、甘えては、いけないもの、この方に……
「千代子、もう。いいんだよ」
是清は心を失いかけている千代子を抱きしめた。
「お前は何も悪くない!それに、悲しい時は泣いていいんだ……」
「う……でも」
「俺がいる!俺が全部受け止めるから」
「う……うう」
千代子は泣いた。母が亡くなった時もこんなに涙は出なかった。母との思い出の家が無くなった今、本当に独りぼっちになった気がした。子供のように泣く千代子を是清はそっと部屋に連れ、泣き止むまで抱きしめてくれた。
……寝たか。泣き疲れて……
涙にぬれた顔は頬が紅色、その唇はさくらんぼ色に閉じていた。彼女を畳にそっと置いたかれは、押入れから布団をだし静かに敷き千代子を寝かせた。
この夜、彼は余市とこれからの事を相談していた。
……眩しい……のどが渇いた……ああ。ここは……
天井は知らない部屋だった。ここが佐伯屋敷と認識した千代子は廊下に出た。
「お嬢、おはようございます。ご気分は」
「余市さん、おはようございます。おかげ様で」
よく眠れたと千代子は言うと、余市は着替えを済ませ朝食の支度を手伝ってくれと言った。婆やの単衣の着物を着ると、彼も起きてきた。三人は何事も無かったように朝食となった。
「さて、千代子。これからのことだが」
「はい」
……早く住む所をさがしにいかないと……
「お前はここに住むことになった」
「え」
驚く千代子に彼は続けた。
「犯人がお前を狙っているようだから一人暮らしは無理だ」
「でも」
「歳月の女将もそう言っている。それに犯人は例の薬局の奴かもしれぬ」
「……あのご主人ですか」
悪徳の高利貸。是清が正式に抗議し千代子の借金は免除になったが、これが他の客に知られたら向こうは都合が悪いのでは、彼は飯を口にかきこんだ。
「それはありそうですね」
「それにだ、ん、おほん!」
彼が何気にお茶を出す余市を見た。余市はわかっていると目で合図した。
「あ?!痛痛……」
「どうなさいました」
「余市。いかがした」
「腰が急に……痛みが?ああ」
立っていられないと余市は壁に寄り添った。
「お嬢。わしはこんな調子でダメですわ……坊の世話をお願いできませんか」
素人俳優の名演技。笑いをこらえる是清を知らず千代子は本気で心配をした。
「わかりました!余市さんは休んでくださいね。ささ。是清さん。会社ですよね」
「おう。行くか」
こうして彼の身支度を千代子は手伝っていた。
「あらあら。髪がこんなに跳ねて……蒸しタオルを……」
タオルにお湯をかけてきた千代子は彼の頭のそっと乗せた。
「そして。今朝はこのシャツですね」
「一人じゃ無理だな」
いつもは一人で着ている彼は面白いので千代子に甘えてみることにした。何も知らない千代子は優しく彼に着せていた。
「ボタンも留めますね……首元は苦しくないですか」
「ふ、くすぐったいな」
「動くと止められない……じっとして」
「はいはい」
……ああ、元気になった。良かった……
「是清様」
「なんだ」
千代子は恥ずかしそうに彼を見つめた。
「あの……これからお世話になります。よろしくお願いしま」
す。と言う前に彼は千代子のおでこに口づけをした。
「こちらこそよろしく、奥さん」
「え」
「さて行くか、いい天気だな……」
そんな彼の鞄を持ち、千代子は玄関で見送った。
何度も振り返る彼に手を振っていた千代子は、ふと、父親を思い出した。
……お父さんも、お母さんが見送った時、何度も振り返っていたっけ……
千代子は今なら両親の気持ちがわかるような気がした。そんな母は没し、父にも逢えず家も無い。しかし、千代子の胸はいっぱいだった。
……まあ。まだ手を振っている?ふふふ……
角を曲がる彼は手を振っていた。千代子も手を振った。書類上の夫婦の二人には朝顔が優しく微笑んでいた。
完
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