ニ 佐伯是清

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ニ 佐伯是清

「いやいや。佐伯(さえき)君。景気が良いみたいだね」 「柳原さんほどではないですよ」 「はっは。そんなことはないさ」 「では乾杯を。さあ、娘さんも」 「はい」 夜の洋食屋。奥の個室。佐伯是清(さえきこれきよ)は葡萄酒で乾杯をした。相手は日本橋の質屋「柳原」の柳原惣兵衛(やなぎはらそうべえ)」。そして娘の三人だった。 是清と惣兵衛は仕事の話。娘はいつも黙々と食事をするだけだった。この食事会はいつもこのような感じであった。 「柳原さん。これはいつも謝礼です」 「助かるよ。で、今回知りたいのはどこかな」 「この資料に書いてある企業です」 「どれどれ」 質屋の惣兵衛は情報通。資金繰りが苦しい経営者の話は一番早く知っている。そんな惣兵衛は三年前投資で失敗し、一時的に多額の負債を抱えたことがある。 その返済資金を是清は貸した。それは惣兵衛の情報が欲しかったのが理由。私情など一切ない仕事の関係だった。 しかし破産の危機だった惣兵衛は、是清の金で救われた経緯がある。是清に恩を感じた彼は娘との結婚を提案した。もし、惣兵衛が亡くなった時、是清に遺産がいくというのが理由であった。 さらにこれは書類上の結婚。娘とはこうして一年に一度会うだけで話もしない五年間限定の契約。是清は惣兵衛が持つ土地を魅力に思っており、さらに今は仕事に夢中で結婚する気がなかったため、この結婚に応じていた。 惣兵衛の借金はもうすぐ終わりになる。今宵の謝礼はそれとは異なり、是清が気になる企業の内部話の情報代であった。 「ここか。この会社は元『あかね商事』だよ」 「え?しかし。代表者名が違いますよね」 「同じ男さ……。奴は金を借りるだけ借りて。そして自分で会社に火をつけてドロンさ」 「保険金詐欺ですか?これはまずいな」 「警察にも手配されているんじゃないか。しかし、捕まえても金は戻って来んぞ」 「そうですね。むしろ警察から守らないと。逮捕されては金が戻りませんから」 この話の間。ふと佐伯が見た時、娘は父親が食べなかった卵焼きを口にいれた。 金持ちの娘とは思えない下品な仕草。気を紛らわそうと是清が葡萄酒を飲むと、彼女は素知らぬ顔で食べ続けていた。 綺麗に化粧した顔。高価なそうな着物。しかし是清は彼女のおかしな行動を忘れようと惣兵衛と仕事の話をしていた。 「で。佐伯君はどうするのかね」 「企業秘密です」 「ははは。君は実に愉快だ、本当に面白い。こんな私に金を貸してくれたのだから」 「たまたまですよ」 「ははは」 惣兵衛は、嬉しそうに酒を飲んだ。 「私にはね。愛人に子供がいるんだが、君のような優秀な子が欲しかった」 「いえいえ自分は」 「謙遜するなよ。いいか?だから、私は君を形だけでも婿にしたかったのだ。まあ、後二年だ。もう少し私の戯言に付き合ってくれたまえ」 「自分で良ければ」 完済していない惣兵衛はこの夜は酔っていた。 「こんな娘がいてもしょうがない。いいか?徳川家康が素晴らしいのは子孫をたくさん残したからだ。私もね。子がたくさんいるが使える者が一人だけだ」 ……娘の前で言うべきことではないと思うが。 しかし。娘は静かに酒を飲んでいた。是清は時計を見た。 「柳原さん、そろそろ時間ですね」 「お父様。帰る時間よ。明後日には台湾に旅行に行くのでしょう」 「あ。ああ?そうだったな。帰るか」 娘は父を介助し帰り支度をした。彼女に興味がない是清は話をすることなく玄関に向かった。こうして三人の食事会は終わった。 ◇◇◇ 翌日。是清は佐伯商事の事務所で小林に相談した。 「『あかね商事』ですか。でもまだこれからですね、さて、どうしたものか」 「小林。俺は考えたんだ。あのな。奴を誘き出すのはどうだ」 「どういうことですか」 「これだ」 是清は作戦を示した。それは借金をしたまま逃げようとしている代表者を呼び出し、隠し金を見つけるという作戦だった。 「だからどうやって」 「『匿名で預けることができる安全な貸金庫があります』って案内を送るんだよ」 「そんな物があるのですか」 「あるわけないだろう」 「それで騙すのですか」 「静かに!?」 驚く小林に是清はニヤと笑った。そして実行した。 「こんばんは。あの、鈴木さんですね」 「はい。貸金庫の人ですね」 「ええ。こちらです」 真夜中の銀行。ここの深夜金庫に黒服の男は案内した。鈴木は照明が当たっている壁を見た。 「ここは、深夜金庫ですか」 「ええ。ご存知かもしれませんが。夜の仕事の人などが現金を持っていると物騒なので、この銀行直結のポストにお金を入れる仕組みです。しかしこれは貸金庫機能付きの『安全金庫』です」 黒づくめの男はそう言って金庫のダイヤルを示した。 「私がやってみますね。まず私はこの封筒に入った通帳とハンコを入れようとしています。ここを開けると入りますね?そして閉じます」 そして。ダイヤルを回し施錠をした。 「これを出す時は?」 「自分で設定した今の番号をダイヤルすると、下から出てきます。やってみますか」 「ええ」 すると。同じものが出てきた。鈴木が驚く中、黒づくめの男は彼の肩を叩いた。 「すみません。他の利用の方が来ましたので一旦、避けましょうか」 利用客は小さく会釈すると慣れた様子で金庫に封筒を入れて立ち去った。 黒づくめと男と鈴木は利用者が去った後ろ姿を見ていた。 「あの人も利用しているのですね。これはすごい便利だ」 「そうです。それにここは帝国銀行。安全に預かってくれます」 「ありがたいです。あの、使用料はどうやって払うのですか」 「月末に利用回数で決まりますが、最初の一ヶ月は無料ですよ」 「便利だな。本当にありがとうございました」 嬉しそうに握手を求めてきた鈴木に黒づくめの男は応じた。 「注意点はですね。この安全金庫は夜の二時から三時の一時間しか利用できません。物騒ですから。それにあまり人に見られないようにするのがいいですよ」 「わかりました。早速入れて帰ります」 納得した鈴木を黒づくめの是清はにこやかに頷きで応じていた。 ◇◇◇ 「ハックション!」 「まだ治らないのか?三日も経ったのに」 「それだけ大変だったんですよ」 例の深夜金庫の件で小林はくたびれていた。 「全く。あんなことをさせるなんて」 「いいじゃないか。成功したのだから」 「はあ。信じられないですよ」 是清の作戦。それは本物の夜間金庫の前に、覆うように設置した偽物の金属金庫だった。闇を利用したこの金庫、中には小林が入っていた。ダイヤルも全部デタラメである。鈴木はこれを信用し、是清の言うがまま、貴重なものをどんどん入れて来た。 「参りましたよ?本物だと思ってお金を入れる人もいたんですから」 「当たり前だ。そのために橋本にも目の前で入れさせたのだから」 鈴木を騙すため佐伯商事の部下、橋本に深夜金庫を利用させた是清はにやりと微笑んだ。 「それに。その本物の利用客の金は深夜金庫に入れたから問題無しだろう」 「まあ、そうですけれど」 「で、この火事か……」 「あ?そうだった、大きな火事でしたね」 新聞には大きな火事の記事が載っていた。鈴木は会社の火事により多額の保険が入る流れと是清は予想した。 「さて。と。やりますか」 「な、何をするのですか」 是清はしっと指を立て、鼻を摘みながら電話の受話器を持った。 『もしもし?あの、昨日の帽子工場の火事のことですが。あの家の人は「あかね商事」の人だと思うんですよ。ええ。昔も同じような火事があったので覚えていました。これで三度目じゃないですか。え?私の名前ですか?桂太郎(かつらたろう)です。どうも……』 電話を終えた是清は、よし!と拳を作っていた。この様子を小林は頭を抱えていた。 「桂太郎って。総理大臣の名前で警察に密告して……」 「やつは犯罪者かもしれないしな」 「社長もスレスレですよ」 「何の罪だ?それに鈴木氏が俺達の深夜金庫に入れた通帳の金は、俺が貸した金よりも全然足りないのだから、これでも大損だ」 今後、おそらく破産する予定の鈴木の隠し財産を押さえた是清はそう言って肩をすくめた。 彼のやり方に呆れた小林は立ちあがった。 「とにかく、それは正式にやります!あの、自分はちょっとお茶を淹れてきます」 「はい、どうぞ」 独りになった事務所で是清は椅子にもたれていた。 やり手の彼は父親の遺産を元にさまざまな仕事を始めていた。 最初の投資は小さな洋服屋の買収だった。是清はこの洋服屋のミシンの腕を見込んでの投資であった。買収後、是清はこの店に婦人用のスーツを作らせた。職業婦人が増える中、店の評判が広がり、やがて大手デパートが買収に乗り出した。 こうして高値で店を売った是清はこれを足掛かりに投資を続けていた。 彼の考えは「これから流行るもの」である。そのために情報収集は欠かせないものであった。 そんな彼は朝の日課である新聞を広げていた。 ……それにしても。泣くとは。俺はそんな事を書いてないぞ?…… 謎の優しい娘の、謎の涙の理由を是清はずっと考えていた。 「ただいま戻りました……社長。今朝の株価を教えてください」 「あ?ああ。待てよ。あれ」 「読めないですよね。逆さですから」 そう言って小林はお茶を出した。観念した是清は昨日の娘の話をした。 「故に。俺は余市に娘の跡をついて行くように指示をしたのだ」 「娘さんの住所は捨ててしまいましたからね。それでわかったのですか」 「ああ」 新聞を直した是清は話をこぼした。 「その娘はな。俺の手紙を読んで泣いたと余市が申すのだ」 「泣いた?そんな文じゃなかったですよね」 「俺もそう思う」 是清は立ち上がり窓の外を眺めた。 「それにな。俺が返事をなかなかしないのは忙しいからと思ったのか。俺の体を心配して、朝鮮人参入りの酒まで置いていったのだ」 「それはずいぶんと優しいことで」 「……小林。どう思う?この娘は金目当てではないのか」 晴天の窓を背にした是清は困惑した顔で小林に向かった。 仕事が全ての彼には言い寄ってくる女がたくさんいた。彼女たちが優しくしてくれるのは何か見返りがある証拠である。しかしこの謎の女の優しさが是清には不思議であった。 彼の心を知る小林は、眉を顰めた。 「自分にはわかりません。それに、もう会わないのですよね」 「あ?ああ……だが、それは」 珍しく迷う是清はどこか恥ずかしそうに咳払いした。 「そこでだな、俺はな。まずは正体を言わず、この娘に会ってみよう思う。料亭に勤めているようだし」 「なるほど!料亭ですから可能ですね。ええと、わかりました、では明後日の会合はここにしましょうか。確か前にも行ったことがあるはずですので」 「頼む!それでやってくれ、ふう」 そういうと是清はほっとして椅子に腰かけた。その顔がにこやかであることを彼は知らずに仕事を始めていた。 ◇◇◇ 三日後。是清は取引相手を伴い夜の神楽坂の料亭『歳月』にやってきた。飯田橋からやってきた是清と小林は神楽坂の長い坂を上っていた。左に朱の社の毘沙門を確認した二人はここから右手の狭い路地に入って行った。 人がすれ違うのがやっとの石畳の細道には明治から続く老舗料亭が並んでいた。石畳を歩く煌めく芸者や、三味線の音の世界。その奥に佇む屋敷に是清達は入って行った。 「(まる)サ様。ようこそ歳月へ。当館の女将でございます」 「ああ、世話になる」 佐伯商事の屋号は『サの字を丸で囲んだもの』であり、是清は仕事仲間には『丸サさん』と呼ばれていた。佐伯よりも丸サの方が名が通っている是清は女将を奥へ進んだ。 「光栄でございます。さあ、どうぞ、椿の間へ」 驚くほど狭い間口から入るとそこには広い部屋が広がっていた。案内された是清はそっと小林に囁いた。 「小林、例の」 「はい……あの?女将。ちょっとお願いがあるのですが」 「何でしょうか」 廊下の端で密かに頼む小林に耳を貸す女将は、最初は断っていたが、理由を聞くと了解してくれた。そして取引相手もそろい食事会は始まった。 是清と小林。そして取引相手の二人が座る部屋に女将がお膳に乗った料理を配膳係に運ばせてきた。四人の娘達は、それぞれ四人の客に前にお膳を置いた。 これを見た女将は指示をし出した。 「チエさん。あちらのお客様が暑いそうなので、窓を少し開けて差し上げて。あとハルさん。こちらのお客様は、食事の前にお薬があるのよ。お水を持ってきてちょうだい」 はい。と二人の娘は応じた。そして女将は続けた。 「そして、トチさん。そちらのお客様は洋酒だそうよ。これとは違うお酒を持ってきてちょうだい。そして、千代子さん」 「はい」 返事をした千代子の澄んだ声に、取引相手と会話をしていた是清は、一瞬彼女を見た。 ……あれが、水曜日の娘? 女将に呼び止められた娘は、余市の言う通りの娘だった。 ……あの娘、俺の知っている柳原の娘ではないな……それにしても。 仕事をしている娘はまだ若く真剣な顔だった。そしてなぜか是清に向かってきた。 ……何だ何だ?俺は名前がわかればそれで良いと申しただけだが…… ドキドキの是清の元に、娘がそっと正座をした。 「あの。旦那様」 「あ?ああ」 内心ドキドキの是清は、それを全く感じさせないように必死に顔を作り千代子を見た。 「私。本日、このお席の係になりました千代子と申します。精一杯務めますので、どうぞ何でも申し付けくださいませ」 そう言い三つ指をつく娘は顔をあげた。その顔は緊張しているのか真剣な顔だった。彼女の真剣な様子を是清は直視できずそっと顔を逸らした。 「あ、ああ。わかった」 「はい!では早速お酒でございますが、食前酒は甘口になります。こちらの一級酒でよろしいですか」 「あ、ああ」 小首を傾げて一升瓶を見せる千代子の白い手を見た是清は、染まった頬を隠すように顔を背けた。 ……まだ若いじゃないか?くそ!余市が申しておった通りだ、この娘はグイグイ来るぞ。 「き、君に任せるよ」 「そうですか?ではこちらにしますね。こちらは新潟のお酒です。今夜のお料理によく合うはずです。さあ。どうぞ」 是清の盃に注いだ千代子の手は細く、不慣れな若い娘の腕だった。是清はハラハラした。 ……おいおい。大丈夫か?こぼしそうだ。 一生懸命に酒を注ぐ千代子は至近距離である。黒髪に映える白い肌の小さな顔。必死の眼差しの瞳に伸びる長いまつげは、あまりに綺麗で是清には眩しかった。そんな少女の慣れない手つきで酒を注ぐ様子を是清は我慢していられなかった。 「それを貸せ」 「え」 「……俺がやる。さ、どうぞ、男の酌ですが」 細腕の千代子に他の男の酌をさせたくない是清は、自分で客に酌をしていった。そして食事会が始まっていった。今夜は本気の商談をしたかった是清は、取引相手と歓談していった。 「そうですね、今は金利が高いですから投資は厳しいですよ」 「ええ。うちは丸サさんのように資金がありませんので」 「いえいえ?そんなことはありませんよ!ははは」 仕事の席の是清であったが、心は千代子を探していた。彼女は忙しそうに部屋を行ったり来たりしていた。 ……なぜ部屋係りにしたのだ?これでは話もできないじゃないか…… 「せっかく会えたのに」 思わず独り言を酒で飲み込んだ是清に、取引先の男は尋ねた。 「丸サさん、それでですな」 「ん?あ、そうですね。大変ですよね」 慌てて話を合わせた是清は、部屋にやってきた千代子が客に熱い汁を配っているのを見つけた。 「どうぞ、お熱いですよ」 「おお、可愛い手だね」 酔っている取引先の社長は、椀を置いた千代子の手を握った。 「お客様。困ります」 「いいではないか」 ……くそ。あの爺。 「あの社長!例の駅裏の件はどうなりましたか?」 是清は千代子に絡む取引相手の隣に入り、彼女と分断させた。突然動いた是清の背に千代子は驚いていた。 「あの、旦那様」 「早く椀を置いて行け。早く」 「は、はい」 是清は彼女を救うため仕事を急かした。そして千代子は最後に是清の御膳に椀を置いた。 「旦那様。これは熱いのでお気をつけください」 「君もな」 ……こっちのセリフだ。全く。 そして彼女は静かに椀を置いた。ほっとした是清が思わず娘を見ると彼女も自分をじっと見ていた。 「あの、旦那様」 「な、なんだ?」 目が合った是清は頬が染まった、しかし千代子は真剣に彼を見ていた。 「あの旦那様。お耳を」 「どうした」 千代子は是清の耳にささやいた。そっと近づく彼女に是清の心臓は最高に高鳴った。 ……芸者さんを呼びますか?…… 「は?」 その囁きの内容に驚いた是清は、千代子を見つめた。 つづく
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