五 秋の雨

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……あ、まぶしい…… いつの間にか。千代子は寝ていた。体には布団がかかっていた。しかし着物が濡れて気持ち悪かった。それでもよろよろと廊下に出ると。余市が何も言わず風呂を勧めてくれた。 まだ明るい時間であったが、千代子は風呂に入った。顔をお湯に埋めた千代子は、泣き腫らした顔を洗うと、風呂から出た。 そして余市が出してくれた食事を食べた。温かいうどんを千代子はあっという間に食べた。 「ごちそうさまでした」 「こちらこそ」 余市は何事も無かったようにしてくれた。その優しさに千代子は甘えてはいけないと自室にこもった。 ……さて。私の荷物は、と…… 神楽坂の実家から持って来たものは火事で焼失したため無く、ほとんどが是清に買ってもらったものだった。千代子はこれらに頭を下げて礼をすると、今度は机に向かった。 ……ええと。届出は、ここにあるわね…… 彼と出会った時、これを必死に書いたことを千代子は思い出した。 ……あの時は、知らない男の人との結婚は嫌だったな。 離縁したくてたまらなかった自分は、必死に文をしたためてこの屋敷に尋ねにきたことを思い返していた。 ……「書類上の旦那様」か。私もただの「書類上の妻」だったのね。 とめどなく流れる涙で文が濡れないように、千代子は力を振り絞り、紙に向かった。この届出がこのまま使えると思った千代子は、これを彼宛の封筒にしたためた。 これ以外にも千代子は手紙を書いた。そして翌朝、佐伯家を出て行った。 ◇◇◇ 「そうか、出て行ったか、わかった、近いうちに一度帰る」 「社長。ご実家ですか」 「ああ」 佐伯商事の事務所、電話を切った是清はため息で立ち上がった。その背中を小林は心配そうに見ていた。 「本当に良いのですか」 「なにを」 「千代子さんの事です。彼女は親もいないのに」 「彼女は優秀さ。それに金もあるし、ん。誰か来た」 借金取りだと思った二人は声を潜めた。 「すみません。弁護士の西村です!佐伯さん」 「……千代子の実家の弁護士だ。開けるぞ」 扉を開けて中に入れた是清に黒い鞄の西村は説明を始めた。 「なんですって。千代子が?」 「はい。是清さんの事業資金に使用して欲しいと」 「……」 言葉が出ない是清に代わり、小林が質問した。 「あの、それは。いつの話ですか」 「依頼されたのは三日前で。昨日も直接事務所に見えられて色々お話をされていきました」 「昨日?……そんな」 三日前。彼女のために女を使い演技をした是清は、その目撃後に弁護士に手続きをしたことに頭が真っ白になった。 頭を抱え混む是清に西村は書類を差し出した。 「これは、あなた様に遺産を譲るという内容です。そして、こちらは、離婚届ですね」 ……ああ、千代子の字だ…… 是清は涙で目をつむった。 「先生……千代子は何と言っていましたか」 「離婚届は是清さんに出して欲しいと言っていました。それと、最後にこれを」 「わ、悪い小林。受け取ってくれ」 背中を向けた是清の代わり、小林がこれを受け取った。弁護士はこの日はこれで帰った。涙で落ち込む是清を小林は一人にした。 ……俺は、何という事を…… 離婚届はとても読めなかった。是清はこれを机にしまった。そして手紙を開封した。 そこには今までの感謝がしたためてあった。涙で彼はぐちゃぐちゃになっていた。 ……ん、もう一枚ある……極秘にて…… そこにあった内容に是清はすぐに小林を呼び寄せた。そして警察署に相談し、犯人の一人が逮捕された。 ◇◇◇ 「あの事務員がグルとは、まだ信じられませんよ」 「いや、よく考えれば千代子の言う通りなんだ」 後日の佐伯商事では是清が仕事を進めていた。 「偽台帳のすり替えは、俺が役所に行く日にあわせてやっていたんだ。だから俺の予定をしっていないとこれができないわけさ」 「しかも。これを福沢氏の住所でもやっていたわけ、か」 詐欺集団は是清を騙すために大掛かりな計画を実行していた。彼を信用させるために福沢退助の四谷の土地までも、周囲も所有している内容にすり替えていた。九段坂の土地の偽造と現住所までも過大に偽造した二重仕掛けに、今更是清は感心していた。 「でもこれを見抜いたのは千代子さんですよね」 「まあな」 ……しかし、どこにいったのだ…… 顔が暗くなった是清に小林はしまった!という顔をした。 「すみません。つい」 「いいんだ。では、今日はこれで帰るぞ」 そんな是清は夕刻、会社をでた。 多額の借金であったが、佐伯商事の事務所が売れた是清は、事件に加担した事務員から犯人を突き止め、警察も逮捕に至っていた。 金は半分以上無くなっていたが、事務員の愛人が隠し持っていたためこれを回収した。その後、借金があったが是清は千代子の金を使い投資をし、今はかつての資産を取り戻しつつあった。 千代子の金を使うのはためらわれたが、千代子の思いを無駄にしないで欲しいという余市の懇願もあり、是清はこれを使った。そんな千代子の金は元の金額に戻っていた。 ……今夜こそは、女将から聞くんだ。千代子の情報を…… 彼女を探す是清は、神楽坂に向かっていた。季節は冬になっていた。 完 次回は最終話です。 ご愛読ありがとうございました。
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