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僕の学校自体も郊外にあるけれど、生物科の講義棟は特に自然豊かな場所に設立されていることで他の学科でも有名だ。管理や整備が行き届いておらず、ほっぽって置かれているだけだと学生たちは口を揃えて言うけれど。 春は花粉に、夏は太陽光に、秋は大量の落ち葉に、冬は積雪に悩まされるというのは、入学初年に体験済みだ。ただ、それらを加味しても有り余るメリットがある。  講義棟の裏の緩い斜面を登って、一般道を横断する。すると向こう側には整備された遊歩道が伸びている。そこをこれまた真っ直ぐ行けば、それなりの大きさの雑木林が広がっているのだ。最低限の整備はされているものの、正直なところ、町の森林公園よりも鬱蒼としていて足を踏み入れたくない雰囲気が出ている。 つまり昆虫が見つかりそうな場所、ってことだ。  雑木林には許可を取れば誰でも出入りできるから、知る人ぞ知るスポットにもなっているらしい。昆虫の情報交換サイトとやらにも何度か穴場として紹介されていた。  夏とはいえ、朝日もまだ昇りきらない早朝に起きている人間もそういない。現に賃貸を出てここまで来るのに、ランニングをしている人にさえ会わなかった。起きているとすれば―捕食者が起き出す前に行動を始める、希少な生き物たちだ。  苔とカビで真っ黒になった看板に見送られながら敷地へ入る。入り口は特に足場が悪い。看板と同じ状態の敷板を飛び石のように渡る。お飾り程度の両脇の手すりに絡まっている蔓が朝露で濡れていた。今日も晴れるのだろうか。  立ち止まり、手すりと同じ目線になるよう腰をかがめる。こういう場所にも虫が集まる、と何かで読んでから実践している観察だ。あいにく今日は、枯れた花の軸や枝葉の屑しかくっ付いていないみたいだ― 「……あ」  小指の先ほどもない羽虫が裏側に止まっている。ほこりか何かと見間違えてしまいそうだ。 空気の振動で驚かせてしまうかもしれないので、ゆっくりと上着のポケットから端末を取り出す。無音カメラで二枚。それが限界だった。羽虫はあっという間に飛び立ち、見えなくなってしまった。  端末で画像を確認する。最低限、ピントが合っていれば合格だ。ちゃんと撮ろうと思ったら本格的なカメラでないといけないだろう。  再びしゃがみ込んで他に目ぼしい被写体がないか探していると、背後から声をかけられた。 「今日も来たの。精が出るねぇ」 声に続いて現れた姿は見知ったものだった。両手が空くようにリュックを背負って、ジャージ素材の上着を着ている男性、ユンさんだ。僕より頭一つ大きく手足も長く、服はいつも、袖も丈も足りていない。 「おはようございます。ユンさんも早いですね」  彼は生物科の先輩で植物を専門に研究をしている。らしい。らしいというのは、この人は一種と四種をフラフラと行き来しているからだ。  生物科の一種から四種という分類の選択は、「そのときそのときの研究したいものに応じて」変更が都度できるようになっている。こんな風に自由なのは生物科だけだ。 とは言ってもこの先輩は実に神出鬼没で、ちゃんと話すようになったのは僕がこの雑木林に来るようになってからだった。 「そろそろアヤメ科の子たちのステージが始まる時期だから、頻繁に来て顔を覚えてもらわないとね」 「そう……ですね」 「エギナル君も来る? ステージ会場」 「いいです。ユンさんだけで楽しんできてください」  話してみると面白いし、なにかと面倒を見られている自覚もあるけれど、この人の独特の感性には置いてきぼりにされがちだ。所属が決定したときにさんざん生物科は変人揃いだ、変態の巣窟だと噂を聞かされたけど、大体がユンさんのせいな気もする。 「そうかい。今日はどのあたりまで行くのかな? だんだんあちこちの葉っぱも伸びてきてるから、気を付けてね。触るとかぶれる子もいるし」 「はい。あとは、勝手にものを持ち帰らないように、ですね」 「そうそう! ちゃんと覚えてるのは流石だねぇ」 「はい……」  校外学習で雑木林へやって来る子どもたち向けのボランティアをしているからか、ユンさんは時々……じゃない、頻繁に、僕をやたらと低年齢扱いしてくる。それに慣れてきているあたり、僕も相当魔窟の住人染みてきているのだろうか。 「にしても、昆虫ね」  ユンさんは黒や緑の実を付けた広葉樹の写真を撮りながら呟く。 「学生都市よりもっと辺鄙なとこの方が多そうだけども」 「そうでもないんじゃないですか。自然……ナマの植物は田舎のほうがそりゃ多いですけど、昆虫となると」 「そう? あー、そっか。元の個体の多寡によって、補填されるレプリカの数も違うか。成程ね。そもそもホンモノが減ってなきゃニセモノも増えないってか」  雑木林の入り口は一本道だ。ステージ会場……すなわち湿地帯ゾーンと僕が目指す広葉樹林帯域で分かれるまで、おのずとユンさんと並んで進むことになる。 「それに、環境保全運動や再生活動に感心があるのは田舎より街なかですよ」 「化石燃料への依存度も違うもんね! 未だに切り替えが終わってない地方の交通機関って意外と多いよねえ。この前の研究授業がその話題だったんだ、私らだけでフィールドワークに行ったの」 「それ、僕でもアーカイブとか見られます?」 「多分。何、エギナル君は将来エネルギー系に進む感じ?」 「……そういう訳では」  自分の両親を始め、身の回りのものごとに繋がっている話題だからとっつきやすいし、期末試験代わりのレポートも書きやすそうだと説明するのは面倒なので省く。 「進路とかは全然。ユンさんはそっち方面なんですか」 「だねぇ。昆虫や爬虫類を研究対象にしようと思ったこともあったんだけど、植物の方が好きだし。光合成を研究するうち、化石燃料に頼らないエネルギー産業に興味が出て……なんて最もらしい理由をつけて就職を有利にしたい魂胆もある」 「繋がってるんですね」 「というより無理やり繋げてるんだよ。私は、自分が興味を持った分野で食い扶持を稼げたら幸せって思うタイプの人間さ」 「そういう……」  就職か。  全く考えたことがなかったし、考えないようにしている部分があった―これから先、働くことなんて。  僕が単にのほほんとしているだけ、いわゆる学生気分なのは否定できないにしても。 「ところで、どういうタイプの昆虫を探してるんだっけ」 「特にこだわりはないんですけど」  探してはいるけれど、マニア的な知識は持っていない。  きみが見たがったのはきっと自分の羽で自由に飛べる虫だから、地面を縦横無尽に走り回る節足動物より甲虫の方が良い、と考えている程度だ。 「雑木林と言えばカブトムシ! ってのが昔の定石だったらしい。何か見かけたら教えたげるよ」 「そんな、いいですよ」 「どっちみちここに来るんだからついでさ。それに嬉しいんだ、趣味でここに来る同年代の人なんて殆どいないから」  犬にも猫にも似た笑い顔でユンさんは言う。 「二種の連中がやってるバイトの手伝いを思い出すなぁ」 「バイト?」 「知らない? ナマの動植物の違法取引を通報するバイトだよ」 「……そんなのがあるんですか?」  ユンさんによると、生物科の講師と縁がある研究家や活動家から依頼されるものだという。二種は微生物からヒトまで、動物であれば何でも対象にしている。小遣いの稼ぎ方も独特なのか、この学科は。 「私も何度かお手伝いしてね。ちょっと検索すれば星の数ほどのサイトが出てくるのさ。で、君と同い年くらいの若い子がけっこう捕まるわけだ。出品者としても落札者としても」  ユンさんの年齢はいくつなんだろうと思いつつ頷く。 「状態が良い昆虫標本はかなり良い値がつく。植物もかな。何と言うか……品種改良されたものは、見せ方が悪趣味なものが多かったなぁ。人気どころはチョウとかトンボ。儲けたりチヤホヤされたい人間にとって、そうした生物は愛すべき仲間ではなくて自己実現のツールさ」 「ビジネス……」 「そ。私たちが学ぶのだってそりゃあビジネスの一環だけど、最低限法とモラルは守って生きていきたいでしょう、人間なら」 「……ユンさんは、好きな昆虫とかいるんですか」 「好き、ね。その言葉の意図目的によるけれども」  私はセミが好きだよ、と足元の紙コップらしきごみを拾いながら言う。 「あの音が好きなんだ。数回しか聞いたことはないし、それだってレプリカの音声だったかもしれない。ま、どっちにしたってやかましいとこが好き。生きてる感じがするから」 「レプリカも生きてる、に入ります?」 「ゾンビでなきゃ、レプリカもオリジナルも大差ないでしょう。どんな生き物にしたって死んでるより生きてる方が良い。いくら美しくたって標本も所詮死体さ、私にとっては」 「……なるほど」 わりと極端な意見だけど、的を得ているように思えるのも確かだ。 「セミは、地中でじっと待ってる時間よりも、成虫になって飛び回る時間の方が短いんだろう? だけどそのことを可哀想だとか、何のための一生なのかとか言うのは所詮、ヒトの尺度で物申しているだけなんだろうねぇ」  一本道が三叉路に変わった。僕はまっすぐ、ユンさんは左側だ。  「何のため、だなんて、生きるために決まってるのに」
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