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一 悲しみの朝
「お母さん。お薬の時間よ」
「……千代子。すまないね」
「良いのよ。ほら。体を起こすわよ」
大正時代、東京神楽坂。下町の長屋の春の夕暮れの中、仕事帰りの十六歳の伊藤千代子は病の母、ソヨを布団から起こした。二人暮らしの長屋の狭い古い畳の部屋は静かだった。
寝巻き姿の母はかつての輝きを失い、髪は白髪でシワだらけの顔になり、体はすっかり痩せてしまっていた。そんな母を励ましながら、千代子はこの日も母に粥を食べさせた。
「ご馳走様」
「もう食べないの?それでは元気にならないわ」
しかし母は布団に横になってしまった。目を伏せ息を整えた母は娘につぶやいた。
「千代子……よくお聞き」
母はそう震えながら布団から手を出し千代子の手を握った。そのほとんど握力がない手を、千代子はそっと握り返した。
「お母さん、どうしたの」
「前にも言ったけれど。私はもう薬は要らないよ」
「何を言うの。飲まないと治らないわ」
励ます千代子の笑顔に母は辛そうに目を細めた。
「千代子。私はお前のことが心配なのよ」
震える手の涙目で母は千代子に訴えた。
「私が死んだ方がお前は楽なのに……本当にごめんよ」
「お母さん。そんな悲しいことを言わないで」
「私がしっかりしてないばかりに、お前にこんなに苦労をかけてしまって」
「そんなことないわ」
涙の母を千代子は笑顔で励ました。
東京神楽坂で芸者をしていた母は、日本橋の質屋を営む豪商、柳原惣兵衛に見初められ、半ば強引な形で愛人となった。当初は惣兵衛も足繁く通い、生活費をくれたが、元来若い娘が好きな惣兵衛は、他にも愛人を作り、母が病になった途端、すっかり来なくなっていた。
生活費も来たり来なかったりの不安定な暮らし。千代子は母と古い長屋にて、近所の店の手伝いをし、少ない収入で病の母との暮らしを支えてきた。
……お母さんは私を育てるのに、こんなに苦労して……
美しかった母の骨と皮になった手に千代子は思わず目をつむった。
母の苦しみに胸を焦がす千代子は、母の手を布団の中にそっと戻した。
「さあ、お話はおしまいにして、少し寝ましょうね?そうだ!明日はお手当がもらえるから。お母さんの好きな鰻を買ってくるわね」
「千代子。母さんはね。お前の笑顔が好きだよ」
「何を言い出すの?」
母は珍しく笑った。
「お前はね。小さい頃からお花が好きでね。よく花に顔を突っ込んで顔に黄色い花粉をつけていたんだ。私がその顔を笑ったら、お前もにっこり笑うんだよ」
「覚えてないわ」
「ふふ……ああ。お前の顔を思い出しても、笑顔ばかりだよ」
病のせいで全身に痛みがあるはずの母のひさしぶりの明るい様子に、千代子も思わず嬉しくなった。
「さあ。もう休もうね」
「ああ。ありがとう。千代子、ありがとう……」
涙が光る母を元気付けた千代子は翌朝、母を起こしに行った。
「お母さん。今朝は良い天気よ。やっと桜が咲いたのよ」
「……」
「見て。隣のおばさんが蕾のついた枝をくれたのよ。風で折れてどこからか飛んできたんですって。でもおばさんの家に落ちていたから、これはおばさんの枝だって……ね!お母さん?え……」
動きのない母は、触ると布団で冷たくなっていた。
◇◇◇
絶望の中。近所の親切な人の手を借り、気丈に母の葬儀の手配をした千代子は、唯一の家族である父親に電報を打った。しかし、返事は無かった。まだ十六歳の千代子は、若く悲しい母の葬式を、父が不在のまま済ませた。
そして葬式後、千代子は父親の家である本家を訪ねた。日本橋にある質屋「柳原」の裏手の母屋を千代子は訪ねた。
……ここがお父様のお屋敷……初めて来たわ……
愛人の娘の千代子は父の家に来た事が無く、道中も気後れしていたが、亡き母を思い勇気を出して声を掛けた。
「ごめんください」
「どなた?」
「私は、あの、神楽坂の伊藤と申します。旦那様にお取次ぎをお願いします」
「……少々お待ちください」
対応した女中はそう言うと引っ込んでしまった。しばらく外で待たされた千代子の前に、立派な着物を来た婦人が顔を出した。
「神楽坂の娘か」
「はい」
……奥様だわ……
名乗らずともわかるほどの風格に千代子は息をのんだ。彼女は一瞬、千代子を見た驚きの色を見せたが、みるみると目が真っ赤になってきた。
「よく顔を出せたこと」
「突然の訪問、申し訳ありません」
「わかっているなら来るんじゃないよ」
家にも上げず玄関で話す奥方に千代子は静かに話した。
「でも、母が亡くなった事を旦那様にお伝えしたくて」
「それで?」
「え」
腕を組み面倒くさそうにしている本妻を千代子は思わず見つめた。本妻は真剣だった。
「だから。それがどうしたのかと聞いているのよ」
「は、はい。旦那様に無事に葬儀が済んだ事をご報告したくて」
「……それを言ってどうする気?もう死んだのでしょう」
本妻は面倒そうに頭をかきながら、ふと千代子を見た。
「ああ、香典が欲しかったのかい」
「いいえ!そんなつもりじゃなくて」
あまりの言葉に千代子は怖くなった。しかし本妻は続けた。
「愛人のくせに、なんて図々しいの!?散々、贅沢させてもらった恩も忘れて。死んでからも迷惑をかけるつもりなの?」
「奥様。それは」
「だいたい!お前だって本当に旦那様の子供かわかったもんじゃないわ!神楽坂の芸者が産んだ娘なんて。おお?見るのも汚らわしい」
……もう、やめよう。
亡くなった母への誹謗中傷を吐く本妻に千代子は心が凍った。憎しみ怒りの言葉の本妻を前に、千代子はもう諦めた。
「だから!お前の辛気臭い顔なんか見たくないよ!」
「奥様。申し訳ありませんでした」
「帰れ!帰れ!」
「……失礼しました」
勝手口の立ち話で追い返された千代子は、桜が散る日本橋を茫然と渡っていた。春の墨田川は朗らかに流れていた。
……お父様が多忙なのはわかっているけれど、私はただお母さんの事を、知ってほしかった……
心失い茫然と歩いていた千代子は、すれ違う人にぶつかった。
「きゃ!」
「どこを見ているんだよ!」
「すみません……あ」
転んだ千代子はその勢いで持っていた風呂敷を橋に落とした。すると風呂敷に包んでいた文が風に飛んだ。
「あ」
川に目掛けて落ちていく白い手紙。それは川に吸い込まれるように落ちていった。あの手紙には、母親の戒名が記されてあった。千代子にはまるで白い着物姿の母が、川に溶けて行くように見えた。
……お母さん。ごめんなさい。私、何もできなくて……
千代子は伝えたかっただけ。若く美しかった母は、最後まで父を慕っていたことを。会いに来てくれるのを心では待っていたこと。その思いのまま死んだこと。ただそれだけだった。
……せめて戒名をお伝えしたかったけれど……
それさえも許されぬ愛人の娘の千代子は、涙の顔で手紙が見えなくなるまで日本橋の上から、流れる川を見ていた。
桜の花びらが流れる墨田川。母と一緒に桜を眺めていた事を思い出すと涙が出てきた。
……でも、泣いてもお母さんはいないわ……
手ぬぐいで涙を拭いた千代子は、頬を叩き自分を奮い立たせた。そして歩き出した。幼き頃より母を支えてきた千代子は、母のために強く生きると誓っていた。
◇◇◇
こうして独りになった千代子は、亡くなった母の死亡届を出し、長屋の家賃の手続きなどをしていたが、役所から通達が来た。千代子は通知を持って役所に来た。
「すみません。このハガキが来たのですけれど」
「掛けてお待ちください」
そして千代子は受け付けに呼ばれた。係の男の事務員は、千代子の記入に間違いがあると言った。
「君、名前が間違っているよ」
「名前ですか?私の名前はこれで合っていますが」
伊藤千代子。漢字にも間違いがなかった千代子に、黒い腕ぬきをしている眼鏡の事務員は首を横に振った。
「いいえ。君は『佐伯』でしょう?佐伯是清さんの籍に入っていますから」
「佐伯是清?」
初めて聞く名前に千代子は首を傾げた。事務員は面倒そうにペンを耳に挟んでいたが、千代子は不思議顔で続けた。
「初めて聞く名前ですが……あの。それはどなたですか」
「だから!君の旦那様でしょう」
「夫?でも私は結婚していません」
「……この台帳をご覧なさい」
事務員はどこか苛ついて千代子に台帳を開き、指で突いた。
「ほらね。ここ!君の戸籍はバツで消されていますよね。君は『伊藤』の戸籍から除籍になっています」
「本当だ」
不思議な話に千代子は事務員を見つめた。
「では、私はどうなっているのですか」
「もう!先ほどから言っているでしょう。君は『佐伯』の戸籍に載っているって」
「そんなことが……」
何が何だかわからない千代子であったが、とにかく事務員は『佐伯千代子』と書けとうるさかった。書かないと終わらない雰囲気に彼女は負けた。
「わかりました。そう書きます。ええと。『佐伯千代子』っと」
「そうそう。全く。自分の名前も忘れるとは」
呆れている事務員に千代子は尋ねた。
「あの。私はいつからその佐伯さんになっているのでしょうか」
「君は結婚した日を忘れたのかね?全く、今時の若い者はいい加減で……」
そうブツブツ言いつつ事務員は教えてくれた。
「そうですか。私は半年前に結婚したのですね?そして、戸籍の住所は牛込ですね」
「おわかりいただけましたか?さあ、済みましたので帰ってください」
こうして千代子は首を傾げつつ役所から帰ってきた。
……どういうことかしら。
この話を千代子は全く聞いていない。今この寸前まで知らなかった出来事である。この日、帰宅した彼女は隣に住む老婆のトメにこの話を相談した。
「知らぬ間に結婚していた?それは私も初耳だよ」
「そうですよね」
「……もしかして。ソヨさんの仕業かもね」
「お母さんの?それはどういう意味ですか」
元芸者の面影もないトメは、歯の無い顔で話だした。
「お前さんが一人ぼっちになるって、心から心配していたからね。だからお金持ちの知り合いに託すつもりで、こんな勝手なことをしたのかもよ」
「確かに。母は私を心配していましたけれど」
芸者として人気があった母なら、そんな事ができたかもしれない。しかし、あの病の床に伏せっていた母にそれが可能であったのか、千代子にはそこが疑問だった。母の病は結核と誤解されていたため、移ることを恐れて見舞客も誰もこない状況で協力者も皆無のはず。答えの見えない千代子に、トメはお茶を出してくれた。
「お前さん。本当にその名前に心当たりはないのかい」
「ないです」
「うーん。佐伯なんて、私も知らないね」
考え込む二人であったが、ここで千代子は御茶を一口飲んだ。
「とにかく。私はこの佐伯さんのご自宅に行って。話を聞いてこようと思います」
「それしかないね。あ?そうだ、いきなり言っても話が大変だから、文にしたらいいよ」
「文ですか、なるほど」
納得した千代子は自宅に戻り、紙と鉛筆を持って来た。
「トメさん!その手紙、なんて書いたらいいのかな」
「ええ?私に聞かないでよ」
「でも……私もわからないもの」
「そうだね……」
老婆と娘はじっと考え、まずは冒頭の一文を考えた。
「まずは『前略』かな?ええと。次は季節の事を書くのでしょう」
「千代子ちゃん。だったらこういうのはどう?『梅干しを漬ける季節になりました』っていうのは」
「梅干し……トメさん。確かに季節の事だけど、ダメだと思うわ」
「私は数字には強いが文才はないのでね……ちょっと待ちな」
二人の知恵ではこの手紙を作るのが困難であった。すると、トメは長屋の他の住人に相談して戻って来た。
「ほい、これだ」
「書いてくれたんですか」
トメはああとうなづいた。
「二軒先の旦那は、売れない小説家なんだよ。そいつに事情を相談したらこれで十分だってさ」
「ええと読みますね『書類上の旦那様へ一筆申し上げます』。か……それで、この次に要件を書けばいいのね」
「そういうこと!あ?そうだ」
トメは千代子に仕事を見つけたと目を輝かせた。
「この近所の料亭の『歳月』さんだよ。そこの下働きさ」
「ありがたいです。トメさん、いつもありがとう」
母のために前を向いて歩こうと決めた千代子は、こうして手紙を仕上げた。そして『歳月』には午後から来いと言われていた。
……あ、もうこんな時間。寝なくちゃ……
母を亡くした千代子は布団にもぐった。
……お母さん、おやすみなさい……
窓の外は星が光っていた。それが涙と思わずに千代子は孤独な部屋で静かに眠りについた。
翌朝の午前中、千代子は思い切って牛込の佐伯家にやってきた。相手に失礼のないように母の着物の小ぎれいな小紋を着て彼女はやってきた。
……ここね。立派なお屋敷だわ……
怯んでいられない千代子は勇気を出して訪問した。玄関から出てきたのは使用人らしい老人の男だった。
「どちらさんで?」
「恐れ入ります。こちらは佐伯是清さんのご自宅でしょうか」
「へえ。坊は仕事でいませんが」
「そうですか」
……でも、この人には詳しくお話しできないわ……
そこで千代子は、抱えていた封筒を使用人に手渡した。
「私は『伊藤千代子』と申します。佐伯様にお尋ねしたいことがあるのですが、内容はこの手紙に書いてございます」
「へえ」
受け取った老人に千代子は続けた。
「このお返事は一週間後の今の時間、私がお返事をいただきに伺いますね」
「……渡せばいいんですね。わかりやした」
「お手数ですが。どうぞよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げた千代子に思わず使用人老人の余市まで深々と頭を下げた。千代子はこうして佐伯の家を後にした。
◇◇◇
夜。佐伯家。
「坊。お帰りなさいませ」
「余市。食事は要らぬ。寝酒を頼む」
「へえ」
多忙な彼は風呂を済ませた。そして寝巻きである着物に着替えた。
使用人の余市は彼の幼少時代からの付き人。若い頃は馬係をしていた余市は妻子がいるが、彼の息子が幼い頃大病をし、その高い治療費を佐伯家が負担し命が助かった過去がある。その息子は大恩を感じ、今では佐伯の会社ではなくてはならない信頼おける社員となっている。そんな息子は所帯を持ち、余市の妻はそこで共に裕福に暮らしていた。
しかし。元々馬係だった余市は、自由が良いと言い、こうして独身の是清と暮らしていた。
「これ。酒です」
「ああ。それにしても疲れた」
「肩でも揉みましょうか。どれ」
まるで祖父と孫の間柄の二人は、気心が知れていた。
「そこ効くな……痛!」
「このツボは胃が悪い証拠ですな。あ?そうだ」
与市は娘が持ってきた封筒を説明した。しかし、是清は疲れていた。
「それは明日、会社で読む。俺の鞄に入れて置いてくれ」
「わかりやした」
この手紙を読まなかった是清は翌日、会社の自分の部屋でこれを広げた。
「『書類上の旦那様へ一筆申し上げます』って何だ、これは?」
「社長。どうされましたか」
「見てくれ」
仕事の相棒であり学校の同級生の専務の小林正は思わず文を読んだ。
「『……突然のお手紙をお許しください。私は伊藤千代子と申します。戸籍ではあなた様の妻になっているようです』って、これは」
「俺はそんな娘は知らないぞ」
「待ってください。社長の奥さんの名前は……そうだ、一代さんだ」
「そうだったかな」
「嘘でしょう?今確認します。ええと」
呆れる是清に、小林は手帳で調べた。
「あった!先月、銀座の寿司屋で、社長は柳原親子と会食しましたよ。その時に奥さんが来たはずです」
「女は確かにいたが」
「まったく。自分の奥さんなのに」
二人だけの事務所で小林は呆れて話を始めた。
「そもそもです!社長が柳原に金を貸すからこんなことになったのですよ」
「仕方ないだろう、あの場合は」
「……借金の担保として柳原の娘と結婚するなんて」
「別に、形だけの話だろう」
是清はすっと小林をみつめた。
「それよりも。お前そのハガキの金額がどうとか言っていなかったか」
「あ、電話するんだった!ええと……」
ぼやく小林に仕事をさせた是清は手紙の続きを読んだ。
……しかし、この『伊藤千代子』とは何者だ?
是清は柳原惣兵衛の窮地に金を貸していた。その借金を返済するまでの担保として彼の娘と結婚していた。惣兵衛が亡くなった際、是清に遺産が入る契約になっている契約結婚は愛のない形式だけものだった。
……『佐伯様にこの件にお心当たりが無い場合は、離縁したく思います。念の為、離縁状を同封致します』って。へえ?もう書いてあるのか……
彼の妻と名乗る娘の文字を是清はため息で閉じた。
……まったくわからぬ。しかもこれは柳原が言い出した事だぞ……
住所は神楽坂。芸者の町の娘に彼は眉間に皺を寄せた。
……勝手に妻になって、勝手に離縁したいだと?俺をバカにしているのか!……
忙しく電話をしている小林を見ながら、是清は封筒を捨てた。そして仕事を始めた。
◇◇◇
そして一週間後。佐伯家に千代子がやってきた。
「恐れ入ります。伊藤です」
「あ。例の娘さんで?」
千代子は笑顔で丁寧に挨拶をした。
「あの。お爺さん。これ良かったら。少ないですけどお赤飯です」
「いや?これはどうも」
歳月で働くようになった千代子は、今朝は早く赤飯の用意を手伝ってきた。その時、料亭から分けてもらったまだ暖かい赤飯を余市に渡した。余市はありがたく頂戴した。
「それで。御手紙の返事ですが、佐伯様は何とおっしゃいましたか?」
「それが、そのですね……」
昨夜、この返事を確認した余市は、疲れていた是清に『放っておけ』と言われてしまった。しかし、目の前の優しげな娘の前にて、困ってしまった。
「すまんです。坊は忙しくて。まだ書類を読んでおらぬようで」
「左様でございますか……」
申し訳なさそうな余市に千代子は笑顔を見せた。
「では。私、また来週伺います」
「しかし」
「良いのです。そうですよね。お仕事がありますもの。私、また伺いますよ」
「あの」
来週も返事ができる自信がない余市の困惑顔へ、千代子は笑顔で許した。
「良いのです。お願いしているのは私ですもの。それよりもお爺さん。そのお赤飯、せっかくですので温かいうちに召し上がってくださいね、では!」
「あ」
午後も仕事もある千代子は笑顔で去った。余市はポカンと千代子の後ろ姿を見ていた。
その夜。夜食を食べている是清に余市はそっと打ち明けた。
「何だと?その娘はまた来ると?」
「へい」
「それに赤飯を持って来たとは。あ?もしかして」
「へい。それです」
是清は自分が食べていた握り飯を見た。
「これか?」
「冷めたので温めて握り飯にしましたが、蒸し立てはもっと美味かったです」
「お前も食ったのか?全く」
飯を見つめる是清は、それでも食べた。
「で。どんな娘なのだ」
「歳は若いですな……色の白い。顔の小さな娘です」
「身なりは?」
「小綺麗にしていますが、着物は掠りで……それにあの娘は水仕事をしておりますな。手が酷く荒れていたので」
「……おかしいな」
余市の話を聞いた是清には、あの柳原の娘の印象と違って聞こえていた。しかし、多忙な是清は返事を出さぬまま、あっという間に一週間後の水曜日になってしまった。
この日の千代子は新しい品種の鶏のゆで卵をお土産に持ってきた。余市から返事がないと聞くが、また来週来ると笑顔を残して去った。こんな一ヶ月があっという間に過ぎてしまった。
「こんにちは!お爺さん。これはね。カステラです。形は悪いけれど、私が卵を解いたんですよ」
「お嬢。すまんです。いつも」
四回目の訪問も娘はニコニコしていた。
「良いのです!私が佐伯様にお願いをしているのですから。それで、返事はどうでしょうか」
優しい千代子が余市には眩しかった。
「すまんです。坊は仕事で帰らなかったもんで。またしても返事を聞けませんでした」
「そうですか……仕事大変ですね、お身体が心配ですね」
「あ。あのお嬢。よければお茶でも」
何とか娘に諦めてもらいたい余市は、今日こそは娘と話をしようとした。しかし、千代子は遠慮した。
「そんな甘えるわけには参りません。それに私、仕事があるので時間がないのです」
「仕事とは。どこで?」
「私は神楽坂の料亭で下働きをしているのです。では、また来週来ます。そうだ!お爺さんにこれを」
「わしにですか」
千代子は軟膏が入った小さな缶を取り出した。
「その手の傷に塗ってください。私も使っているのですが、痛みが引きますよ」
「いや、わしには」
「私はいつでももらえるのでいいんです!ではまた今度!」
優しい笑顔の娘は元気に手を振って帰っていった。彼女の優しさに余市は、呆然としていた。
その夜。是清は機嫌が良かった。余市は酒を飲む是清に夜食を出していた。
「でな。ずっと取引先の男が髪を気にしているんだ。俺も気になっていたらな。なんと窓からの風でカツラが飛んだのだ!」
「そうですか」
「ははは!そのカツラがな?隣で食事をしていた女の皿の上に乗って!?ははは」
「……坊。そのカステラのお味はどうですか」
「ん?これか?実は先程からお前に聞こうと思っていたんだ。これはどこの店で買ったんだ?あんまり美味いので、手土産にしたいと思って」
「娘のです」
「娘?」
「例の水曜日の娘です」
毎週、返事をもらいにくる娘のことをすっかり忘れている是清に、余市は酒を注いだ。是清はその顔に尋ねた。
「もしかして。その娘はまだ来ているのか?」
「ええ。そうです。坊、わしはもう限界ですじゃ。娘に返事をしてくだされ」
「余市?」
「失礼」
余市はここで一升瓶の酒をラッパ飲みした。普段、酒など飲まぬ余市の動きに是清は驚いた。
「はあ、はあ。あの娘は決して諦めませんぜ。返事をもらうまでいつまでも来ます」
「いつまでも?」
「そうです。坊も会えばわかります。あの娘はそういう強い娘です。わしはあんな娘に会ったことがありません」
酔って少し絡んできた余市に是清は焦った。
「わかった。わかった。お前は疲れているのだ、もう、休め」
「約束ですぜ。返事を書いて下され、今すぐですぞ」
「いいから寝ろ。後は自分でやっておくから」
……全く。面倒なことよ。
この夜の必死の余市の思いを知った是清は、翌日の会社で返事を書いた。やれやれ状態の是清は肘を付き面倒そうに万年筆を走らせた。
「小林。どうだこれで」
「例の謎の奥さんですか。読ませていただきますね」
そこには伊藤千代子などは知らぬ、ということ。詳しくは日本橋の柳原惣兵衛に尋ねよ。という二つだけだった。
「それで十分だろう」
「でも、この伊藤千代子さんとは何者でしょうね」
「さあ」
手紙を読んだ小林はふと考えた。
「……もしもですよ。誰かが社長に成りすましてこの娘さんと結婚しているとか」
「もしそうだとしても。俺には関係ないぞ」
「もちろんです。でも偽物のせいで仕事に支障が来るのは困りますね」
「はあ、どうしていつもこうなるのだ」
不動産投資で成功している是清には今までもたくさんの厄介事件があった。中でも一番の事件は、是清に一方的に好意を寄せた老齢女性が勝手に結婚届を出そうとしたことである。
書類に不備があり受理されず是清に連絡が来たために発覚したが、彼はその時の事を思い出した。
……確かに、俺を追っているのだから、この娘にも何か理由があるのかもしれぬ……
「そうだな。調べるか」
「社長、最初にもらった封筒には、離縁状がありましたよね?それから住所を調べれば」
「とっくに捨てた」
「では、本人に聞くしかないですね」
「本当の事を言うとは限らないぞ?ここは、そうだな」
そこで是清は策を立て、余市に託した。そして水曜日が来た。
「お嬢。ようこそ」
「お爺さん。手の傷はいかがですか?ええと今日のお土産は」
「それよりもこれを!」
玄関脇の庭で余市は封筒を彼女に渡した。
「まあ?お返事をいただけるのですか?嬉しいです。ではここで読ませていただきますね」
千代子は手土産のおはぎを余市に渡すと、手紙を早速読んだ。余市はドキドキしながらその様子を見ていた。
「いかがかな?わしは内容が知らんが」
「……いえ、これで、わかりました」
今まで笑顔しか見せなかった娘は、突然、手紙にぼたぼたと大きな涙を落とした。
「え。お嬢?」
「ごめんなさい。私……」
……お母さんが、私を思ってしてくれたんじゃなかった……
母ではなく、これは父の仕業だった。これにて自分が何かに利用されていると千代子は涙の顔を覆った。
……そうか。お父様か、もしかしてそうかと思ったけれど……
できれば母の愛による行為と思いたかったが、そうではなかった。さらに、千代子は父に会わせてもらえない状況である。これにより、この謎の結婚について、自分には何もできないとわかった。
「お嬢?あの、その」
「お爺さん。お手数おかけしました。それに佐伯様もお忙しいのに、私のことで迷惑でしたね。本当にごめんなさい」
涙の千代子は着物の袂から手拭いを出し、涙を拭いた。悲しい娘を前に余市はおろおろしながらも縁側の席を進めた。
「あの。お嬢。今日こそこちらで休んで下され」
「いいえ、このまま帰ります……今までお世話になりました」
あんなに元気だった娘の涙の様子に余市はすっかり慌てていたが、だんだん是清に腹が立ってきた。
「わしはそこに何が書いてあるのか知らねえが。もしかして坊が酷い事を」
「いいえ!違います。私が悪いのです。佐伯様は何も悪くありません」
「ですが」
あんなに朗らかだった娘の傷心姿に心苦しい余市に、千代子は涙を拭いて向かった。
「心配してくださってありがとうございます、私は大丈夫です」
千代子は涙を拭き、笑顔を作った。
「お爺さん。ありがとうございました。どうぞ、お元気で」
「あ、ああ」
最後は笑顔で娘は帰って行った。その足取りは悲しげであった。
◇◇◇
「お帰りなさいやせ」
「どうだった?」
「手土産はそこに置いてあります」
「今度は『おはぎ』。いや?余市。俺が聞いているのは娘の様子だ」
夜。帰宅した是清から鞄を受け取った余市は元気がなかった。
「あの手紙。坊は何を書いたのですか」
「別に。ただの返事だ。あれでわかるはずであるが」
「ただの返事……そうでしたか」
余市は心あらずで振り返った。
「それであんなに泣くものですかね」
「泣いた?あの返事で」
「へえ。あの元気な娘が泣き崩れて……哀れでなりませんよ」
「そんなに?」
「あの娘。まるで『死ね』と言われたような。そんな悲しみでしたぜ」
是清は、信じられない思いで余市に向かった。
「……それで。住まいはわかったのか」
「そこに記しました。わしはもう寝ます」
どこか怒っている余市が書いた紙を是清はネクタイを緩めながら読んだ。
……仕事先は神楽坂の料亭「歳月」……住まいは、一本裏地の路地の長屋で一人暮らし、か……
余市が追跡した情報を読み終えた是清は窓から外の月を見上げた。
……泣いていたとは?どういうことだ。俺が何をしたというのだ……
春の月。雲がかかっていた。朧の月夜。野心家の是清の胸はざわついていた。
一話「悲しみの朝」完
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