一 黒い外国郵便

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一 黒い外国郵便

雨上がり。東京、目白の佐伯の屋敷の庭では雀の鳴き声が響いていた。戸籍上の妻の千代子は早朝から洗濯をし、物干しに干していた。 ……ああ、今日も暑くなりそうだわ…… 庭に咲いた小さな傘は夕べの水滴を身に帯びていた。そんな朝顔に微笑むと彼女は屋敷内に入った。竈にはすでに飯が炊けていた。そろそろ彼を起こす時間だった。 「奥様、おはようございます」 「おはよう。余市さん。どちらに行ってきたんですか?」 「涼しい時間に神社のお参りをしてきました。さて、そろそろ起こしてください」 「はい」 ……ゆうべも遅かったから、お疲れでしょうけれど…… 千代子はそっと夫が寝ている部屋の襖を開いた。畳の部屋、夕べは寝苦しかったのか彼ははだけた浴衣姿で寝ていた。 「おはようございます。是清様」 「……う」 「そろそろ時間ですよ。今朝も良い天気です」 そういって部屋に朝日を入れた千代子に、彼はまぶしそうに寝返りを打った。 「うう……」 「ね?起きてください、うわ」 側で声を掛けてきた妻を彼は捕まえて布団に倒し、抱きしめながら目をつむった。 「ん……今日は休みにしよう」 「何をいうのですか?だめですよ、さあ、起きて」 ぺち、と是清の頬に手を添えた千代子の手に、彼は甘えるように押し付けた。 「そんなに俺に働けというのか」 「そういうわけではないですけれど、お仕事ですもの」 「確かにそうだな……く。ふわああ」 ようやく千代子を解いた是清は、大きく伸びをした。この隙に布団から脱出した千代子は、さあと彼の手を引き起こした。ひどい寝ぐせの彼を洗面所に送り出した千代子は、台所に向かった。 こうして是清は千代子に送り出され、神田、神保町の事務所にやってきた。 「おはようございます。なんか、生き生きされていますね」 「まあな」 新聞と読む是清にお茶を出した小林は、さっそく仕事を彼の目の前に持って来た。 「本日はですね。例の土地の件で、先方に返事をしないといけないですし、他にも高輪の例の雑居ビルの件も、今日銀行が話をしたいと」 「ああ。そうだったな」 「……はあ。本当に良かった」 机に向かい書類に向かう是清に、秘書の小林は感動していた。 「いかがした?」 「いや?仕事がはかどって助かるな」 「俺はいつもこんな感じだろう?、さて、これは」 安堵している小林に白い歯を見せた是清は、改めて今手掛けている物件を確認した。 「例の九段下の土地、か」 「はい。現在、先方の情報を取っています」 佐伯商事は不動産投資で利益を得ている会社である。土地を安く買い、高く売る、と言う単純なものであるが、売れなければ話にならない。 是清のやり方は、とにかく場所だった。 ……この土地は広いな…… 是清は事務所を歩き出した。 現在、狙っている土地は駅からは遠いが広い土地だった。 「小林。ここは今、どうなっているんだ」 「古い屋敷があるだけで、無人ですね」 「一度、見に行くか」 今回の話は、佐伯からではなく、取引相手からの情報だった。この取引相手は是清の貸しがあったため、儲け話をもってきた流れであった。 広い土地の取得には多額の資金が必要である。取引相手は自分では無理だと是清に話をしていた。 ……これだけ広い土地はなかなかない。 「そうですね、良く調べないと」 「ああ、ん?電話だぞ」 「はい。佐伯商事です……え、ちょ、ちょっとお待ちください」 血相を変えた小林は、受話器を押さえ是清に向かった。 「社長。電話は日本橋の柳原さんで、一代さんです」 「……要件は?」 「そ、それが、柳原氏が亡くなったと」 「貸してくれ。もしもし、お電話代わりました、佐伯です」 窓の外は晴天、行き交う自動車の音がしていた。佐伯にはそれも聞こえず、受話器の向こうの声に思いを巡らせていた。 ◇◇◇ 「千代子」 「まあ、お早いお帰りで」 昼下がり。自宅に帰って来た是清に驚く千代子に対し、彼はそっと肩を抱き部屋に入った。 「良いか。心を落ち着けて聞けよ」 「……はい」 汗だくの彼は、目をパチクリしている千代子を前に深呼吸をした。 「はあ……あのな。柳原氏が亡くなった」 「……それは」 「ああ。惣兵衛さんだ。お前の父親だ」 「死んだのですか」 「そうだ。台湾旅行中に、交通事故で」 「まあ……」 悲しいというよりも千代子は驚いた。それは是清も同様だった。 彼は余市が持って来た麦茶を飲んだ。 「それでな。日本橋の一代さんから電話があった。今は長男さんが現地で確認しているそうだが、現地で骨にしてこちらで葬儀になるそうだ」 「大事(おおごと)ですね」 「千代子。それでな、その」 是清は言いにくそうだった。蝉の声と風鈴の音色が行き交う部屋で、千代子はただ彼の言葉を待った。 「……今回、俺には連絡が来たが、本家はお前を呼ばないかもしれない」 「そう、でしょうね」 千代子は是清の麦茶のグラスの水滴を見つめていた。 「あの奥様なら。そうだと思います」 「まだ葬儀の日程は決まっていない。とにかく俺は葬儀の前に一度、柳原家に行ってみる」 「はい」 一代から連絡を受けた立場上、是清は日本橋に向かった。取り急ぎ、と言う意味で喪服ではなく仕事のシャツのまま彼は出かけて行った。 「……奥様、お茶にしましょう」 「余市さん」 晴天の昼下がり。二人は東向きの部屋で庭を眺めながら水ようかんを前に話を始めた。 「大変なことになりましたな」 「ええ……お葬式も大変だと思うけれど、お父様は奥さんが何人もいるから、それがきっと大変だと思うわ」 「そんなにいるなら、兄弟も多いわけですな」 「会ったことはないけれど。そうですね」 ここで千代子は指を折り始めた。 「本家には、先妻のお子さんの『億夫(おくお)さん』。そして今の奥さんの娘の『一代さん』。次は私『千代子』。そして確か男の子で『百助(ももすけ)君』で、他にもいるかもしれないですね」 「では、その億夫さんが後継者ですかな」 「そうだと思いますけれど、お父様は前から億夫さんをよく言っていなかったわ」 千代子は水ようかんをパクと食べた。 「以前、質屋に入って来た骨董品で、お父さんが気に入った刀のつばがあったそうなの。それを見ようとしたら、億夫さんが勝手に売ってしまったって、怒っていたもの」 「質屋ですものな。売らずに宝物にするわけですな」 「そうみたいですね。お父様は神楽坂に来たのも、骨董品を集めるためだったから」 神楽坂の料亭で骨董品の取引を終えた父は、嬉しそうに千代子にその価値を話していたことを思い出していた。 「もしかして。その外国旅行も骨董品のために行ったのかもしれないですね」 「だが、葬式をするのは長男さんでしょうな」 「さあ……私はわかりません」 食べ終わった千代子は縁側から空を見つめた。ぽっかりと雲が浮かんでいた。 ……交通事故、か。あんなに自由にしていた人が…… 千代子には優しい父だった。年を取っていたためどこか祖父のような雰囲気もあり、多忙であったため接点も思い出も少なかった。 ……夏には、スイカを買ってきてくれたっけ…… それは彼自身の好物だからと千代子は思い出し、微笑み、下駄に足を入れた。踏み出した庭で千代子はうーんと伸びをした。遠くの空を仰いだ。異国までつながる青い空。父への憎しみや悲しみを千代子は天空に溶かしていた。 その夜、帰宅した是清は汗の服を脱ぎながら柳原の事情を説明した。 「大騒ぎでな。俺は番頭さんとしか話ができなかったが、葬儀が決まり次第、連絡をくれるそうだ」 「是清様は参列するのね」 「まあな。書類上の婿でもあるが、仕事の付き合いも実際にあったし」 「喪服はいつでも用意ができていますからね」 「千代子もだぞ」 「え」 風呂前、上半身裸になった是清は、千代子に向かった。 「お前は娘で俺の妻だ。卑屈になる必要はない」 「でも、本家の人が」 是清は千代子の背を叩いた。 「俺がいるんだ。その時は一緒に行くぞ!さて、風呂だ、風呂風呂」 「はい……」 頼もしい夫はそういうと風呂場に向かった。夜の風鈴が冷涼に流れる佐伯家には、優しい時間が流れていた。
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