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五 日本橋
「そうですか。惣兵衛さんは旅行中ですか」
「お返事できず申し訳ありません」
日本橋の質屋、本妻は謝ると店の奥に引っ込んだ。
「お母さん」
「一代。旦那様から手紙が来ていなかったかい」
「ありませんでした」
「そう」
母と娘は奥の部屋にてお茶の時間を過ごしていた。質屋の仕事は番頭がいるので問題はなくイクは対外的に挨拶だけをこなしていた。
娘の一代は嫁入り前。どうせいつかは嫁に出すという惣兵衛は一代を特に可愛がることなく、養育はイクに任せていた。
金をふんだんに使い、習い事をさせたが、特にこれができるというものもなく、不器用さもありプライドだけが高い娘となっていた。
高級な着物の一代は母と饅頭を食べていた。
「ところでお母さん。この前、神楽坂の娘が来たそうね」
「……そうよ。追い返したけれど」
「どんな娘だったの」
「器量の悪い、地味な娘だったわよ」
ため息で話したイクは嘘を言った。自分を尋ねてきた娘は芯の通った娘だった。
彼女の母親が死んだことは電報を握りつぶした自分がよく知っていた。惣兵衛には愛人がたくさんいる。かつての自分も愛人であったが本妻を追い出し、後釜に入った若き後妻である。
愛人であったが本妻になり、財産を得た自分は惣兵衛の愛人問題に目を瞑っていた。しかしイクが許せないのは惣兵衛の子供自慢であった。
酔うと必ず話すのは先妻の息子が後継者であるということと、娘で使えるのは一人だけ、と言う事だった。
この娘というのはいつも一代ではない、とイクは感じていたが、千代子に逢って確信していた。
……畜生。あの娘か。芸者の娘のくせして……
母の葬儀を独りでこなし、本家に挨拶に来る根性の持ち主。その姿は品よく、仕草は美しく。態度は清楚な心が現れていた。
……泣き叫べばよいものを……頭など下げて……これじゃこっちが悪者じゃないか……
「お母さん」
「くそ。今度会ったら」
「お母さん!私の縁談のことだけど」
「あ?」
いつの間にか一代が心配顔で見つめていた。
「どうしたの?怖い顔をして」
「ごめんね。ちょっと考え事をして」
そしてイクは笑顔で娘の相談に乗った。
「縁談?ああ。でもそれは旦那様に聞かないと」
「……あのね、その」
一代は恥ずかしそうに話し出した。
「実はね。いつもお会いする佐伯様のことだけど」
「ああ。旦那様に出資してくれた男でしょう。旦那様が五年間だけ婿にするって言っていた男」
「うん。私、いつもお会いしているのだけど」
もじもじしている一代にイクは飲んでいたお茶の湯呑を置いた。
「もしかしてお前、その佐伯さんと?」
「うん。素敵な人だから」
「……そう、か」
イクが惣兵衛から聞いていた話は、ただ五年間だけ婿にする、というものだった。しかし。娘が言い出した話を母として叶えて上げたいと思った。
「わかったわ。とにかく旦那様が戻ったら相談しましょう」
「うん、でも」
「でも?」
「お父さんはいつ帰るの?それまで待つの?」
「一代、ちょっと待ちなさい」
是清を慕う一代は何をしでかすかわからない様子だった。これを危惧したイクは、娘のために考えた。そして後日。一代を佐伯商事に向かわせた。
「こんにちは、私。日本橋の柳原です」
「え?柳原!ちょっとお待ちください」
出迎えた小林は、静々と煌びやかな化粧と着物で決めてきた一代に驚きながらも、応接室に通した。
やがて小林が部屋に入って来た。
「すみません。社長はあいにく外出しておりまして。あ、私は秘書の小林です」
「……そう」
がっかりの一代は途端に態度を変えたが、風呂敷包を差し出した。
「これ。お中元です。佐伯さんに渡してください」
「ありがとうございます。確かに預かります」
不愛想な態度に変わった一代に驚きながら小林はこれを受け取った。
そんな和代は小林を見た。
「ねえ、この時間、佐伯さんはここにいるの?」
「不規則なので、何とも言えませんね」
ここで一代は部屋を見まわした。
「佐伯さんは何のお仕事をされているのですか」
「主に不動産投資ですが、詳しくはお父様にどうぞ」
どこか横柄な態度に小林もさすがに冷たくなった。目を細めた一代は静かに立ち上がった。
「では、帰ります」
「はい、お気を付けて」
そして玄関でさようなら、と手を振った小林の背後に彼がすっとやって来た。
「なんかすごいな」
「会わなくて良かったですね」
実は会社にいた是清は静かになった事務所で一代が持って来たお中元を確認した。
「甘納豆。これを俺に」
「まあ、気持ちですから」
「……それにしても、すごい態度だったな」
父親や是清がいる時とは全く違う威圧感ある態度に二人は困惑していた。
仕事柄、怪しい連中とつき合うことがある是清は、一代の態度に肩をすくめた。
「で、どうでしたか」
「ん?何の事だ」
「一代さんですよ。明らかに社長狙いだと思いますが」
「俺?あり得ないよ」
驚きの彼はやめてくれと手を挙げた。
「仕事でこんなに気を遣っているんだ。嫁さんがあんなんじゃ、やっていられないよ」
「へえ、ではどんな女性が良いのですか」
「それはあれだ。家庭的で、その。優しくて」
「……他には?」
「賢くて、その一緒にいるとほっとしてだな」
「その人の名前は千代子さんというのではないですか」
「う……まあ、その、だな」
頭をかく是清を小林は呆れて見ていた。
「でも安心して良いですよ。だってもう籍が入っていますので」
「……小林。だが、聞いてくれ」
是清は真顔で小林に向かった。
「たしかに。俺は千代子にその、興味があるのは認める。しかしだな。柳原がどう思っているのかわからん。今の娘の訪問だって、そう指示をしたのかもしれぬ」
「向こうは一代さんを紹介していましたからね」
しんとした部屋には柱時計の音が響いていた。ここで小林が口を開いた。
「とにかく。柳原氏は外国です。帰国後、本当に千代子さんを妻にしたいのならば正式に話を進めればよいのではないですか」
「それしかないか」
「まあ、その前に嫌われないようにすることですね。だって千代子さんは離縁したいと、文を寄越したくらいですから」
「そ、それはそうだな。まあ、頑張るよ」
「珍しく低姿勢ですね」
「まあな」
是清は立ちあがった。
「嫌われないように、か……よし」
この夜。歳月にやってきた是清に千代子は食事を出した。
「おい。今朝は綺麗な朝焼けであったな」
「はい。旦那様もご覧になったのですか」
「ああ。綺麗だった。昼頃は一旦曇ったが」
「午後は晴れましたね。夕立が少しありましたけれど」
「夜は星が見えるかな。ん?ど、どうした」
くすくす笑う千代子に是清は首を傾げた。
「ふふふ。だって、お天気の話ばかりで」
「だって、お前はその話しかできないんだろう。だから俺は」
千代子は笑い涙をぬぐった。
「もう大丈夫です。女将さんがそう言っていました」
「そうか」
私的な会話の許可。信用してもらえた是清は嬉しさの笑みをこぼした。
「では、そうだな。お前、俺に質問をしろ」
「え?そうですね」
千代子はちょっと考えた。
「……今夜のお食事はいかがですか」
「それしかないのか?まあ、よい、そうだな、この」
「酢の物」
是清が言おうとしたことを先に言った千代子を彼は見つめ、笑った。
そして千代子は他の席に呼ばれて退席してしまった。部屋で一人の是清はため息をつき、目をぎゅうとつむった。
……是清。素直になれ!彼女が他の男に取られてしまう前に……
窓の外は虫の音がしていた。もうすぐ来る夏、是清は自分の顔を知らない妻に、胸を焦がしつつ家に帰って来た。
「ただいま」
「坊!こ、こんな手紙が」
「え。また例の娘か」
「いえ、その。まだよく」
「貸せ!お前の手が震えていて読めん!ん。これは」
じっと読んでいる是清に余市はハラハラしながら尋ねた。
「どうですか?また例の娘からですかな」
「違う。これは、栃木のお婆様だ」
「え?あの奥様」
「ああ……あの御婆様だよ」
是清が下した手の手紙には、『妻を連れて法事に参加されたし』と書いてあった。
四「日本橋」完
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