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六 木枯らしに会いに
「おはよう。百助君」
「何時……」
「もうすぐ七時よ、起きないと遅刻するわよ」
「わかっているよ」
寝ぐせの彼を微笑で起こした千代子は、彼の母親の部屋を開けた。
「おばさん。百助君は起きました」
「まったく。私が起こしても起きないくせに」
小料理屋をしている百助の母親のレイコはまだ眠そうに起きてきた。そんな母子に朝食を食べさせた千代子は、彼を送り出し、レイコをまた寝かせた。
そして近所のレイコの店のカギを開け、中の掃除を始めた。
是清の家を出た千代子は、神楽坂にいくつもりであった。しかしその前に弁護士から百助の相談を受け、彼の家に立ち寄っていた。
遺産をもらえる百助に目を付けた惣兵衛の弟夫婦が彼を養子にしたいという話に対し、彼の返事が無いというものだった。
千代子が確認すると、彼はとっくに断ったと言うが、母親のレイコが体調不良で寝込んでいた時だった。そんなレイコの頼みで千代子はこの家で暮らしていた。
……さてと。レイコさんのお店の仕込みをしなきゃ。
まだ寝ているレイコの代わりに千代子は仕込みを始めた。野菜を洗い切り、魚を三枚におろしていた。歳月にいた時の事を思い出し、少し微笑む元気が最近になって出て来ていた。
歳月の女将には元気にしているとだけ連絡をしておいた。女将の顔を見るとどうしても是清を思い出しそうで怖かった千代子は、この家で少しづつ元気を取り戻していた。
そんな千代子はこの夜、レイコの小料理屋を手伝っていると、客は彼女の顔をまじまじと見ていた。
「どうかなさいましたか?」
「い、いや?なんでもないよ」
客の様子がおかしかったが、千代子は母屋に戻って来た。
「ただいま」
「千代子姉さん。店には行かないでって言っているだろう」
「届けものをしただけよ」
「……いいから、お風呂は姉さんの番だよ」
どこか不機嫌な弟であるが、優しかった。今夜も千代子は彼と一緒に過ごしていた。
「姉さん、何を読んでいるの」
「新聞の求人欄よ。仕事を探さないと」
畳の上に新聞を広げていた千代子に百助が肩を寄せた。
「別にいいじゃないか、ずっとここにいても」
「そんなわけいかないわ。あ、これはどうかな」
温泉街の仲居の仕事を読む千代子に百助はムッとした顔で新聞を叩いた。
「だめだよ。こんな仕事は」
「どうして?住み込みだし、お手当もいいもの」
「お金なら、僕がもうすぐ働くから」
「まあ、何を言い出すの」
千代子は自分よりも背の高い弟を見つめた。
「百助君は成績が優秀なのよ。進学して良い会社に就職して、レイコさんに楽をさせてあげなくちゃ」
「母さんはもう楽をしているからいいんだよ。それより、姉さんの方が」
「いいの、私は。さて、もう寝ましょう」
もうすぐ暖が恋しい季節であるが、千代子はレイコの部屋で先に眠った。慣れない天井のシミを見ていた。
……やっぱり明日、電話で温泉の仕事を詳しく聞いてみよう。いつまでも甘えていられないもの……
そして翌日、いつものレイコの店の仕込みを終えた千代子は、近所のタバコ屋で電話をし、温泉旅館の面接を予約した。せっかく外出した千代子は、この近くに移り住んでいるはずの長屋仲間のトメに逢いに行った。
「トメさん。元気ですか?」
「あ!もう、ちょっと、千代子ちゃん……お前さんはね」
「痛いです。トメさん、どうしたの」
「どうしたのじゃないよ」
腕を引くトメは興奮していた。
「あの旦那だよ。お前さんを探しているんだよ」
「どの旦那さんですか」
「バカ!例のほら、書類上の旦那様だよ」
「え」
驚く千代子にトメは腕を組んだ。
「聞いたよ。遺産を置いて出てきたんだってね。でもあの旦那はお前さんを借金取りから逃がすために、わざと演技をしたって私に頭を下げたんだよ」
「……ちょっと待って」
考えが及ばない千代子は、頭を抱えていた。
「でもね。トメさん、是清さんは好きな人ができたって私に言ったのよ」
「だから!それが嘘だったんだとさ。お前さんの旦那はね。ここで私に土下座して『千代子の行き先を教えてください!』って言うもんだから。もう近所の人も集まってさ、大変だったよ」
「そう、だったんですか」
まだ困惑している千代子はもしかして、と思い歳月の女将に電話をした。すると女将のところには毎晩彼が通っていると話し出した。
『是清さんは話があるそうだから、一度ゆっくり話し合いをしたほうがいいわ。場所はうちの店でもいいから』
「はい……また。連絡します」
……まさか、是清さんが私を探しているなんて……
てっきり他の女性と結婚したと思っていた千代子は驚きのまま百助の家に帰って来た。
「ただいま」
「姉さん、お帰り」
「うん、あれ、お客様なの?」
玄関の男性用の革靴を見た千代子に、百助は嫌そうな顔でうなずいた。
「招かざる客だけどね」
「それなら私。外で時間をつぶしてくるわ」
また出かけようとした千代子を、彼は背後から抱きしめた。
「待って!いいの、入って」
「でも」
「……追い返してもまた来るだろうし」
「どういうこと。あ」
そんな室内には彼が正座をしてこちらを見ていた。どこか怒っている顔だった。
「千代子。探したぞ」
「是清さん、どうしてここに」
「レイコさんの小料理屋で、お前を見かけたって聞いたんだ」
「姉さん。僕は外にいるから、何かあればすぐに来るから」
百助は是清をギンと一睨みすると、背を向けて部屋を出た。彼が玄関を出た音を口火に是清は話し出した。
「千代子、すまなかった」
「是清さん」
土下座をする是清は必死に話した。
「お前に金の苦労をさせたくなくて、あんなことをしたんだ」
「……」
「でもお前は、俺に金を残して消えてしまって……すまない。もっと正直に話をするべきだった」
……どうして、今更……
必死に忘れようとした彼は、今、ここにいた。千代子の心は揺れた。
「あの女の人は」
「金で雇った女優の卵です……」
「例の借金はどうなったの」
「返しました……千代子のお金も使ったが、今は元の金額です……」
「そう……」
土下座の彼の黒髪を見た千代子は思わず涙がでてきた。
「でも……私たちは離婚したのでしょう?」
「してない」
「え」
是清は顔を上げた。その顔は真顔で額には畳の跡がくっきりと残っていた。
「出すわけがないじゃないか、俺の妻は一生、千代子だけだ」
「……でも」
戸惑う千代子を是清は抱きしめた。
「お前の書いた手紙を見て目の前が真っ白になったよ!俺は何のためにこんなに働いているのかって。俺は、お前と一緒になりたかったのに」
「是清さん」
「なあ?千代子。まだ俺のことが好きか?それとも、他のその、あの、別に、あれとか……」
必死に千代子の頬を包む是清の手は大きくてあたたかった。千代子の涙がボロボロと溢れた。
「……千代子は……あなたが酢の物が好きだって言った時から」
「おお。千代子」
返事を待たずにされた口付けは、二人を優しく包んだ。そして是清はやっと体を解いた。
「良かった……本当に」
「そんなに心配だったの」
「だって。百助君とあんなに仲良くして……正直、帰りたくないって言われると思っていたよ」
「だからあんな素っ気無い態度だったんですか」
うんと是清はうなずいた。
「千代子。もう一度だ。俺を抱いてくれ」
「まあ甘えて」
千代子は是清をぎゅうと抱きしめた。
「頼む、もうどこにも行かないでくれ」
「……はい」
この後、一緒に帰ると聞かない是清に千代子は帰ることにした。レイコには是清が事情を話している間、千代子は支度を整えた。玄関の外、星の下、帰ろうと外に出た千代子の前では是清と百助が話し合っていた。
「千代子姉さんのためですからね」
「わかっているよ」
「次は無いですから」
「もうそんなに怒るなよ。あ。支度できたか」
ここで百助は千代子をじっと見た。
「姉さん。何かあったら戻ってきていいからね」
「ありがとう、百助君」
「お、おい!?それはもうないって、さあ、千代子、帰るぞ」
夜道。二人は手をつないで歩いた。
「寒くないか」
「少し」
「もっとこっちに来い」
寄り添って二人は歩いた。吐息は秋色になっていた。
「ねえ、月が綺麗ですね」
「どれ、おお、本当だ」
手を握る二人は夜空を見ていた。
「歳月で出会った時も、お前は天気の話ばっかりだったな」
「よく覚えていますね」
「お前の事は全部覚えているよ……千代子。もっとそばにいてくれ」
透き通った空気の中、名実ともに夫婦になった二人に星が輝いていた。
最終話へ
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