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三 歳月
夜の歳月、千代子は宴会の席で食事を配っていた。
「ははは、では。この皿を回してみようか」
「お客様。そ、それは」
「いいからいいから。それ!あ」
酔った客のおふざけで皿は割れてしまった。さらにこの時、客がよろけたので酒をのんでいた客の背広に掛かってしまった。
「うわ?何てことだ」
「大丈夫ですか?おしぼりで拭きますね」
……大変だわ、シミにならないようにしないと。
客の上着を預かり拭きとっていた千代子は、この客に背広を返そうとしたが、なぜか彼はもう背広を着ていた。
……どうしてかしら。おかしいわ
「れ?俺の背広が無い。どこだ?誰かが盗ったぞ」
「お、お待ちください」
酔った客の宴席にすっかりくたびれながらも千代子は、この日の仕事を終えた。
そして翌日。歳月では仕事前の打ち合わせが始まった。
「それでは。今日のお知らせをします。宴会が入っているのは梅の間。それと竹の間で……」
料亭歳月の使用人部屋では、この日も朝の打ち合わせがあった。千代子と同じ仕事の配膳係りの仲居が集まる中、仲居頭のナツは一通り話を終えた。
「最後に。千代子さん、ちょっと」
「はい」
ナツに呼ばれた千代子は仲間の視線を集め緊張する中、彼女は冷たく言い放った。
「夕べの席で、あなたはお皿を割ったそうね」
「……はい」
「歳月のお皿は高級品よ。あなた、それをわかっているの」
「すみません」
「他にもあるわ……お客様にお酒をこぼす……上着を取り違える……いい加減にしてもらえないかしら」
……お客様がしたことだけれど。私がいた席だから……
言い訳せずに千代子は謝った。しかしナツの叱咤は続いた。
「すみません」
「あなた一人の失敗のせいで歳月の評判が落ちるのよ!どうしてくれるのよ」
「……すみません」
「あのね」
ナツは千代子の髪をぐっとつかんだ。
「痛い……」
「へえ。痛いって言えるんだ?すみませんしか言えないと思ったわ」
苦痛でゆがむ千代子の顔を見て仲間の仲居達はげらげらと笑った。そしてナツは千代子を突き飛ばし畳に転ばせた。
「さて!ではみんなお茶の時間にしましょう。板前の兄さんが新作のお菓子を作ったそうで、私達で試食するわよ。あ?千代子は、廊下を雑巾がけね」
「はい……」
そう言って彼女達は笑いながら部屋を出て行った。静かになった和室で立ち上がった千代子は水場に行き、水を汲み掃除を始めた。
料亭歳月は高級店。料理は板前が行い、配膳は仲居が行っている。千代子は仲居の見習いでありこうして下仕事ばかりをしていた。
夕べの客の悪ふざけは他の仲居も目撃しているはずだったが、すべて千代子のせいにされていたことに彼女は目をつむった。
……きっと、そうしないと自分がいじめられるから。
新人のせいになる、と千代子は感じていた。さらに最近は、どこか品の悪い酒席を担当させられていた。其れも自分の勤めだと千代子は思っていた。
窓の外は雨。雨音を慰めに千代子は薄暗い廊下を清めていた。とんとんと快活な足取りで働く千代子には、仲間たちの談笑が聞こえ来た。
「へえ?そうなんだ。可愛い顔をしているくせに」
「金持ちに気に入られようと必死みたいよ」
「新参者のくせに、生意気ね」
……ああ、私の事だわ……
名前は出ていないが、新人は千代子だけである。彼女たちの噂は自分以外いるはずもなく千代子は自分の悪口をじっと耐えながら掃除をしていた。
「なんでも母親がそういう女だったらしいわよ」
「どうせ妾でしょう。お金のためなら何でもいいんじゃないの」
……私の事はどうでもいい。でもお母さんを悪く言うなんて……
怒りを鎮めようと必死に雑巾を絞る千代子であったが、彼女達の声はどんどん大きくなった。
「おお。怖い!血は争えないわ」
「飲んだくれで酷い女だったらしいわ。男狂いは母親譲りね」
……もう、許せない!
「ねえ、ちょっと!」
「千代子、いいからこっち!」
「女将さん」
歳月の女将は千代子の腕を引き、そっと別室に連れてきた。
「あんまりです女将さん!あんなことまで言われて、私、許せません」
「千代子、静かに」
涙で訴える千代子は首を振る女将に悲しみをぶつけた。
「お母さんはそんな人じゃないのに……」
「千代子。堪えるのよ」
「でも」
「落ち着きなさい!向こうはね。お前を怒らせようとして言っているのよ」
興奮する千代子を女将は無理やり座らせた。障子の向こうからは大雨の音がしていた。
「いいこと?ここは花街よ。お前は仲居だけど、ここで働く女はみんな必死なの。這い上がろうともがいているのよ」
「必死……」
「ええそうよ。金持ちの旦那さんに気に入ってもらえるよう、努力しているの。ここはそういうところなの」
「お金。お金があるっていうのはそんなに偉い事なのですか?」
「千代子、聞いて頂戴」
女将は静かに正座をした。
「お金はね、その人の努力や力を表すことがあるわ……富をたくさん蓄えている人が偉いとは思わないけれど、『お金を持っている』っていうのはその人の魅力の一つだと私は思っている」
「魅力」
「そうよ。『顔が素敵』だとか、『性格が優しい』とかと同じよ」
女将の話に千代子は涙が止まって来た。そんな千代子に女将は続けた。
「それはね、女も同じなの。『若さ』も『美しさ』もその人の魅力の一つよ」
女将はそっと乱れ髪を直した。
「美しさに自信が無いなら、そろばんを習って商売人にお嫁に行くとか、手先が不器用で仕事ができないなら、必死にお化粧をして美しくするとか。みんな頑張っているのよ」
「みんな、努力をしているってことですか」
「そう。自分のためにね」
……自分のため……
冷静になってきた千代子はため息の女将に向かった。
「では、どうして皆さん、私の事がそんなに気に入らないのですか」
「お前は仕事が丁寧だから、お客さんの評判がいいのよ。それが他の仲居からみたら恵まれているように見えるのよ」
「そんなことありません、私は母もいないし」
「わかっている。わかっているわ……だから、相手にしないことよ」
ね?と優しい女将の労いに千代子はうんと小さく頷いた。ここで女将が呼ばれため、この部屋には千代子だけになった。大雨の音に思わず千代子は窓の外を見た。
……お金持ちか……確かにお金は有った方がいいけれど……
窓辺には八つ手の葉が雨に打たれ、揺れていた。雨音は千代子の心を冷静な色に変えていた。
……お父さまのように。お金が合っても、心が無い人もいるわ……
無情の雨をじっと見ていた千代子は、涙を拭った。そして掃除を再開した。千代子は、まっすぐ前だけを見ていた。
この数日後、夜の歳月に客が訪れていた。芸者は要らないという酒席で仲居達は食事を配っていた。
「ほら。金ならあるぞ。それ」
ふざけた客が部屋に紙幣をばらまいた。仲居たちは黄色い悲鳴を上げこぞって拾ったが、千代子は拾わなかった。
これに気が付いた客はそっと千代子に尋ねた。
「君は要らないのかい」
「はい。私はちゃんと御手当をもらっていますので」
「へえ」
感心した男に背を向けた千代子は、部屋を出て食事をただ運んでいた。その背には仲居達のはしゃぎ声がしていたが、千代子は配膳の仕事に勤め、この夜を終えた。
そして翌日。歳月では朝の打ち合わせが始まった。
「それでは。今日のお知らせをします。いよいよ鰻の季節になり……」
いつものように仲居
頭のナツが話をしていたが、どこか顔色が悪かった。
「というわけです。では持ち場についてください」
……どうしたのかしら。みんな顔色が悪いわ。
気が付けば休みの仲居もいる状態。さすがの少人数に女将が顔を出した。
「みんな、聞いて!今、連絡が入ったのだけれど、夕べここでお金を拾った人は急いで病院に行ってちょうだい」
「女将さん、それはどういうことですか」
「ナツ。あのお金には毒が塗ってあったようなのよ」
「ええ?!」
この話に一同は驚きの声を上げたが、ナツも真っ青になった。女将は慌てて話した。
「セイがね、具合が悪くて病院で診てもらったら、中毒って言われたのよ。詳しいのはこれからだけど、たぶん、あのお金だって」
「わ、私も拾いました」
「だめよ、ナツ。早く病院に行って!他にはいないの?!早く行って」
大騒ぎの歳月には警察がやってきて調べたが、犯人はすでに捕まっていると警察は話した。
「事業に失敗し、他の人も巻き込んで自殺しようとしたようですが。死にきれなかったようで、今は自分も中毒になって入院しています」
「許せないわ。うちの従業員を巻き沿いにしようとしたなんて」
警察と女将が話し合っている中、千代子はそっと女将に話し掛けた。
「……あの、すみません」
「ん、どうしたの?お千代」
話を割ってしまった千代子は女将に向かった。
「この部屋をお掃除してよいですか?夜の予約が入っていますよね」
「刑事さん。どうかしら」
「……いいでしょう。本人の自宅から毒を押収したし、それにこの部屋の畳からは何も検出されませんでしたから」
「では、失礼します」
千代子は窓を全開にし、掃除を始めた。
……何もないと思うけれど、まだ毒があったら大変だもの。
千代子は警察関係者の指示を仰ぎ、何度もふき取り掃除をした。毒が使用された部屋を独りで行う千代子を、仲間の仲居達は黙ってみていた。
その夜。歳月は何もなかったように営業をしていた。体調不良が多いため仲居の人数が少ないこの夜、みな必死に配膳を行っていた。
「おい!これ、梅の間に!」
板前が叫ぶ完成した料理が並ぶ机の前、大きなお盆を受け取った千代子は他の仲居に向かった。
「梅の間、行きます。一人で大丈夫です」
「え。それ全部を?」
「平気です」
よいしょと持つ千代子に、さすがに他の中仲居は心配顔を見せた。
「でも、あの席は酔っ払いがいるわよ」
「時間がありません。姉さんは、竹の間をお願いします。私はこれが済んだら松の間に行きます」
そう言って千代子は茶わん蒸しを運んだ。人数分が乗ったお盆は重かったが、それでも梅の間にやってきた。あまりの人手不足を見かねた板前の一番若い衆が、千代子の後に追加分をこの席に運んできた。
大広間で食事をする客達は話に夢中であった。千代子と板前は手際よくお膳に置き、空の食器を下げて回収していた。
「お千代。これは俺が下げる。お前は他の部屋に行け」
「はい、兄さん。それと今の席にお酒を追加です」
「わかった。やっておく」
そして松の間に行った千代子は、追加の酒の数を確認し、これを運んだ。こうしてこの夜、ナツが不在であったが、何とか切り盛りができ終わった。
「さ、最後のお客様のお見送りよ」
「はい」
疲労困憊であったが仲居達は女将の号令で玄関に並んだ。梅雨時期の夜の神楽坂の小道は雨が上がり、帰る客でにぎわっていた。
「お前、この前は悪かったな」
「あ、あの時の」
あの時、皿を割ってしまった男がいた。今夜の彼がいたことを千代子は気が付かなかったが、彼は恥ずかしそうに千代子に謝った。
「すまなかったな。皿代はちゃんと弁償したからな」
「そうだ。俺もあの時、背広で世話になったな」
酒をこぼし、他の客の背広を着てしまった客もどこか笑顔で謝った。千代子はいいえと首を横に振った。
「こちらこそ。それよりも今宵はいかがでしたか」
「ああ。あれがうまかったぞ。鯛の刺身が」
「俺は卵豆腐がうまかったな。まあ、また来るよ」
「はい」
こうして客は帰って行った。梅雨の夜風の中、女将は少数精鋭でこの場を回した娘達に感謝し、自宅へと帰した。
翌日。まだナツ達は来なかった。新入りの千代子はいつものように掃除をしていた。そこに彼が顔を出した。
「おい。お前。夕べは大変だったな」
「兄さん。お疲れ様です」
梅の間を一緒に切り盛りした板前の若い男性は、試作品のお菓子があると千代子に言いに来た。
「みんな向こうで食べているぞ」
「私はいいです」
「甘いのは嫌いか」
……ナツさんがいないのに、勝手に食べたら何を言われるかわからないもの。
「今はお腹が減っていないので、本当にいいです」
「そう、か」
そう言って千代子は広い廊下を一人で磨いていた。そんな中、他の仲居達が談笑しながら菓子を食べる様子を、板前の若い衆達は苦々しい顔で見つめていた。
◇◇◇
五日後。歳月では仕事前の打ち合わせが始まった。
「それでは。今日のお知らせをします。雨が続き濡れてお越しのお客様が増える時期です……」
復帰したナツはみんなの前で話をしたが、どこか化粧がいつもと違っていた。これに気が付いた被害に遭わなかった仲居が小さく仲間に話をした。
「ねえ。ナツさんのあの顔って、どうしたの」
「毒が顔に付いたって話よ」
「え?それであんなに厚化粧をしているね」
この話が聞こえた千代子は他の復帰した仲居を見た。彼女達もやはり手が赤くただれていたり、化粧も濃く体調はまだ悪そうだった。
「……というわけです。では、これで話は終わりますが、新作のお菓子があります。みんなでお茶にしましょう」
……さて、私はお掃除に行こう。
どうせ自分の分はない千代子は、むしろ張り切って部屋を出た。
「あ。すみません」
「慌てるな。前をちゃんと見ろ」
「はい。兄さん」
部屋を出てきた千代子にぶつかった板前は、賑やかにお菓子を食べだした仲居達の部屋に入った。
「失礼する。ちょっといいか」
「まあ。浜さん」
ナツが頬を染める中、若い板前の代表をしている浜吉は、仲居達をぐると見た。
「今の打ち合わせを聞かせてもらったが、それだけか」
「え」
「ナツ。他に言うことがないかと、聞いているんだ」
「他って……別に他に連絡はないし」
「……そうか」
浜吉は菓子を食べていた仲居達を睨んだ。
「今回の事件、気の毒だと思っている。しかしだな、お前達が休んでいる間、必死に仕事をした仲間に礼の一つもないのか」
「板前さんには、朝一番で挨拶をしたじゃないですか。女将さんにしましたよ」
どうしたの?と言う顔のナツの意見に、うんうんとうなずく復帰組の仲居達に浜吉は目を細めた。
「後輩の仲居には?何も無しか」
「そ、それはこれから」
「そうですよ。もちろん言います」
「私だって」
「……大した仲居達だよ」
浜吉の静かな怒りに復帰した彼女達は、思わず食べていたお菓子を皿に置いた。
「毒の金を拾って、そのせいで仕事に穴をあけて迷惑を掛けた挙句。こうして平気な顔ができるのだからな………いやいい?遠慮せず食べてくれ。お前達はさすがだよ」
そう言って彼は部屋から出て行った。ナツは立ちあがった。
「浜さん、待って、待ってちょうだい」
部屋を出た浜をナツは追いかけた。そして廊下で腕を取った。
「ねえ。心配かけてごめんなさい」
「……」
「あの、浜さんの家に挨拶に行く話だったけど。この顔が治ってからでいい?」
「必要ない」
「え」
浜吉は冷たく見下ろした。
「触るな!お前のような傲慢な女とはこれきりだ。仕事以外は話し掛けるな」
「そ、そんな」
浜吉は冷たく彼女を背にした。そして掃除をしている娘を探した。
「おい」
「兄さん。そこは滑りますよ」
「おっと?おい。こっちに来い」
「何ですか」
首を傾げる千代子に彼は掌に包み紙をくれた。受け取った千代子はしみじみとみつめた。
「これは……お届け物ですか」
「お前にやる。食べてみろ」
「でも」
「客に出すのに、お前が食べた事が無いのは困るからな」
「……」
躊躇している千代子に彼は背を屈め囁いた。
「ナツには言わない。いいから今のうちに食え」
「はい」
千代子は一口、アジサイの形の小さな落雁を食べた。
「ん……美味しい」
「そうか」
「口の中で融けます……和三盆も入っていますか」
「へえ。わかるのか」
「……上品な味がしますので、香りもします」
しみじみと食べる千代子を浜吉は確認していた。千代子はごくんと飲んだ。
「兄さん。ご馳走様でした。あの、これはどうやってお客様にお出しするのですか」
「ん。どうしてだい」
千代子は思案しながら答えた。
「あの。今のようにアジサイをかたどるのも素敵ですけれど、葉っぱのお皿に、この落雁を花びらの形にして並べたら」
「……アジサイ色の落雁を花びらに見立てるのか。なるほど、丸く並べて載せれば花に見えるな……」
「兄さん。それなら落雁じゃなくて色の綺麗な寒天がいいかもしれないですね。ガラスの器にアジサイの葉を敷いて、その上の寒天を乗せると綺麗です」
生き生きしている千代子に彼はわかったとうなずいた。
「アジサイの葉は使えないが、葉の形の器があるから早速やってみるか。お千代、これからも、いや……」
……虐められているはずなのに。強い娘だ……
女将から母を亡くしたという千代子の事情を聞いていた浜吉は、小柄な彼女を見つめた。しかし、彼は千代子に優しくすればするほど、仲居達に虐められることも知っていた。
「お前は頑張っている。これからも励め」
「はい!さて、掃除……」
「あ。ちょっと待て」
浜吉は千代子を見下ろした。
「お前は丁寧で評判がいい。だから他の仲居に妬まれるんだ」
「私。妬まれているのですか」
自覚なしの千代子に浜吉は呆れて手を腰に置いた。
「ああ。だからな、客と話をする時は、天気の話だけにしておけ」
「天気って。『今日は暑かったですね』とかですか」
「そうだ。それだけにしておけ」
「はい。なるほど。それでやってみます」
「……ああ、では行け」
「はい」
梅雨の神楽坂、料亭歳月。曇天の空の下、細い路地は板前が忙しく行き交っていた。掃除をしていた千代子は窓を開けた。ヤツデの葉は水滴をこぼし生き生きと揺れていた。
完
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