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 黄色というよりクリーム色と呼んだ方が良さそうな扉が見えてきたあたりで、廊下に置かれた長椅子に座る人影が見えた。藍色のハーフパンツから伸びた足がぷらぷらと揺れている。  小走りで駆け寄ると、きみは緩慢な動作で振り向き、思いきり顔をしかめた。 「……おはよう」 「もう昼だよ」  垂れ目がちでやわらかな目尻が釣り上がっている。リラックスさせるつもりが逆効果だった。   きみの両腕はだらりと身体の脇に下げられており、時折ぴくりと痙攣していた。白い半袖のシャツから覗く肘から下には無数の点滴跡がある。爪は健康的な桃色だったけれど、脆くなっているからか、十指全ての先端がぎざぎざになっていた。  この前会ったときには気付けなかったあれこれが、急に目の前にたち現れる。  あのときも今回も、いつも僕は遅い。その事実が摩擦を起こして、僕を少しずつ削り取っていくようだった。 「なんで来ちゃったの」 「なんでだろうね。……知りたかったし、逃げられないと思ったから、かな」  できることは何でもしてやりたいと言っておきながら、きみのことを知らないでいるのは筋が通らない気がした。  それに。  今の僕が思い付く、僕にしかできないことは。  きみのそばで、きみの話を聞くことだ―あのときからずっと、変わらずに。 「逃げられるよ、エギナルは。逃げたっていいのに」 「僕が嫌だ。たとえきみが良くても」  半身ぶんの距離を空けてきみの右隣に座る。廊下の壁は片方が大きなガラス張りになっていて、僕らがいつも講義を受ける生物科棟の入口が少しだけ見える。雑に植えられた花壇の花々は、真昼の日差しを浴びてなお瑞々しい。アーティフィシャルよりずっと値が張る、本物の植物だ。 「いつもはああじゃないよ」 「……本当か?」 「そうだって。係のやつがヘタクソで、いつもより痛かっただけ」  目線は前に向けたまま、きみは不機嫌を隠さずに続けた。 「それに、エギナルがいるって最初に分かってたら我慢した」 「それじゃあ検査の意味がないだろ」 「まだ正常に動くかどうかを確認してるだけだからいいんだよ、ぼくがどうふるまったって、数値には正直な結果が出るんだし。―あんな無様なとこ、きみに見せるなんて」  きみは悪態に舌打ちを付け加える。ここまで機嫌が悪いのを見るのは、森林公園に行ったあの日、きみの父親……所長さんと会ったとき以来だ。 「……悪かった」 「簡単に謝らないでよ。何の謝罪なの、それ」  噛み付くような口調。僕を鋭くきっと見て、きみは問う。 「きみを不快にさせただろ。間接的にでも」 「エギナルのせいで不快なんじゃない。ぼくは、自分で自分に腹を立ててるんだ」 「そんなこと言ったって」 「だから!」  と、きみはソファから腰を半分浮かせて怒鳴った。ぼくはぽかんと、腑抜けた顔で見返してしまう。  きみに、初めて怒鳴られた。 「全部自分のせいにしないでよ。……ぼくのせいに、してよ」  きみは座り直すと、刺々しい雰囲気を緩ませた。大きく息をついて、僕の肩にこてりと頭をのせる。 「見たら心配するでしょ、エギナルは。だから隠してたかった」 「今更……」  もう見てるのに、と言うと、それもそうか、ときみは声を立てて笑った。  僕の体にきみの重みがより強くかかってくる。布団がかかった程度の感覚しかないけれど。 「見に来てるって知ってさ、あ、これ、後で会ったら心配される、って思って。……でも、ほっとしちゃったんだ。見ててくれるなら大丈夫、耐えられる、って。……また、助けてくれるかも、って」 「……うん」  きみの顔を見れない。  きみの唇が、僕の名前のかたちに動いたこと。翼が見えたこと。きみの瞳に気圧されたこと。何も言えない。  お互いを見ずに前を向いたまま、僕らは言葉を交わす。 「勝手に当てにして―エギナルが頼りないって言ってるんじゃないよ―救ってほしいなんてばかみたい、って。自分にがっかりした」 「僕は構わないよ」 「ね? エギナルはそう言うでしょ」  きみは声をたてて笑う。困ったように。 「そういうところ、変わってないんだもん。あの頃から、たくさんたくさん助けてもらってる。……でも、いつまでもそれじゃあ、ぼくだけが子どものままだ」 「僕はまだ未成年だし、きみのほうが誕生日は早い」 「そうだけど! そうじゃなくて。……甘えてちゃおとなになれないでしょ。ぼく、置いていかれたくないんだよ」  うまくいかないけど、ときみは掠れ声で囁いて、震える右腕を持ち上げた。そしてぱたりと―糸が切れた操り人形のように、ソファに落とす。 「鳥の雛だって知ってるんだよ。いつかは自分の力で飛ばないといけないって」 「……」 「……」 「所長も……この検査、知ってるのか」  きみは答えない。知っているもなにも、伝えていないのかもしれなかった。 「……ここに進学したのはね。勉強したいことがあったからが半分で、プロジェクトで治療を受けやすいのが半分。これまでは遠隔診療と週末の通院でやってきてたから。……保護者の了承が必要な検査や治療って、高等科からはそんなにないんだよ。小さい頃から飲んでる、一番強い薬の処方箋をもらうくらい」  質問にはっきりと答えないのはわざとだろう。所長に知らせない―相談しないで、きみは自分のからだの判断をしているのは明白だった。 「高等科も、寮だった?」 「そうだね。ご飯が美味しかった。父さんも出張のついでに来たりしてたなぁ」  両極端なんだよ、ときみはあきれたように言う。 「過保護なのはやめてほしいけど、身体のことで心配かけてるのだって分かってる。だから今の距離感が一番ちょうどいい」 「……だったら尚更、きみがどんな風か」  何かのタイミングで知ったとき、どんな顔をするか。  ねじれてすれ違ってばかりのきみと所長がますますぎくしゃくするのは、部外者の僕が嫌だった。決して踏み込んでいい話ではないけれど、きみが悩んだり困ったりするものごとは、なるべく少ないほうが良い。 「……ぼくのことで煩わしい思いなんかしなくっていいんだ、父さまは。学校も治療も、お金出して貰ってるけどさ。せめて気持ちだけは、父さまは父さまの気持ちを優先させたっていいんだよ。ぼくが占めてる割合を減らしたいん」 「それは―所長に聞かないと分からないだろ、本当のところは」 「あはは。だよねぇ……だからぼくの我儘だよ。子供っぽい我儘。大人扱いしてよ、ほっといてよ、って」 「素直に言えばいいのに」 「言えないから言いたくないの。知ったら悲しむし、怒るもん、あのひと。……ぼくのことで悲しむのも怒るのも、もう十分でしょう。……エギナル、ここ」  きみの指が僕の口の端に触れた。細い中指はひんやりとしていて、思わず僕はびくりとする。 「やったでしょ」  僕は顔をずらさずに目だけを動かした。きみは目を細めて、指をすうっと唇に走らせる。何を、と言わないのは、きみなりの気遣いのようだった。 「ぼくのせい?」 「それはない。僕が勝手に」 「うそ」 「本当だよ」  唇の中央まで来ていた指が離れていく。  僕は、自分の左手を押さえていた右手をほどいた。  きみの指を退けようと動きかけた左手の甲には、くっきりと親指の爪の跡がついた。  一瞬湧き出した拒絶を、その跡へ押しこめる。  何を拒みたいのかなんて、僕にも分からない。  きみは頭突きをするみたいに、額を左胸に押し付けてきた。僕が身動ぎしても体勢を変えようとはせず、反対に顔を擦りつけるようにする。むずかる子どものような仕草。シャツの上からでもくっきりと分かる肩甲骨のラインに、またあの夢の光景が頭に浮かぶ。今は、翼は見えなかった。 「……苦しいよ」  きみは離れようとしないでより力を強める。右手で頭を軽くはたくと、髪が不自然に揺れた。 「……泣いてる?」 「ないてない」 「どうかなぁ」 「泣いてないよ」  きみが全く泣き虫でないことはとっくに知っているから、拘束に抵抗しないことにした。  右手をゆっくり降ろす。きみの重さはないのに、むしょうに肩から下が重たく感じる。 「…………結果はいつ頃出るの」 「三週間後」 「……そっか」  知らないことばかりだ―きみがどんな検査を受けているのかも、どんな薬を処方されていて、どんな副作用があるのかも。きみが、何を思ってプロジェクトに協力しているのかも。  主任は、プロジェクトは治療と相反するものではないと言っていたけれど。検査の様子を見る限り、きっと建前なんだろうと思ってしまった。  主任の言い分が間違っているのではなくて―多くの人がプロジェクトに関わっているなら、それだけ多くの意見もあるということだ。  羽根を失わないために治療は不要だと、そう考える人が全くいないとは断言できない。  かと言って、プロジェクトを降りたり治療をストップしたりするのがきみにとって良いことだとも言い切れないのだろう。後にも先にも症例がないから、比較できるものもない。行き詰っている訳ではなくとも、前に進んでもいない状況だ。  きみにこれ以上痛い思いはしてほしくない。きみの願いが叶ってほしい。それだけのことがどうしてこんなに難しいのだろう。  話を聞く以外に。神頼みにも似た祈りを呟く前に。  僕にできることがまだあるのだとすれば、それは何だ?  難しいと嘆く前にできることがあるはずだ。今から医者を目指すだとか、そういう突飛なものじゃない、地に足をつけた何かが。  考えるんだ。想像するんだ。  でかくなったからといって、想像力がなくなった訳じゃない― 「結果が前より悪くなってたらどうしよう」  空調の音に掻き消されそうな囁きとともに、きみは再び頭を押し付けてくる。 「視力や握力は問題ないの。……骨とか内臓とか、分かりにくいとこが駄目になっていくんだ。色んな薬を試してるんだけど……このままだとね。歩けなくなるかもしれないし、もし子どもができたときに、……できても、大丈夫じゃ、ないかもなんだって」 「……うん」  力を入れすぎないように気を付けて、きみの頭に手を置く。  きみの不安も恐怖も、僕は想像するしかないけれど。かといって、理解を放棄する気もなかった。 「子どもあつかい、やめてよ」 「してないさ」 「じゃあ何なの」 「おまじない」  大丈夫になるおまじない、と付け足すと、きみは小さく吹き出す。子どもみたいだと言いながら、両腕で顔を隠そうとする。 「鼻すすんのみっともないぞ」 「……」 「聞いてる?」 「んん」  顔を覗こうとすれば、きみは露骨に僕の視線を避ける。  とうとうきみの顔を見ることに成功した僕は笑ってしまった。 「すごい顔してるよ、きみ」  言葉では言い表しにくい表情だ。色白だからか、余計に鼻の頭の赤みが映えている。 「う。こんなつもりなかったのに」 「そっ、その顔で言う?」 「ちっくしょ……恥ずかしい」  ラフな口調でぼそりと言ってきみは姿勢を正す。脇に置いていたトートバッグから震える端末を取り出して、素早くメッセージを返信する。 「何かあった?」 「んーん、課題の連絡。ぼくのとこ、他の学科よりも授業期間が長いんだ」 「もしかして、明日もあるのか」 「うん。夏期講習もね」 「……行ける?」 「明日は、調子が悪かったら午前中はお休みするかも。出席日数が足りないと進級できないでしょ。……これ以上皆から置いて行かれるのは嫌だから、さ」  きみはバッグの持ち手を一つにまとめて、肩にはかけずに立ち上がろうとする。僕はそれを引き受けて隣に並んだ。 「このくらい持てるのに」 「お気になさらず」  気づけば時間は既に正午を回っていた。昼食はどうするのかときみに訊けば、このまま帰宅して食べるとのことだった。 「本屋さんにも行きたかったんだけど、うん、今度かな」 「一ヶ月に何冊買うんだ……」 「あ、本じゃなくてね、欲しいチケットがあって。今時、アナログでしか売らないみたいなんだ」  きみは言いながら端末を操作し、こちらに検索エンジンの結果を見せる。表示されている画像は、催し物のポスターだった。  中央に描かれている大きなタイトルは、どこかで見た覚えがある。 「…………あ」  主任に貰ったチケットのだ。 「夜明けとあしあと展だろ」 「そくせき、だよ」 「……生物科の先輩も手伝ったらしくて、優待券を貰ったんだ……ええと」  財布やバッグの中を何度も探して、ようやく二枚のチケットをつまむ。ほら、と見せると、きみは「ずいぶんしわしわだねぇ」と朗らかに笑った。 「二枚貰ったから、一緒に……」  チケットを眺めながら言いかけて、口を閉じる。  展示会場は、公共交通機関を使ってもゆうに数時間はかかる地区だ。いくら準備をしたとしても、きみに万が一のことがあったらと考えると、軽々しく言うのは躊躇われた。  それに、主任の言葉を思い出してしまった。  生物科の先輩たちの研究成果、ではなくて。  好奇心が。  怖いもの見たさ、とも言えるそれが、僕の喉をゆるく掴む。  いっそ、きみが行くのを諦めてくれたらと他人任せなことを考えて、音を絞り出した。 「―行くにしては、少し遠いんじゃないのか」 「うーん、そうかもね。でも大丈夫じゃないかな。ぼくが転校してくる前に住んでた街だから」 「……行き方や地理は分かる、と」 「そうそう。まさしくぼくの庭だね」  父さまにも相談はしてあるんだ、ときみは言う。 「遠いけど、行かなくちゃ。同じような展示がこれからあるとしても、僕が行けるかどうか分からないもの。ちょっと無茶でも無茶にならないように、安全第一で行くんだよ」 「じゃあ」 ―じゃあ。 「僕も一緒に行くよ。もしきみが大変な目に遭ったとしても、手助けはできる」 「……」 「あ、それとも誰かを誘ってたか? だったらこれ、折れ曲がってるけど使えるから」 「―ううん。一人で行こうと思ってた」  いいの?  きみは囁くようにそう言って、きみは僕を見上げた。ふんわりしたボブカットが、扇子を開くみたいにぱらりと広がる。 「良いに決まってる。……主任から貰ったんだし先輩達のもあるんだから行かないと、っていうのもあるけど、うん、きみとなら楽しくなりそうだ」 「う―うん! ぼくもすっごく楽しみだよ、エギナル」 「だけど条件付きだ」  僕は廊下の途中で立ち止まる。 「今日の結果を見てから最終判断だ。まずは保留。きみの講義も残ってるんだし、念には念をだろ」 「……でも、保留なんだね。中止じゃないよね」 「一応は」  きみはぱっと顔を輝かせる。僕のシャツの袖を握って、だけどすぐに離した。 「ぼくも、いつもよりもっと規則正しい生活をするよ。無理もしないよ」 「無理しないのはいつもそうしなよ」 「あはは! だって無理も無茶も、きっとぼくには今だけだもの!」  きみは踊るような回転で振り向く。ガラスから差し込む夏らしい太陽光が、髪を小麦色に煌めかせる。 「やっと夏休みらしい予定ができたよ。嬉しいね。お休みって、どうして一瞬で終わっちゃうんだろうね」 「高等部までと比べたら格段に長くなってても、そうだよな」 「楽しいことは一瞬だからだよ、きっと」 「相対性理論?」 「人生はいつだって付け焼き刃ってこと」  きみは呑気そうに言って、僕の前を行く。 「知識も常識も将来も健康体も付け焼き刃だ。人生全部の一瞬一瞬がそんな感じだとしたら、世界はいくら広くたってはりぼてだらけでつまらないところなのかもねぇ」 「それでも僕たちはカゲロウやセミじゃない」  きみは驚いたように目を見開いた。まさか中等部の頃の会話を、今になって引き出されるとは思っていなかったのだろう。僕もきっと忘れていただろう―自分で昆虫探しを続けていなければ。 「僕たちは得てして寿命が長いんだろ。長寿に胡座をかいて、一瞬一瞬を薄味にしたって虚しいだけだ。たとえ付け焼き刃でもさ」 「だから、想像力で現実を補完する?」 「……場合によりけりかな」 「ふふ。エギナルに一本取られたなぁ―じゃあぼくも。ぼくも、想像力ではりぼてを本物にするんだ」  だけど僕は、いくら想像しても、空へと昇っていくきみだけは上手く思い描けないでいる。代わりに浮かぶのは、翼を生やした姿で落下していくあの夢だ。 ……訊いてみようか。  主任と話をしてから、何度となく考えてきたことがある。想像力と呼ぶべきか妄想とするべきか、自分でも曖昧なことだ。  きみと落下する夢に紐づいて、頭の中にある疑問。  口の奥にうっすら湧いていた唾を飲み込んで名前を呼ぶ。自分の意志できみの目をもう一度、見る。 「……どうかした? エギナル」 「質問。と、確認が、あるんだけど」 「うん。なに? 改まるね」 「―まだ、空。飛びたい?」  想像した通り、きみの琥珀色が一段と濃くなる。吸い込まれそうな瞳というのは、きっとこんな目を言うんだろう。 「当たり前だよ」  きみは即答した。静かですっきりとした迷いがない返事だ。  聞いた瞬間、間違えた、と思った。  飛ぶことを否定したんじゃない。だけどきみの眉がひそかに寄ったのを見逃せなかった。 「―あ、えと、きみのご両親のこともあるし、無理で無茶な話ではないんだろ。だけど……きみも言ってたよな。きみがいた街でも飛べない人が増えたのは、環境に適応するためだって。だったら、適応のために手に入れたものだってあるはずだ。それって何だろう、って思ってさ。ほら、順当? に考えるなら、想像力だと思うんだよ。きみにはまだしてなかっただろ、この話」 「……何にもないよ」  すとん、と、きみは人形みたいに小首をかしげる。 「どんな夢や目標だって、達成している自分を思い浮かべるのが大切って言うし、想像力は大事なんだろうね。でも、想像力だけじゃ飛べないの」 「……」 「それだけじゃないの。意思がね―ぼくには意思があるよ。飛びたいから飛ぶんだ、それ以上でも以下でもない」  今更でしょう?  強がりでも何でもなく、自然にきみはそう言う。  だから僕はそれ以上、追及できなかった。  言葉を探しても探しても、何も頭の中で組み立てられなかった。 「―手伝えることがあったら言ってくれよ。僕は―きみの、相棒なんだから」  きみにバッグを返す。乗って来たというバス停は検査棟入口のすぐ脇にあった。足下にバッグを置いて、きみは大きく頷く。 「分かってるよ、相棒。たくさんお話させてよ。それでさ、嫌わないでいてくれる?」 「勿論。きみが嫌わない限り、一生」  あの頃と変わらない言葉を、合言葉のように口にする。  きみがバスに乗ったのを見送って、僕も自転車を置いた研究棟脇に戻った。  夕方からバイトが入っているのがありがたかった。やることがあれば、余計なことを考えずに済む。  きみに訊きたかったのは、当たり前のことを再確認するためじゃない。なのにああした質問をしたのは、怖かったからだ。  僕は、きみの重石になっているんじゃないか。  そう尋ねる勇気が出なかった。  プロジェクトと治療は矛盾しかねないことに、聡いきみが気付かないはずがないのに、ああやってやり口を非難しつつも続けられるのはなぜなのか。  答えはすぐに思い付いてしまった。思い出したと言っても良い。  きみが飛ぶところを見たいと言ったのは僕だけだ。  転校前もその後も。きみの話に「真面目に取り合った」のは僕しかいない―自惚れではなく事実として。  翼への希求が僕の無責任な言葉によるものだとしたら、きみの退路を―着陸を阻止したのも僕だ。  だから、再びきみに陸地を見せるのも僕なんだ。  地に足をつけて。這いつくばるんじゃなくて、しっかり立って。  そうしてきみのためにできることは、全然、難しくない。
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