四 梅雨のアジサイ

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四 梅雨のアジサイ

明け方の神楽坂。まだどこか夜の匂いが残る町を千代子は足早に歩いていた。 手に柄杓と桶を持った千代子は、坂道を彩る植木鉢のアジサイの花に水を上げていた。 梅雨入りの季節、客が遠のく事を危惧した神楽坂商店町の試みで、歩道にアジサイの花を配置していた。この雨が多い季節であるが水やりは各料亭の当番制であったが、歳月の千代子は他の店にも頼まれたため手当てをもらい水やり係りになっていた。 「おはよう、綺麗だね」 「はい、おはようございます」 懐石料理屋の引退した老板前は千代子の仕事ぶりに感心していた。 「毎日よくやっとるな」 「そうでもありませんよ。雨の日もあるし」 「ははは。そうだな」 二人はカタツムリが付いたアジサイを見つめた。 「今はジメジメしておるのでな、食あたりが心配だよ」 「板前さんは大変ですね」 「ああ。生ものなんか出せないのに、お客さんは食べたがるので大変だよ」 「美味しいからですよ、あ。着ましたよ」 「おっと」 「毎度!山本水産です」 「おお。これは生きが良いな」 届いた食材を笑顔で一緒に見た千代子は、水やりを思い出し坂の道に水を掛けて歩いていった。 「あ、ただいまです」 「おはよう、ご苦労さん」 水やりを終えた千代子が帰宅すると、隣の家のトメが待っていた。そしてこの朝はトメの家で一緒に朝食を食べた。 「歳月さんも喜んでいるよ。お前さんが働くから」 「まだそんなに役に立っていないと思うけれど」 「まあ、その調子でやればいいさ、ところで」 食事を終えたトメは、千代子に尋ねた。 「働くと言えば、千代子ちゃん。お前さん、例の借金はまだそんなに残っているのかい」 「あ、そうですね」 千代子はうなずいた。 「毎月返していますけど、まだ終わらないみたいです」 「それさ。一度ちゃんと残金を聞いておいた方がいいよ。お袋さんが自分で借りた古い分もあるのは知っているが、こういう事ははっきりさせた方がいいよ」 「そうですよね……今日返しに行くので聞いてみます」 母を亡くして時間が経ってきた千代子は、少し心の余裕が出てきていた。 そして食事を終えた千代子は洗濯を終え、その足で漢方薬局に向かった。 「おはようございます。伊藤です」 「おお。今月の分ですね」 「はい。金額を確認してください」 養命薬舗の主人は、痩せた青白い顔の男性だった。医者に行く金がない人にとっての救いの男である。神経質な雰囲気であるが調剤する薬は特に痛みがある患者に好評だった。そんな主人は帳簿を出した。そして白衣姿で千代子の渡した現金を静かに数えていた。 「……はい。確かに受け取りました。ご苦労様です」 「あの、ご主人。私の残金はいくらになりますか?」 「残りの額ですか」 「ええ。結構お返したと思うのですが。あとどれくらいかなと」 真っ直ぐな千代子に対し、彼は冷たい目で見つめた。 「ちょっとお待ちください。あ?いらっしゃいませ」 戸が開き、他の客がやってきた。千代子は遠慮して店の脇に寄った。客は主人に必死に訴えていた。 「助けてください!父の痛みがひどいんです。前にいただいた薬では夜も眠れません。どうかもっと強い痛み止めをください」 「そうなると。お値段が高くなりますが」 「構いません!お願いします」 ……ああ。私と同じだ……。 千代子の時もそうだった。病の母のために千代子もこの店で高い薬を買っていた。今はその借金を必死に返済していた。患者の家族の必死な思いが千代子には痛いほどわかっていた。切ない思いでその客の背中を見ていた千代子は、ふと主人の目線を感じた。 「すまないね。これから薬を調剤しないといけないので。後にしてくれないかな」 「はい?ああ。すみません。私、また来ます」 千代子は頭を下げて薬局を出た。なぜかいつも残金を聞けない千代子は、この足で料亭の仕事へと向かっていた。 ◇◇◇ 「お婆さん。今日こそは話を。うわ」 「帰りな!話なんか聞かないよ!」 「社長……ああ、ずぶぬれで」 「なんてことをするんだ?全く……」 東京下町。交渉相手の老婆に全身水を掛けられた是清は背を向けてこの場を去った。道中、小林がくれたハンカチで顔だけを拭いた是清は歩きながら語りだした。 「くそ。わからず屋の婆め!俺があの土地を高く買うと言っているのに」 「どうします?あの土地が手に入らないとビルの建設が遅れますが」 「……少し考える」 梅雨の晴れ間のこの日。是清は白いシャツを腕まくりし小林と歩いていた。モダンガールたちが日傘をさして歩く繁華街の交差点。一緒に信号待ちをしていた小林は扇子を取り出し、扇ぎ始めた。 「それにしても頑固ですね」 「ああ。しかし、弱ったな」 新聞社が駅での販売に力を入れるために都内の駅に近い広い土地を欲しがっていると情報を得ていた是清は、的確な土地を買い上げていた。細かい土地を密かにコツコツ購入し面積を広げていた彼にとって最後の土地は、今日会った高齢者の土地だけだった。 高値で買う以外、交渉方法が無い彼は途方に暮れていた。そんな是清は、この夜、気分を変えて小林と神楽坂にやってきた。 佐伯商事は御茶ノ水にある。そこから二人は神田川の流れを逆らうようにまっすぐ進んだ。やがて道は飯田橋で外堀にぶつかる。彼らは慣れた足取りでそこを左手に曲がり進むとすぐ右手に牛込橋が見えてきた。この橋を渡ると道は神楽坂の長い登り坂になっていた。 そして登りきった道沿いの左には毘沙門天の社がある。是清達はこの道沿いの右の恐ろしく狭い路地を入っていった。 雨上がり。アジサイの石畳は濡れてつややかで店の灯りをほんのりと映えさせていた。そして奥に静かにたたずむ歳月にて食事をしていた。 「はあ、どうしたらあの婆さんは出て行くんだよ」 「社長。もっと金を出すしかないのではないですか」 「それでも無理だと思うぞ……あ、そうだ」 和室の脇息に肘を付いていた是磨は今宵の部屋係りの千代子に事情を話した。 「お前ならどうする?婆さんをどうやって説得する?」 「……よくわかりませんけれど、そのお婆さんが困っていることは何ですか?」 「え」 「千代子さん、それはどういうことですか」 千代子は二人に話をした。 「いくらその家が気に入っていても、例えば雨漏りがするとか、足が痛いので不便だとか。高齢なら何かがあるはずです」 「なるほど、それを元に話をすればいいんだな」 「でも、社長。我々の事は警戒していますよ」 「そうだな……おい、娘」 水を掛けた老婆の顔を思い出した是清は、千代子を見た。 「はい?」 是清は汁を冷ましてくれている千代子に向かった。 「お前、行ってくれないか」 「私がですか?」 「ああ。成功の暁には報酬を出す、どうだ」 千代子に臨時収入を渡したい是清に対し、彼女は難しい顔をした。 「私……人を騙すのはちょっと」 「ぶ!」 酒を噴き出した是清を小林は庇った。 「違うんですよ!千代子さん、これは騙すのではありませんよ」 必死の小林の話により、千代子はひとまずその老婆の家に行くと返事をした。 「お話を聞いてくるだけですよ」 「それでよい」 「あ、そうだ!私は女将さんに来週の会合の打ち合わせをしてきますね」 ここで小林が席を立った。部屋には二人だけになった。 「おい」 「はい」 「何か話せ」 ……どうしよう、そうだ!兄さんが言っていたっけ…… 「あの、旦那様」 「なんだ」 「今日は暑かったですね」 「お前って。いつも天気の話ばかりだな」 「……あの、だったらいいです」 なぜか話すのを止めてしまった千代子の顔を是清は何度も見ようとしたが、千代子はそのたびに背けてしまった。やがて戻った小林は、千代子に物件の事が書かれた書類を渡し、この夜を終えた。 ◇◇◇ 「あの。こんにちは。お花が綺麗ですね」 「そうでしょう。これなんか綺麗でしょう」 千代子は是清達がお手上げだった家に来ていた。家の前の花を褒めた千代子を老婆は嬉しそうに家に招き入れた。 孤独だという老婆の長話に千代子が生い立ちを話すと、老婆は涙を流してくれた。 「そうかい、そうかい」 「お婆さんもご苦労されたのですね。だからここにお住まいになりたいのね」 昼間から涙を流した二人はすっかり打ち解けていた。そんな老婆に千代子は正直に話した。 「お婆さん。ここに何度か尋ねてきた男の人がいたでしょう」 「ああ。上から目線のかっこつけた男だろう」 「そうです!実は私その人に頼まれて来たんです。断れなくて」 「え?脅されたのかい」 「違います。でもお婆さんの事情がわかりました」 最後はまた来るねと約束をした千代子は、さっそく夜、歳月に来た是清に報告をした。 「では、あの婆さんは行方知れずの息子の帰りをあの家で待っているのか」 「はい。だから家が無くなったら息子さんが困ると思っているんですよ」 「……小林。息子の消息を辿れるか」 「そうですね。調べてみますか」 この二人に千代子は話を続けた。 「旦那様。他にもですね。お婆さんは亡くなったご主人のお墓参りに行くのに不便だと言っていました。できれば近くが良いと思います。それに、住みたい町があるようです。お花が綺麗な公園があって、そこにはお友達がいるみたいで……あの、旦那様?」 「いや。お前ってすごいなって」 「そうですね。うちの社員でもなかなかできませんよ」 せっかく褒めたのだが、千代子はここで退席をした。代わりに女将が食事の世話をしてこの夜は終わった。 翌朝。是清は寝ぐせの頭で余市に千代子の話をした。 「余市、なんか最近、あいつ。不愛想なんだよ」 「……余市は社交の世界には疎いのですが」 余市は思案しながら是清にお茶をだした。 「そういう席では、お嬢はおしゃべりをしてはいけないのはないですか」 「え」 「芸妓でも芸者でもありませんしね。ただの配膳係りならばなおの事。そういうおしゃべりは禁物かもしれませんぞ」 「しかし。他の仲居は気さくに話し掛けて来るぞ」 「お嬢は新人じゃ……それにあの器量良しでは、他の仲居に眼を付けられるのでしょう。それに坊が毎晩会いに行く事も、嫁に行き遅れている仲居に妬まれているのかもしれませんぜ」 「俺のせい?……それで天気の話ばかり、か……」 ……しまった。迷惑であったか…… 頭を抱える是清はそれでも仕事に向かった。そして交渉相手の老婆の息子が大阪にいることを突き止めた。 この結果を持って彼は歳月にやってきた。 「女将」 「丸サ様、こんばんは」 「……すまなかった。礼儀知らずであったな」 歳月の女将は澄まして彼の上着を持った。 「こちらこそ。ご心配を掛けました」 部屋へ誘導した女将は是清に座布団を進めながら語った。 「千代子は親友のお嬢さんで、本当はこんな店にいるような娘ではないのです。ですが、あなた様に可愛がってもらって、同じ仕事をしている者の立場がありまして」 「本当に申し訳ない」 女将は是清を見つめた。 「丸サ様は、あの娘をどう思っておいでですか?それによっては今後、ここには」 「女将。頼む」 是清はここで頭を下げた。女将は驚いた。 「丸サ様」 「俺はやましい心は無い。今はただ、あの娘と過ごすのがその楽しいというか、本当の自分になれるというか」 「……本気なのですか」 「わからない。だが、今はそれしか言えない」 汗だくの是清であったが、女将はため息をついた。 「まあ。いいでしょう」 「え!では」 「ですが千代子は大事な娘です。今後は千代子からも報告をさせますが、私的な用事はお控え下さいね」 「ああ。承知しました」 「……ではお待ち下さい」 短い時間であったが是清には長く感じられた部屋に、彼女がお膳を運んできた。 「こんばんは。今宵のお膳です」 「おお。うまそうだな」 二人は何事も無かったように食事を始めた。 「娘、これは俺の独り言だ。あの婆さんの息子は大阪にいてな。婆さんは息子のところに行くことになった」 「そうですか」 「お前に感謝していたよ。俺も助かったし」 「そうですか」 ここでどこか暗くなった千代子に是清は焦った。 「どうした?また俺が何かしたか」 「いえ。あのお婆さん、寂しいって言っていたので、息子さんと暮らせて良かったなと思っただけです」 「そうか」 しんみりした部屋には隣の部屋の三味線が流れてきた。 ……そうだよな。こいつは一人きりだからな…… 隣部屋の騒ぎの中、寂しそうな横顔に是清はつい酒を飲んだ。 「旦那様。今宵も雨ですね」 「そうか」 天気の話しかできない様子の彼女の言葉を、酒を飲みながら是清は黙って聞いていた。 「梅雨明けはいつになるのでしょうね」 「もうすぐだろう」 ……こいつは一人ぼっちなんだよな…… 「俺がいるのにな……」 「え」 「おっと?ハハハ、何でもない」 思わず心がこぼれた彼は誤魔化すように酒をついでもらった。さびしいのは千代子なのか、気が付いてもらえない自分なのかわからない彼は笑みをこぼした。 「独り言だ……さて。今宵の酢の物は、菊か」 酢の物を目にした彼に千代子も口角を上げた。 「ええ、綺麗ですね。ささ。どうぞ」 流れて来る三味線の調べが止まった時、二人は笑みを見せた。 窓から聞こえる雨だれは淑やかで優しく時間を流れていた。 完
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