2-10

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 夏らしい盛大なレプリカの音声も聞こえない薄暗がりを歩いていく。朝焼け前のこの時間はあっという間に過ぎる。目を離した瞬間に溶けてなくなる、小さな氷みたいに。  学校裏の雑木林には人影の一つもない。  今日は夏期講習が丸一日入っている。他校の教授の都合がつかなかったからこんな日程になったらしいけれど、そのアナウンスが遅れてやむなく欠席が続出したのは完全に主任の責任だろう。アーカイブの閲覧や補足受講もあるとは言っていたけど……いや、いいや。不毛なことを思い出している時間はない。  暗いとはいえ、足下のライトが点かない程度には明るい遊歩道を淡々と進む。  以前は広葉樹林が茂る場所を中心に探していた僕に、場所や時間を変えてみるのはどうかと助言してくれたのはきみだった。 「目撃情報を頼りにするのもとってもいいとは思うよ。だけどエギナル、考えてみて。想像力を働かせて」  あの検査の日以降、順調に夏期休暇に入った僕とたんまり授業が残っているきみとでは、顔を合わせる機会がなかった。バイト先の書店で一度、黙々と勉強しているきみの姿を見かけただけだ。  バイトが終わってから夕飯に合流して、そこで少しだけ話をした。  きみはどこもかしこもいつも通りだった。具合が良い証拠なのか、忙しさや休暇に入った高揚感で痛みを忘れているのか、分からなかったけれど。  山盛りのアボカドとサーモンの冷製出汁茶漬けをすくいながら、きみはにこにこと笑った。 「エギナルがもし昆虫だったら、どんなときにどんなところに行きたい? 自分の仲間が少なくなってる状況は理解してる。だったら、大きな敵……人間に見つからないところに隠れるよね。そのためなら先祖代々の家も手放すかも。だけど食べるものは欲しいから、葉っぱや樹液が手に入りやすいところがいいかな。……なーんて、ぼくは考えるかなぁ」 「昆虫の気持ちになってみるのか」 「うん。たまには気持ちとか勘とかを当てにするんだ。データや数値だって、今のところは正しそうに見えてるだけ。どんな科学にも絶対なんてあり得ない。そういう意味では、この二つに違いなんてないのかもよ」 「きみが言うと説得力あるけど、不思議な感じにも聞こえるよ」 「あっはは! ぼくは超弩級の理論派だからねぇ」  きみはスプーンをひらひらさせて頷いた。 「だって、命が懸かってたり誰かを傷つけたりするんじゃないでしょ。ぼくもエギナルも、虫を探したいだけ。―だから、たまにはいいじゃない。感情に寄るのもさ」  僕は「そうだね」と返すのが精一杯だったけれど、きみのアドバイスに従ってみることにしたのだった。  入り口の一本道から、広葉樹林の広場とは別方向へ。湿地帯沿いの道をそのまま進むと、花畑の写真が撮りやすそうな位置に東屋がある。その奥からは、木製のチップや何層にも重なった落ち葉が板敷きの代わりに敷かれている。  ここ最近は晴天続きでむしろ干からびそうなのに、足下はじっとりと湿っていた。アスファルトとは違う、踏み心地がない感覚に戸惑ってしまう。  昆虫の気持ち。  きみの言葉を心の中で反芻する。自分以外の何か―誰かの気持ちを読み取ることはきっと、小さい頃よりも今のほうがずっと容易に出来るのだろう。  けれど手探りで踏み込む慎重さはきっと、反比例で失われていく。学習が慢心となってしまえば、思いもかけないかたちで足下を掬われてしまう。  ひとの気持ちは分からないものだ、なんて当然のことにさえ、目を向けなくなってしまう可能性だって。 「……うわっ」  ぬかるみにとられそうになる足に力を入れる。横着してサンダルにしなくて良かった。  僕が昆虫の立場だったら、まず、地面から離れたところで休むだろう。うっかり踏まれてはたまらない。集団でいることも避けると思う。いちどきに見つかってしまっては、いざというときに逃げられる確率が低くなってしまうから。  だから―僕が探すべきは、目の高さよりもやや低い位置の木の幹だった。  このあたりには針葉樹と広葉樹の両方が満遍なく植えられている。これまでの場所と違うのは、こちらは人が入ってくることを想定していないから、何かのツルやぼうぼうの木が多いところだ。枝打ちや下草刈りといった最低限の手入れはされているようだけれど、無秩序なイメージがどうしても先行する。  普段触れることのない、植物が発する情報の多さに圧倒される。  何色もの緑色が重なって、頭上にできた薄暗い空間はビルのそれよりも冷たく感じられる。葉と葉の隙間から漏れる光も、この時間ではまだ弱々しい。湿っている地面から立ちのぼるのは、ほのかに温もった土の匂いと草いきれだ。  木々の質量に、こちらへだらりと下がってくる枝や幹の太さに、押し潰される錯覚をする。真上を向けば錯覚はより現実味を増す。光を求めて、野放図に理知的に伸びた枝葉は、人間が辛うじて作った道を覆いつくそうとする。  閉じ込められるわけはなく、前後に確かに道は伸びているのに。がさりと左目の端が動いたのは野鳥のしわざだろうか、息が詰まる、葉に、木々に、取り込まれる。  僕にでさえこう見えているんだ。  昆虫の視界は、一体どんな狭さで―広さなのか。  首が痛くなってきて頭を戻した。見るのは上じゃない、幹だ。  擬態する昆虫がいるかも、と目を凝らす。中腰になって、一本一本、実験結果を検証するように確認する。  じりじりと前に進みながら見続けて、もう二十本はゆうに見た、と腰を上げたときだった。 「……あ、れ」  左斜め前にふとした違和感があった。  注意深く見ていたからというより、ほとんど勘のようなものだ。幹の色よりも強く黄色を帯びた茶色いかたまりがある―いる。  ゆっくり、ゆっくり近付いて―両手で挟むように捕まえた。  載せている手をつぼめて、親指側から開いていく。  頭の中で、同じ単語を何度も繰り返す。  ナンバー。  レプリカに必ず記してある赤い識別番号がどこにもないか、何度も何度も手を開け閉めしながら探す。写真を撮って残しておこうなんて悠長な考えは捨ててしまった。  背中には無い。脇腹には? 腹部には? 裏返して―ない。足の先には? レプリカ制作技術が高まって、より見えにくいところに刻印されているかも― 「ない」  番号はどこにもない。  本物の昆虫だ。  恐る恐る手を開きながらもう一度、標本のスケッチの課題より念入りにそのかたちを眺める。  光沢を持った茶色は角度によって黒くも黄色にも見える。一般的なレプリカとさほど変わらない見た目だけれど、生物特有の震えがあった。  僕が呼吸をすると胸が上下するように、触角の先や翅、硬い外殻の内側に隠された器官が震えるのが分かる。手のひらごしに伝わってくる―錯覚かもしれないけれど。  コガネムシみたいな二センチのからだに、頭も、腹も、尻も足も翅もついている。脳や心臓だって。僕らと同じように、生きるために必要な要素が詰まっているのだ。モーターもジャイロも使わない生身はレプリカとの違いが見つけられなくて、それだからこそ本物だろう。  リンカの学生として模範的な感想を述べるなら、やっぱり生命の貴重さが脅かされている、ってところだろう。だけど僕は周りに本物そっくりなレプリカがいることが当たり前だったからだろうか、本物に対する感動よりも、やっと見つけたことそのものに対する達成感のほうがずっと大きかった。  蓋にしていた手を取り払う。昆虫は翅の先を少しだけ引き出して数歩点々と進むと、思い出したかのように飛び立っていった。繁りに繁った植物の中で、あの色は迷彩色になるのだろう。  目を閉じて深呼吸する。すぐに見失った姿を、できるだけ長い時間、思い出せるように。 「……あ」  きみに報告する写真を撮るのを忘れた。  でも、まぁ、いいか。  今度は、きみをここに連れてこよう。
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