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二 涙のない式
「参るぞ、千代子」
「はい」
喪服姿の是清は、黒いワンピース姿の千代子を連れて日本橋の柳原の母屋にやってきた。蝉がうるさい酷暑の葬儀には大勢の参列者が来ていた。
……ああ、奥さんだわ。
玄関に庭先。以前、千代子を追い出した正妻は、大勢の弔問客に挨拶をしていた。以前会った時よりもやつれている彼女を千代子は帽子の黒いレース越しで見ていた。
受け付けを済ませた二人は母屋に入ろうとした。
「まあ、是清さん、来てくれたのですね」
「一代さん」
喪服の一代は是清を見るなり、胸に飛び込んできた。
「私……悲しくて」
「あの、一代さん」
「来てくださったんですね、私のために」
人前で是清に泣きついた一代であるが、彼は彼女をすっと押しのけた。
「すみません。人前なので」
「ご、ごめんなさい」
彼に拒まれた一代はふと、彼の隣に立つ黒いベールの女性に気が付いた。
「そちらの方は?」
「……千代子です。さあ、挨拶を」
……是清さんがいるから。勇気を出さないと……
「初めまして。千代子です」
「千代子さん?」
「旧姓は伊藤です。今は私の籍に入っている」
どこか事務的に紹介する是清に一代は眉をひそめた。
「何を言うの……あなたの妻は私でしょう」
「やはり。君は惣兵衛氏から何も聞いていないのですね」
是清の悲しそうな顔に一代ははっとした。
「千代子ってまさか、神楽坂の」
「……そうです。千代子が私の妻になっています」
「まさか……」
和服の一代は驚きで一歩下がった。千代子は悲し気に異母姉にうつむいていた。千代子を見る一代のその目は一気に怒りの炎が見えた。
「どういうことなの、是清さん。あなたの妻は私でしょう?!」
「一代さん、落ち着いて」
「ちょっと、あんた、離れなさいよ!いいから、下がれ!」
「止めて。止めてください」
千代子に掴みかかった一代は、千代子をなぐろうとした。これを見たそばにいた関係者は一代を取り押さえた。
「離せ!誰か、あの女を追い出して!」
暴れる一代は髪を振り乱し、関係者数人でやっと抑えていた。一代の乱心に周囲が困惑する中、彼がやってきた。
「何を騒いでいるんだ」
喪主である億夫は羽交い絞めされている異母妹を一瞥し、是清に向かった。
「あなたは」
「喪主の方ですね。この度はご愁傷さまです。私は佐伯是清と申します」
お辞儀をした是清に少し遅れて千代子もお辞儀をした。億夫はこれを受け入れた。
「私は長男の億夫です。妹が何か」
「兄さん!その女は神楽坂の芸者の娘だよ!それに佐伯さんは、私の男なのに」
「神楽坂、ああ……」
億夫は静かに千代子を見つめた。
「では、お前も私の異母妹ってことかな」
億夫の意味深長な物言いは、惣兵衛に声が似ていた。千代子は思わず頭を下げた。
「……千代子と申します。せめてお線香だけでも」
「兄さん!早く追い出して!そんな女の顔なんかみたくない!」
「一代は黙れ。佐伯さん。今は話もできませんが、千代子と言ったね」
「はい」
億夫はちらと一瞬、父の後妻を見た。遠巻きで事態を見つめる彼女も烈火のごとく怒っていたが、彼は無視した。
「最後の別れだ。好きにするがいい」
「ありがとうございます」
「離せ!誰か、あの女を追い出して!離して」
一代が暴れ叫ぶ中、逃げるように是清と千代子は室内に入った。そして案内された祭壇で焼香した。
遺影の前には菊の花と遺骨だけだった。
……お父さん。お母さんも死んでしまったのよ……生きている間に伝えたかったわ……
涙はなく。手を合わせていた千代子は父の遺影を空しく見ていた。
「千代子」
「はい」
……さようなら、お父さん……今まで、お世話になりました……
二人は席を立った二人は一代の狂う様子に目を瞑るように焼香だけをして、柳原家を後にした。
帰りの車のハイヤーの後部座席で、千代子は是清に詫びた。
「すみません、私のせいで」
「もう謝るなと言っているだろう、それに俺のせいでもあるしな」
灼熱の午後、道の先には蜃気楼が見えていた。
「でも焼香できてよかったな」
「はい」
「だが、これから遺産問題があるだろうな」
そんな複雑な思いをした葬儀の後。是清がいる佐伯商事に弁護士がやってきた。
「私は西村と申します。柳原惣兵衛氏の遺産についてお伝えしたいことがあって参りました」
「お暑い中、どうもご苦労さまです」
高齢の西村は帽子を外し、小林が出した麦茶を飲むと話だした。
「ええと現在の状況を確認しますが、是清さんは、柳原惣兵衛氏の娘、伊藤千代子さんと結婚している、と言う事で間違いありませんか」
「はい」
「そして今は一緒にお住まいですな?」
「はい」
「それを前提でご説明をします」
彼は椅子に背持たれた。
「私は惣兵衛氏の遺言を預かっております。今後、家族会を設けて、遺産の話をしたいと思います。その席に千代子さんと是清さんも来ていただきたく思います」
「それはつまり、千代子に遺産の権利がある、と認識して良いのですね」
「詳しくはその席で話します」
西村はすみませんとお茶を飲んだ。是清もいいえと首を振った。
「それですね。惣兵衛氏には他にも愛人に産ませた子供がおります。その家族会には全員来てもらう形です」
「千代子からそれは聞いていますが、何人いるのですか」
「それもその時で、本当に申し訳ないです」
「こ、こちらこそ。そうですよね」
つい聞きすぎた是清に西村は疲れた顔を見せた。
「私は惣兵衛氏とは古い付き合いで、彼の遺言を預かることになっていたのですが、まあ、今回は大変でしょうね」
……これはもめそうだ……そうだよな。
愛人の子供がたくさん。そして自分という謎の婿の存在に是清も肩を落とした。
「お互い大変ですね」
「そういってくださるのは佐伯さんだけです。実はこの話を皆さんにしておりますが、開口一番『いくらもらえるのか』って、そればかりで」
「そうですか」
西村が気の毒に見えた是清は、帰宅後、千代子にこの話をした。
「私も家族会に行くの?」
「娘だから当然だろう。それに俺と籍を入れたのは、お前の親父の仕業だし」
「……でも」
「千代子」
是清は千代子の頭に手をポンと置いた。
「大丈夫だよ、俺が一緒に行くから」
「うん」
「それに、弁護士さんもいる席だ。葬式のようなことはないさ」
「でも遺産って、私は」
是清はそっと千代子を抱きしめた。
「もうそれは考えるな。当日行けばいい。それで終わりだ」
「……はい」
「それよりも今夜の飯はなんだ?煮物の匂いがしたぞ」
……ああ、優しいこの人は……
千代子は彼の胸の中から顔を上げた。
「鼻がいいのですね。そうです、他には」
「酢の物だろう?知っているよ」
是清は千代子の額に自分の額をぶつけて笑った。是清の明るさで元気がでてきた千代子は、勇気をだして柳原惣兵衛の家族会にやってきた。
「さ、千代子、手をつなごう」
「はい」
「大丈夫、俺がいるからな」
「はい」
日本橋、柳原の母屋の広間には座布団が並んでいた。千代子は指定された席に着いた。
正面に惣兵衛の遺影と花と線香が供えられていた部屋は、静まり返っていた。
完
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