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 今日の朝食はおにぎりだ。ユリクトから教わったレシピ通りに作った、炊き込みご飯の残りで作ったもの。具材は少なめに、出汁の味付けも薄くなるよう調整されていて、僕でも難なく食べられる。  人並みに。当たり前のように。  米粒は意識して、くどいくらいたくさん噛む。ご飯が甘いなんてこれまで知らなかった。噛めば噛むほど甘みを感じる。味がついていてもそう感じるのだから、炊きたての白米はどんな味がするんだろう。 「……味、ね」  ものが食べられなくなってから数年間は、味を気にしたことがなかった。  かたい、柔らかい、味が濃い、薄い。それらで構成された僕の味覚の世界は、他と比べてよほど貧相なんだろう。勿体ないとか惜しいとかは思わないけれど、まあ、もう少し豊かにしてやっても良いのかもしれない。  幸い、僕の周りの人達は皆たくさん食べる。美味しいものを少しずつ食べたいと相談すれば、嬉々として色々教えてくれそうだ。  食べられる範囲で、食べられるときに。誰かと比べたって意味はない。これが、僕の速度なんだから。 「……あれ。早いね」  そんなことを考えながら講義室の隅で口を動かしていると、聞き覚えのある声がした。検査の見学で一緒になった四種の先輩だ。 「今日は実験も発表もないから準備もないじゃん。やらかしたの」 「やらかしてないです」  開口一番にそう訊かれるのはどうしてだ。 「そうじゃないんですけど、おはようございます。早起きする用事があって」 「はーん。良いじゃん、早起き。飯が旨いよな」  言いながら先輩は僕の真横に腰掛けた。提げていた布製のトートバッグから、どさどさと半透明の包み紙に入ったものを取り出していく。 「俺も朝ご飯。バイト先、パン屋なんだ。これ残りもん」  尋ねる前に先輩は自分で一つずつ説明してくれた。サンドイッチを作るときに切り落とすパンの耳。シンプルなバターロール。生地に木の実を混ぜ込んだ堅焼きブレッド。真四角のチョコパン。真ん中に乗った果物やジャムを、花束のようにくるくると生地で包んだデニッシュ。切れ目の焼き加減が絶妙なフレンチトースト。三角形の、野菜がどっさり乗ったピザ。どれもそれほど大きくないサイズで可愛らしい。  先輩は袋から出したカフェオレを豪快に煽ると、チョコパンから食べ始めた。 「朝からそんなに食べられるんですか」 「ん。朝が一番食えるよ。お前は、食細い?」  足りる? と、完全に善意による質問に僕は頷きを返す。先輩は特に興味がある訳でもなかったのか、「そ」とだけ言って食事に戻った。  もくもくと、横並びになっておにぎりとパンを頬張っているこの様子は、他の人にはあまり見られたくないかもしれない。  先輩は食べることに集中しているのか、話しかけてはこなかった。途中、ナッツを噛む盛大な咀嚼音や包み紙を開く音がするだけだ。 「そいえばさ」  会話が再開したのは先輩が最後のデニッシュに手を付け始めたあたりだった。この間僕は、小さめのおにぎりを一つ食べ終わっただけだった。 「話したんか。あの後、ピーターと」 「……おかげさまで」  見学した日、きみと会った後は既に先輩も主任も帰っていた。夏期休暇に入ってからの講習では先輩と会うこともなかったし。 「すみませんでした。我儘言って」 「俺は迷惑してないよ。それにあっちも話をしたがってた。……知り合いなんしょ。知り合いのアレを見るのが、んーと、アレだな、うん、好きな奴のことはちゃんと知りたいか」 「へ」  一口でデニッシュの半分にかぶりついた先輩は、それを飲み込むと「え」と反対に訊いてくる。 「懇親会以来、同期が皆言ってんだけど。お前のとこの後輩はピーターとできてるって」 「あいつは誰のものでもないですよ」 「反応するとこ、そこ……?」  先輩は薄く笑う。 「俺はどうでもいいって感じだけどね。……悪いな。嫌だろ、噂されんの。今度言ってたら釘さしとく」 「……好んで噂をたてられたい人なんてそうそういませんよ」 「よっぽどの目立ちたがりでもなきゃな。……自分のものでも他人のものでも、惚れた腫れたは娯楽だしね。でもあの検査を見たら、恋愛トークに混ざる気にはなれんな」  パンを口に運ぶ手を止めて、先輩は遠くを見る目つきをした。  僕は一度しか見ていないけれど、この人は何度も何度も、きみの「検査」を見てきたのかもしれない。自分が所属するプロジェクトの一環だからと完全に割り切っているようには、僕には思えなかった。  テーブルに置かれたボトルの水滴が、徐々に水溜まりに変わっていく。まだ空調が利いていない講義室は蒸し暑い。 「誰にもなんにもされないまんまで、外野の声も気にしないでいい生活がほしいわな」 「あいつ……ピーターのことですか」 「おもに。かつ俺たちも含めて」 「……はい」  ね。と、小首を傾げて先輩は僕の顔を真っすぐ見る。  きみに今すぐ伝えたいと思った。  リンカの人間も、生物科の人も―僕らの世界という小さな枠組みの中でさえも、多種多様な考えがあることを。  僕たちは足元や目の前の多くのものに、たやすく思考をとらわれる。だけど、もっと遠くを―遠くの空を見晴るかす心持ちで、世界を捉え直すことも大切だ。当たり前すぎて、すぐに忘れてしまうからこそ。 「ありがとうございます。って、あいつのことで僕がお礼言うのも変ですけど」 「なに。好きな人間なら変じゃないんじゃないの」  好きな人間?  ヒト? 「好きなものは少ないより多い方が良いっしょ。その方がハッピーじゃん」  手についたクリームを舐めとりながら神妙に言うので、思わず僕は笑ってしまった。
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