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五 秋の雨
「奥様。旦那様から連絡がありましたぞ」
「はいはい」
彼を待っている千代子は余市の伝言を聞いた。それは事務所に着替えと届けて欲しいというものだった。
「わかりました、さっそく」
「お待ちください。日中はでかけているそうで、来てほしいという時間が決まっています」
「そうなの」
……でも逢うのは久しぶりだわ……
是清が金策に走っていると考えていた千代子は、この機会に彼にお金を渡そうと思った。お金の事は弁護士の西村に任せていた千代子は佐伯商事に向かう前に、西村の事務所を訪ねた。
「そうですか、遺産を是清さんの事業資金に」
「はい。私には大金すぎますし、それにその、夫のためですから」
頬を染める千代子に西村はわかったと書類を持って来た。
「これに添って書いてください。私が千代子さんの指示通りに是清氏にお金を渡しますので」
「お願いしますね。ええと」
……是清さんはきっと受け取ってくれないから……
こうして西村を頼って依頼をした千代子は書きながらふと、偽台帳の事を思い出した。
「先生、私の知り合いの事件ですけど」
「はいはい」
他人のふりをして事件の話をした千代子は、或る想定を彼に話した。
「例えば。その台帳のそのページだけ偽物とすり替えるのは可能ですか」
「……可能と言えば可能ですな」
「やっぱり」
「ですがな」
西村は千代子が持参したまんじゅうを食べながら話した。
「堂々とはできませんな。役場の職員がいますので」
「先生、この事件の犯人は一人ではありません。すり替える時、複数で囲んで隠せばできますよね」
「できますね。だがその場合、精巧な偽物が必要ですが」
答えに納得の千代子に、弁護士は続けた。
「しかし、それには盲点がありますぞ」
「なにですか」
「いくら精巧な偽物でも。そのままにしておけばさすがに役場の職員が気が付きます」
「ええ、だから犯人は騙す相手が台帳を見る時だけ、すり替えれば良いのですよね」
「千代子さん。無理ですよ、そんなことは」
「いいえ、できるのです、残念ですけれど」
悲しい事実を知ってしまった千代子は指定された時刻に彼の事務所を訪れた。
……お弁当も持ってきてしまったけれど、食べてくれるかしら。
深呼吸をした千代子は声を張った。
「すみません」
……あれ?鍵が開いているわ……
奥の部屋は暗いが、薄く灯りがもれていた。千代子は声を掛けてそっと戸を開いた。
「是清さん?」
「止めてよ、もう。くすぐったいじゃないの」
「え」
その奥のソファでは、上半身裸の是清が女性と抱き合っていた。
◇◇◇
千代子は思わず持って来たものを床に落としてしまった。
その音で彼はこっちを向いた。
「なんだ、来ていたのか」
「ど、どういうことなの」
「ねえ。何この女」
真赤な口紅の女性は彼に抱き付きながら千代子に向かった。
是清はため息交じりで千代子を見た。
「まあ、千代子。こういうわけだ」
「こういうわけって」
「俺はこの女が好きになったんだ。だからお前とはこれきりだ」
「そんな」
悲しみで涙が出てきた千代子に、是清は目を細めた。
「とにかく、そういうわけだ」
「ねえ、早く!私、寒いわ」
「……」
千代子はこの場から逃げるように事務所を出た。
どこを走っているのか。何を思っているのか。訳も分からず走っていた。
……好きな人が出来たんだわ、だから帰って来なかったのね……
そして立ち止まった。足元の雑草は滲んでみえた。
……あ、裸足だったんだわ、そんなことも気付かずに……
悲しみの千代子は血だらけの足の痛みも、感じなかった。
「ただいま」
「奥様、心配したんですぞ、ああ、こんなに濡れて」
……ああ、濡れていたのね。
それさえも気付かずに立っていた千代子は余市の胸で号泣した。
「どうしました、坊には会えたのですか」
「是清さんには好きな人ができたの」
「まさか」
「うう……一人にしてください」
暗い部屋、畳の和室、窓の外は雨。彼が買ってくれた小紋は濡れて泥だらけだった。
茫然とする感覚。寒くもなく、痛くもなく。いつの間にか意識がどこかに飛んでいた。
……そうか、私、そんなに是清さんのことが……
好きだったと、千代子の目から熱いしずくがおちていた。膝から落ちて畳にへたり込んだ千代子は、暗い部屋で一晩中、泣いていた。
完
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