2-3

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勘定を済ませると、きみは僕を引っつかんですぐさま外に出た。冷房で冷え切った身体には、ぬるい夜風がむしろ心地よい。 きみがぐいぐい引っ張る力はやけに強く、つんのめりながらも抗えなかった。 書店や雑貨屋が並ぶこの大通りは、学生都市らしく同年代の人の姿が目立つ。僕の町じゃ考えられない光景だ。だけど、僕の町と学生都市との最大の違いは、小売店や学校、公共施設の多さではなく「緑」の多寡にあるだろう。 都市内はとにかく緑が少ない。街路樹もなければプランターに植えられたちょっとした花も生垣もない。街路樹が少ないのは、公共交通機関の動力源として使用されるのが再生可能エネルギーへ置き換わっているために、排気ガスが殆ど排出されないことが大きな要因だ。  それに、道路に木を植えると、根っこで盛り上がったアスファルトを定期的に敷き直すことになってしまう。つまるところ、管理コストが景観よりも優先された結果だ。  大通りを何本か外れて、居酒屋、バーが多い小道へ。道は徐々に薄暗くなっていく。さらに接待やショーが目的の飲食店ばかりが並ぶ道に入っても、きみの足取りは変わらず、前をきっと見て歩いていく。 流石におかしい、どこへ行こうとしているのか、と声を掛けようとしたそのとき、きみは急に方向転換した。 「え―わっ、ちょっ、どうしたんだよ!」  足が止まる。するとそこは、能天気なくらい明るいライトから外れた、繁華街にできた落とし穴みたいな、小さい三角形の公園だった。 遊具は低い滑り台のほか何もない。鋭角部分にごみ集積所が設置されていて、今にも他の部分を食い尽していきそうな印象を受けた。 「―ここなら大丈夫、だよね」 きみは入り口からほど近いところにあった、地面に半分埋まって並んだタイヤの上でバランスを取る。僕と同じ目線だ。  そしていきなりシャツを引きちぎるように脱ぎ捨てた。  きゃしゃな、小さな背中が露わになる。 「は……っぁあ? 何やって」 「あのとき見せたの、覚えてる?」  目を凝らす。飲食店のライトの黄色やオレンジ色がうっすら届いて、きみの姿がまだら模様に浮き上がる。 その中で、一際目立つのは。 「腕を動かすのもね。正直、辛いんだよ」 「―辛いって」  なんだよ、これ。  口に出さない。出せなかったことに、少し安心した。  同情や痛みを感じさせるよりも先に、恐怖心を抱かせる姿。相変わらず肉付きが良くないせいか背骨は若干斜めになっている。そこに連なる、なめらかなカーブを描くはずの肩甲骨のラインは、子どもが初めて描いた絵のように所々がたがたと歪んでいた。骨の大きさが均一ではないのか、それとも表面に現れるほど歪みが進行しているのかは判断できない。左右の骨の高さも違っている。 ずれていることで、全部が歪みきることで、均衡が保たれているかのようだった。 「羽でも生えてくるのかな、腕のある鳥なんていないのにね。そんなの神話でしか知らないよ」 「……どうして見せた」  きみは背中越しに小首を傾げる。 「こういうの苦手だっけ。気分悪くしたり」 「そうじゃなくて! 見せびらかしじゃないだろ? だったら、」 「あのね。エギナルは、リンカでしょ?」 「そうだってさっきも」 「ね。リンカなんでしょ?」  二度繰り返されて、ようやくたどり着く。  僕は答えを知っている。推測の域を出て、確信に近かった。 「…………リンカの主要テーマの一つに、人体構造の進化と変化に関の研究っていうのがある」 「うん。エギナルも参加してるの?」 「秋から選択できる」 「そっか。―ぼくは、その研究の協力者なんだ」 人体構造の進化と変化に関する倫理的研究に関するプロジェクト。 ヒトがヒトとして生きるようになってから、身体は変化をし続けてきた。食べるものや見るもの触れるもの、すなわち外部環境の変化に適応するためだ。大昔の人たちと僕たちのあごの形は全く違っている、なんて話は、ちょっとしたバラエティ番組でも取り上げられるくらい一般的になっている。 進化や変化を経るにつれて生まれる基準も多様になっていく。優劣の線引きはいくらでも出来るものだ―身体機能の良し悪しや、美醜の良し悪しや。 そこに生じる諸問題と、今後どうやって向かい合っていくべきか―というのが、テーマの主たる目的だ。変化するのは身体だけじゃない。僕らの考え方、倫理観も時代や地域によって全く異なってくる。慣習や、宗教や、地理的要因といったものによって。 そんな中、リンカで大きく取り上げられているのは、この地域の医療技術の発展とその倫理的な考察だった。  臓器移植にせよ脳死にせよ、倫理と医療技術が対立してきた過去の事例は探せばいくらでもある。生命倫理を重点的に学んでいなくても、自分が他の生物の命によって生きている人間である以上、この問題は誰にだって関係があるものだ。 それでも無関係を主張する人がいるなら、こう反論することもできるだろうか―初等科や中等科の理科の授業でも、僕たちは動植物の命を使って実験をしていた。飼育活動をする学校もあるという。  命は大事だ、大切に使おう。感謝の心を忘れずに。  そうは言うものの、大事にすれば、感謝をすれば死んでいった生き物は報われるのだろうか。下手な世話でなくなっていった命でさえ、僕らをゆるすのだろうか。僕らは思考を放棄した無知を無邪気と呼び、無罪を獲得しているに過ぎないんじゃないだろうか。  きみがどんな協力をしているのかは分からない。だけど想像は決して良い方向には向かわなかった。  嫌な汗が背中を伝う。暑さのせいじゃなかった。 「飛べるのって、特別で、すぐれている証拠なんだって。このプロジェクトで、ぼく、また、飛べるかもしれない」  かりに有翼を―人体の飛翔を「進化」と考えるのなら。  研究に協力することできみが空を飛べるようになるのなら、僕だって嬉しい。きみの望みが叶うのだから、こんなに嬉しいことはない。 だけど同時に、きみの身体の有様を見て手放しに喜べるやつがいるとは思えなかった。 倫理によって科学を牽制し保証するのではなく、科学を合理化させているんじゃないのか、そのプロジェクトは。知識欲という暴力で、他の懸念をすべて捻じ伏せているんじゃないのか。 何より、きみの身体は、こんなにぼろぼろだ。 「小さいときからここの系列の病院には通ってたんだ。協力もだから……何年か経つ」  きみははだけたシャツを着直して、ボタンを留めつつ振り向いた。動きは硬い。とうか、鈍い。 手伝おうかと聞けば、微笑んで制される。 「人に頼るとできることもできなくなるから。……研究ってさ、のちの世代のためにやるものでしょ? 笑っちゃうよね。きっと、空を飛べるなんて言ってるのはもうぼくだけなのに。ぼくのためだけに『研究』をしてるんだ」 「―でも、協力するのか」 「そうだよ。だってぼく、まだ飛べてないんだ。協力すれば、いつか飛べるようになるかもしれないから」  違う。僕が言いたいのはこんなことじゃない。  なのに、きみに言うべき言葉が見つからない。  体がこんなになってまで抱く願いを肯定しきることなんてできないのに。まだ飛びたいのか、とも、止めにしないか、とも、僕は言えないでいる。 「エギナルにも見せてあげるからね。ぼくが飛ぶとこ」  きみは笑う。不安定な、眉を下げた笑顔だ。  僕の手に、きみの手が滑り込んでくる。随分と冷たいその小ささをぼくは、懐かしいとは思わなかった。  きみと落下していった夢。今でも反芻する、レプリカに追われる夢の中の温度と同じだと思った。
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