六 離縁の条件

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六 離縁の条件

初夏の眩しい朝。千代子は早起きをして洗濯をすませた。そして料亭に向かい仕事を始めていた。 千代子は接客係であるが、料理も習いたいと申し出て現在勉強中。客に出す料理などはとてもできないが下処理の手伝いをしていた。これは孤独な彼女にとって楽しい時間だった。 「お千代。例の旦那は今夜も来るのかな」 「どの人ですか」 「丸サって人だよ。ところで。あの人は何屋さんなの」 「知らないです」 「え?知らないのかい」 若い板前は千代子の話に驚いた。しかし千代子は平気な顔で玉ネギの皮を剥いていた。 「だって。何屋さんでも同じお客様ですもの。それに他に覚えることがたくさんあるから。あ、この皮を剥いたら次は何でしたっけ」 「里芋だね」 「そうでした!」」 料理も配膳も片付けもやる千代子にとって知らない男との結婚話は、父がいないとわからない話だった。このため今は仕事を必死にやっていた。 この夜。疲れ切って長屋に帰ってきた千代子は郵便物を発見した。 「これは?まあ」 それを見た彼女は翌朝早く隣の家のトメを尋ねた。 「トメさん!トメさん起きて」 「うるさいね……起きているよ。とっくに」 「これを見て!旦那様から手紙が来たの」 「例の書類上のだろう?どれどれ」  トメ、手紙を読んだ。 「わかった!要するにこの佐伯って男は、田舎で法事があるんだね。それに嫁であるお前さんに一緒に来て欲しい、と。そういうわけだ」 「でも、知らない男の人と。旅行だなんて」 戸惑う千代子を座らせたトメはお湯を沸かし出した。 「そうだね。私も反対だよ。でもさ、まず、お前さんが通っていた佐伯是清は。確かにお前さんの旦那ってことだね」 「それはそうね」 小さな前進に二人はうなずいた。 「でもさ、日本橋の柳原の旦那に、事情はやっぱり聞けないのかい」 「ええ。それに話を聞いたの。歳月に来たお客さんの話では。お父様は他のお店の人と台湾に旅行しているようなの」 「じゃ無理。本宅なんか行かないほうがいいね」 また考え込んだ千代子に対し、トメは一緒に考えた。そして二人で作戦を立てた。 ◇◇◇ 「こんにちは!お久しぶりです」 「お嬢。お待ち申しておりました」 千代子を出迎えた余市は嬉しそうに庭掃除の手を止めた。 「すっかり日焼けされて、うわ?お庭が綺麗になっている」 「へえ。剪定したもんで」 「お爺さんが?お上手ですのね」 天然の褒め上手の千代子に余市は染まった頬を帽子で隠した。そして時間があるという彼女を庭の縁側に座らせた。 「これはカステラです。私が作りました」 「おお?これは若の好物ですので喜びます。ささ、本日は茶を用意しておりました」 「私を?もしかして、来ることがわかっていたの?」 「水曜日ですから。はっはは」 ようやく千代子と会話ができる余市は、数日前から是清から指示を受けていた。今日それを実行できる余市は必死に対応した。 「ところで。お爺さん。私のところに佐伯様からお手紙が来たんです」 「へえ。法事の件ですね」 「そうです。その件についてです」 千代子はお茶を受け取り、自分の草履の足を見つめた。 「私。父が籍を入れたことはわかっていますが。知らない殿方とそんな遠くにご一緒するなんて。やはり怖いんです」 「坊が悪いんです。わしが謝ります」 「そんな?顔をあげて下さい」 そんなつもりじゃない千代子に余市が謝るため、彼女は焦った。 「お願いです。どうか私の話を聞いて下さい。ね。お爺さん」 「わしでよければなんでも聞きます。お嬢、どうぞお話しくだされ」 「ええ。実はね」 千代子は気持ちを打ち明けた。話を黙って聞いた余市は、それが書いてある書類を受け取った。そして千代子を見送った。 「ただいま帰った!余市。来たか!」 「手土産はそこに」 「それは後で良い!で、どうだった」 興奮している是清に余市は無言で手紙を寄越した。そして是清の上着を受け取り奥の部屋に行ってしまった。 「なんだあいつ。どれどれ、『一つ。婚姻の秘密を説明するべし。一つ、これが終わった後、直ちに離縁すべし』って、おい!余市、これはなんだ!」 「声が大きいですぜ。まずは夕飯を」 「うるさい。すぐに教えろ」 そして。是清は夕飯の席にて話を聞いた。それは『法事は現地集合。現地解散。そしてその後に離縁するのが条件』ということだった。 「現地集合って。どういうことだ」 「お嬢は、うら若き乙女です。坊と長旅は怖い様子で」 「そんなに長くはないが」 「問題ありません。わしがお連れします」 「余市が?」 余市は淡々と続けた。 「この屋敷には家内に留守番をしてもらいます。とにかくお嬢はわしがお守りします」 「……まあいい。それに。この離縁とは」 「ああ。それですか」 余市は食事を出しながら話した。 「お嬢は、母親が死んだ時に戸籍を見て初めて自分が坊と結婚したと知ったそうです。ですがその理由を本家には聞けない状態で。非常に難儀しておるようで」 ……思った通りだな……… 「難儀とは?なんだ」 「名前も佐伯と書かねばなりませんし。そもそも。お嬢に好いたお人ができた場合、お嬢が結婚できません」 「……難儀か。そうか」 仕事のための保険のつもりだった是清。しかし千代子にとっては迷惑なことだった。是清はこれが胸に刺さった。 ……まず今は、法事に参加してもらうのを優先だ。後は説得するしかない。 「わかった。とにかく法事に来てくれるのなら良しとしよう」 「へい」 「お前は娘を守れ。離縁の話は俺が直接する」 「へい」 「余市。あの」 「はい?」 是清は少し恥ずかしそうに余市に尋ねた。 「ど、どうだった?その娘の様子は」 「元気でしたぜ。一緒に縁側で茶を飲みまして」 「他には?俺のことは何か聞いたりしなかったか」 「全然。ではどうぞごゆっくり」 「あ、ああ」 ……ああ。くそ!どうしてこんなに胸がモヤモヤするのだ。 千代子を思うと苦しい胸。是清にはそれが何かわからなかった。 食事を済ませた是清は風呂上がりの浴衣姿。濡れ髪のまま星空を見ていた。 仕事優先。お金が全て。そんな思いでここまで走ってきた彼。声をかけて来る女性は山ほどいた。しかし、ここまで心が靡く娘に会ったことはなかった。 今宵は早く帰ってきたが、歳月には頻繁に通っていた是清は、千代子が自分に感心がないことに悩んでいた。 ……俺の顔をろくに見ないくせに、俺が酢の物が好きな事は知っているんだ。本当におかしな娘だ…… 夜の星を見て一人飲む酒。是清が思うは書面だけの花嫁のことでいっぱいだった。 そして、その日がやってきた。出社前の是清が自宅にいると、この日に出かける余市は支度をしていた。 「さて。坊。わしは先にお嬢と出発しております」 「ああ。俺は仕事を終えてから旅館に参る。留守は婆やがいるので気にするな」 ここで余市の妻が顔を出した。 「はい。私がいますので坊ちゃまも安心してください。あれ、誰か来ましたよ」 「おはようございます」 玄関の向こうから花のような声が聞こえてきた。 「千代子です。余市さん」 「おう。お嬢。今行きますぜ」 親しげな雰囲気に室内にいた是清の胸はドキドキした。しかし姿を見られたくない是清はそっと庭側に移動し、縁側から外に出た。ステテコ姿で庭から外に出た彼は玄関前に立つ千代子を観察した。 ……おお、本当に千代子だ。今日は洋装か。 可愛いワンピースを着た千代子は、初対面の婆やと談笑をしていた。 「お婆さん。これは今朝作った大福です。私が作ったので形が不揃いで恥ずかしいですが」 「そんなことありませんよ。うちの嫁だってこんなに作れませんもの」 「まあお嫁さんをそんなふうに言ってはいけないですよ。それにしても、余市さんの奥様ですよね。いつもお世話になっています」 ……婆やに頭など下げずに良い!それよりも俺だろう…… 自分の名前が出てこないことにイライラの是清は、一人歯がゆく様子を見ていた。彼の心を知らぬ千代子は朗らかに話をしていた。 「余市さんはこのお屋敷を一人で切り盛りされて、庭の木もあんなに上手に、ほら」 「どれどれ」 ……まずい?こっちを見ている!…… 思わず隠れた是清は、そっと千代子を見つめた。白いワンピース姿に長い髪を垂らしていた。手には麦わら帽子の彼女。いつもは着物の清楚な様子との違いにドキドキしていた。 「お嬢。行きますぜ」 「そうですね。時間だわ。それでは婆やさん。行ってきます」 「はいはい。気をつけてくださいね」 ……俺は?俺には何もないのか…… ショックな是清はよろよろと木の影から出てきた。すると、不意に千代子が振り向いた。是清はふくよかな婆やの背後に隠れた。 「婆やさん。佐伯様にお伝えくださいませ。現地で待っていると」 「はいはい。行ってらっしゃい」 婆やが手を振るのを止めた時、彼は姿を表した。 「婆や」 「きゃ?驚いた。何をしているんですか」 「……俺は姿を見られたくないんだ。して。どうだった?あの娘は」 「さあ」 「え」 彼を知る老婆はすましていた。 「後で合流するのでしょう?まあ、なんて格好ですか!そのヒゲの顔を洗ってください。千代子さんに好かれたければ」 「お前までそんなことを?くそ。あ?もうこんな時間か」 千代子と余市を見送った是清は屋敷に入った。彼は鼻歌を歌っていたが、気付いていなかった。 五「離縁の条件」完
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