ニ 佐伯是清

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「なぜそんなことを」 「すぐに来てくれますし。私よりもその、楽しいかと」 心の底からそう言っている千代子が是清には悔しかった。 「必要ない!」 「でも」 ……もしかして俺もそんな男だと思われたのか?くそ! 千代子をこんなに心配している是清は、目の前でびっくり顔をしている彼女に腹が立った。 「もうここは良い!君は黙って料理を出せ!それだけをしたら部屋の外に控えていろ」 「はい」 怒り出した是清であるが、千代子は頭を下げて指示通りにした。そして宴は終わった。部屋を出て玄関までの見送りでは女将を始め千代子もそこにいた。 先ほどは言い過ぎたと思った是清は、千代子にすっと目線を送った。 「娘。今宵は世話になったな」 「こちらこそ。ありがとうございました。お食事はお口に合いましたか」 ……ああ。よかった?もう口を聞いてもらえないと思った。 笑顔で上着を着せてくれた千代子に、是清は心から安心した。 「ああ。美味かったよ」 「どれが一番美味しかったですか」 「酢蛸(すだこ)だな」 「私も酢の物が好きです。そうですか」 千代子の優しい言葉に嬉しくなった是清は、彼女から靴べらを受け取り、冷静を装って話した。 「また来るよ」 「え?何とおっしゃいましたか」 ……こいつ。俺に何度も言わせる気か? 騒がしい挨拶で是清の声が聞こえなかった千代子のそばに、小林が立った。 「千代子さんですね。今夜はあなたのおかげで楽しかったです。ありがとう」 「まあ。こちらこそ、不慣れで申し訳ありませんでした」 「不慣れだなんて、そんな事ありませんでしたよ」 有能な秘書の小林に、素直に笑みを見せる千代子に是清はムスとした顔を見せた。 「ほら、社長も」 「旦那様もありがとうございました」 そう言って不貞腐れている是清から靴べらを受け取る千代子に彼は目を向けた。 「旦那様?って、おい、お前、俺を誰だと」 「はいはい社長。今宵はここまでです。さあ。ごちそうさまでした」 神楽坂の夜。提灯が揺れる夜の道。是清は星を見ながら自宅に帰った。この夜は不貞寝をした是清は、翌朝、余市にこの夜の様子を報告した。 「余市。俺はあの娘に会ったぞ。お前のいう通りだった。真っ直ぐでやけに芯の強い娘であるな」 「……元気でしたかね」 「ああ。張り切って仕事をしていた」 「よかった。それなら」 そして会社へと家を出た是清は、歩きながら考えた。 ……しかし。あの元気な娘が泣いたとは?まだ解せぬな…… 夜の料亭で必死に食事を運ぶその姿は可憐だった。そんな娘の優しい心遣いは内面から滲んでくるような温かいものがあった。是清は酒を溢さぬように慎重に注ぐ可愛い彼女を思い出していた。 ……不慣れな様子であったな。これは柳原を調べる必要がある。何か秘密がありそうだ…… いつもよりも早く家を出た筈なのに、彼は思わず駆け足になった。心が急く是清は会社へと向かっていた。 ◇◇◇ この数日後。是清は会社にて小林が調べた情報を読んでいた。 「あの歳月にいた娘は、芸者をしていた母が死んだばかりなのか」 「はい。歳月の女将はその母親と親しかったようで。千代子さんは雇ってもらっているようです」 「そう、か」 朗らかだった娘の悲しい出来事に、是清の胸が痛んだ。そんな是清に小林は話を続けた。 「そしてですね。千代子さんの父親ですが、やはり柳原になります」 「妾の娘なのか……」 椅子にもたれた是清には話が見えてきた。現在、是清は柳原と提携を結んでいる状態である。 日本橋の老舗質屋の柳原は、三年前、貸し倒れのため資金難であった。そんな時、金を貸したのは是清である。是清は代わりに日本橋の経済界の裏の話を欲していた。 質屋を生業としている柳原は、とにかく情報を持っていた。これからの仕事のため是清は柳原に資金を援助していた。 この申し出の時、柳原は返済の本気度を見せたいと言い、娘との婚姻を提案してきた。これは形だけのもので、返済を終える五年後には離婚の条件付きである。是清としては、柳原の持つ土地を魅力に思っていたので、息子になれば何かの際、相続できると言う思惑もあった。この結婚は両者が合致した契約であった。 この取り決め以降、毎年、是清は柳原と娘と三人で食事会をしていた。しかし同席していた娘は、料亭にいた娘とは別人だった。この小林の資料にはこの答えが書いていなかった。 「とにかく。柳原氏は娘を差し出すと言っていたけれど、それは社長が対面していた娘ではなく、戸籍上は千代子さんになっているわけです。どうしてこんなことを」 「決まっておろう。本家の娘の戸籍が汚れるのを嫌ったんだ」 「え?でも。千代子さんだって娘ですよね」 是清は立ち上がった。 「柳原氏は、(したた)かな男だよ。それにこの結婚は俺と五年間だけの話だ。娘なら誰でも良かったのさ」 「……千代子さんは利用されたわけですか」 「そうなるな」 前回の食事会にて、惣兵衛が子沢山のことを自慢していたことを思い出した是清は、おもむろに口を開いた。 「そして。千代子と申す娘はこの事実を知らなかったのだろう」 ……母を亡くし、役所に届け出たか……その時に指摘されたのかもな。 今の話を日本橋の本家に尋ねれば済む話を千代子はそれをせず自分に尋ねてきた。この事実に千代子の孤独な立場を是清は把握した。 「それに、柳原氏は今は台湾に旅行中ですし」 「愛人が死んだのに旅行か?まあ、そういう男だろうな」 ……独りぼっちか、あの娘は…… 答えが少し見えた是清は小林の資料を引き出しに片付けた。 そして仕事を再開したが、引き出しがずっと気になっていた。 ◇◇◇ 「丸サ様。どうぞこちらの部屋で」 「女将。すまない」 千代子が気になる是清は、理由を付けて毎晩のように歳月に通っていた。この夜は月末で客が少ないとこぼす女将は一人でやって来た彼を機嫌よく進めた。 「良いのですよ。今宵はいますよ、千代子さん!お客様よ」 「はーい」 忙しい千代子は、ここのところ是清の席に来てくれずにいたが、彼女は是清に酒をそそいだ。 「どうぞ。丸サ様。これは葡萄酒です」 「ほお」 綺麗なグラスの色を二人は一緒に見つめていた。 「綺麗な色だな」 「ええ、素敵です。さあ、どうぞ」 「ああ。いただこう」 こうして食事の世話をする千代子に、是清はやっと話しかけた。 「最近は忙しかったようだな」 「そうでもありませんよ」 「そうなのか?俺は毎晩ここに来ていたが、お前は忙しいと女将が申しておったぞ」 「おかしいですね。私は暇なので毎日漬物を作っていましたよ」 「漬物……ほう」 ……さては女将め。俺に嘘を申したな。 千代子に会いに来ている是清の心を見抜いた女将のやり方に対し、彼はグッと酒を飲んだ。しかしそれは女将が下心が見えるある男性から千代子を守ろうとしている証拠でもある。そして今宵、会わせてくれたのは自分を真っ当な男と認めてくれた事と彼は受け止めた。思わず是清は酒を飲みながら微笑んだ。 「ふふふ。大した女将だよ」 「そうです。女将さんは立派な方です」 可愛い笑顔の千代子を前にここで是清は尋ねた。 「ところで。お前は母上を亡くしたばかりと聞いたが、大変であったろう」 「はい。でも、ようやく落ち着きました」 「そうか」 ……行け!聞くんだ是清。ああ。しかし、勇気がない…… 天下無敵で怖いもの知らず。喧嘩も警察も怖くない是清は、側でささやく少女の前で緊張していた。心では叫んでいる是清だが、千代子を前に何も言えなかった。そんな是清に彼女が尋ねてきた。 「今日は夕立が降りましたね」 「そうだったな」 「あの後、虹が出たようですが、私は気がつくのが遅くて見る事ができませんでした」 「俺も知らなかったな。虹なんてしばらく見てないな」 「旦那様。こちらをご覧ください!」 突然の嬉しそうな千代子の言葉に、是清は隣にいる彼女を見た。 「何だって?」 「この小鉢の蓋を取ってください」 「どれどれ……おお、虹か?」 千代子は小鉢の酢の物を紹介した。それは板前が作った酢の物であるが、それは麩で鮮やかに虹を表現していた。 「ふふふ。綺麗でしょう?」 「これはお前が頼んだのか」 「板前さんが悩んでいたので、ちょっとお願いしただけですよ。さあ。どうぞ」 そう言うと、千代子は火鉢で焼いていた魚を確認した。 「焼けましたけど、すごく熱いです。旦那様には無理です、少し冷ましておきましょう」 「そうしてくれ」 猫舌と言う事を覚えてくれた千代子に是清は、嬉しさを隠し酢の物を食べた。 「ところで。お前、父親はいないのか」 「父親?どうしてそんなことをお聞きになるのですか」 「あ」 不思議そうな千代子に是清はしまったと思った。 「ただ……その?すまない!俺はただお前が一人で大変だと思って」 「そうですか。父はいますが、縁が切れているので。会うことはありません」 ……ああ、顔が暗くなってしまった。 虹の話の時はあんなに嬉しそうだったのに。今は顔が暗くなった千代子に是清、冷や汗が出てきた。元気な娘が落ち込む様子にどうしていいか是清は困ってしまった。 「悪かった。悲しいことを聞いて。許してくれ」 「いいえ。心配してくださったんですもの。嬉しいです。あ。魚がもうよろしいかと思いますよ」 「おう。食べる。寄越せ」 「骨を取りますね、さあ、どうぞ。旦那様」 優しい千代子の態度が心地よい是清は、心が惑った。千代子にとってこれは仕事。誰にも優しいのは仕事であり彼女の性格だと是清は思っていた。 毎晩、会える彼女は、毎晩、別れる娘。彼女との刹那は彼の強心臓に針を刺していた。 彼女は仕事として他の男性の給仕もするのである。あのたおやかな千代子の仕草を思い出しながら夜道を歩く是清はだんだん辛くなってきた。 ……どうしてしまったんだ、俺は。これはただの契約結婚だったはずなのに。 ガス燈が鈍い色の夜。星は見えない夏の前の東京の下町。独り歩く彼に、静かな風が吹いていた。 二話「佐伯是清」完
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