2-5

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/40ページ

2-5

 リンカの主任はおじさんというよりお兄さんと言った方が近い風采で、女子学生からの人気が高いらしい。あくまでも見た目がお兄さんなだけで、実年齢を誰も聞こうとはしないが。  眉目秀麗、気さくな人柄とくれば僕もその人気にはやや納得するが、人気者はすなわち尊敬できる人である、なんて方程式は世界中のどこを探しても存在しない。 ちんぷんかんぷんな課題を出し、必死に解いてきた回答を持って出席した次の時間には「ごめーんあれはまだ教えてないとこだったー」と軽く謝って流そうとするし、公共スペースでは控えているらしいが自室では他の部屋にまで煙が届くほどのヘビースモーカーとの噂もある。反面教師に間違いなく名を連ねるであろう人を尊敬したくはない。金を積まれてもしたくない。  そんな人から僕ら生物科の下っ端に課せられた今学期最後の課題は掃除だった。  掃除とは、部屋を綺麗に片付けることだ。  夏休み明けを前に転入者が増える予定で、学生用のスペースを確保するために急遽掃除が必要になった、ということらしい。 所属する学生の人数を把握していれば急遽なんてことにはならないだろうし、夏期講習直前の作業にもならなかったんじゃないかと、きっと呼び出された全員が思っていただろう。いの一番に掃除を頼まれた僕たちの学年、つまり最年少組には運がなかったとしか言いようがない。  何年溜めればこんなことになるのか、窓際の卓上ライトには毛布のような埃が積もっている。机の上に出したままの大量の本を片付けないとブラインドが上げられず、その前に本をしまうべき本棚が雪崩を起こしそうになっているのを阻止しないと、ここで生き埋めになってしまいそうだった。向かい合わせで並んだ学生用の机の隙間から出てきた得体の知れない黒い塊は、主任がずっと探していた手袋だった。  手袋?  この、カチカチに固まっているボールが?  そんなこんなで様々なひと悶着がひと段落した時点で、安全な廊下に椅子を持ち出して全員で休憩をすることになった。おやつタイムだ。 僕はカップスープをちびちびと飲む。汗だくになったシャツで顔を拭いながら、同期は「なんで熱いのなんか飲んでんだよ」と引き気味の顔をしていたけれど、清涼飲料水より消化に良い気がした。塩分と水分を同時にとれるし。柔らかなコンソメ味はふんわりと心地良い。  同じように廊下に避難してきた先輩たちと次の「発掘場所」を話していると、階段を上がってくる白い姿が見えた。僕らのまとう埃の白とは違う白色の正体は、ノリがしっかりきいた清潔な白衣姿の主任だった。 「どーもね、みんなお疲れー。はい、差し入れ」  提げていたビニール袋から差し出されたのは大袋入りのチョコレート菓子だ。それを我先にと取り合っているのを目の端で見、飲み干したスープのカップを持って立ち上がる。 「あれ? エギナルくんもう休憩終わり? チョコは?」 「遠慮しておきます。休憩……ええと、主任。時間があれば、ちょっと」 「んー? どうぞー」  手招きをされるままに主任の部屋へ向かう。僕たちが使っている部屋のはす向かいの職員用の部屋は、掃除の対象になっていなかった。  指認証でロックを解除すると、 「……嘘だろ……」 「あっは、ごめんごめん! 換気しようかー」 室内にはもうもうと紫煙が充満していて吐き気を覚えるほどだった。 思わず咳き込んだ僕を無視して、主任は積み上げられている段ボールを避けつつ唯一片付いているデスク周りにたどり着くとソファを勧めてきた。二人掛けの座面に積み上げられたファイルを崩してしまいそうだったので、恐る恐る端っこに腰掛ける。ちなみに窓の前にも雑誌が山積みになっていたので換気は早々に諦められていた。年季の入った換気扇が、申し訳程度にカラカラと音をたてている。  机上の真っ赤なモニターの電源を入れながら主任は、 「ピーターのことかな?」  それまでの軽薄な雰囲気を一変させ、切り込むように囁く。 「……誰、ですか」 「機械工学科のあの子。仲良しなんだってねぇ」  あの、モトラド工場の―と主任はにっこりする。 「幼馴染とか?」 「いえ、中等部のときに同じ学校だっただけで」 「恋人?」 「誤解を招くようなことは言わないでください」 「ふーん? 違うの。なあんだつまらないなぁ……ってヤだな、睨むなよ。遊んでごめんって」  人で遊んだ自覚はあったらしい。 「ピーターって呼ばれてるんだよ、僕らの間じゃ。仮名だね。っていうか附属病院の患者さんだし、長いお付き合いだ」 「プライバシーは守ってくださいよ」 「聞いてないの? そう。遅かれ早かれだろ。エギナルくんも読んだことがあるんじゃない? そのふてぶてしさを身に付ける前の純真無垢な少年時代にね。空を飛ぶ永遠の子供の冒険物語。そこから取って、ピーター」 「悪趣味なネーミングだ」 「付けたのはこっちじゃない。あの子が選んだんだ」  夢と希望に満ちた子供は誰だって魔法の粉で飛べるという、有名な児童文学の主人公。  その名前を自分につけるなんて。まったく悪趣味で、あいつらしい。 「徹頭徹尾似合うじゃないか。翼がないのに飛ぶってんだもの」  主任はモニターの群れの間から顔をのぞかせる。 「キミと仲良くしてるってのは准教授が喋っててね。どっかで見かけたらしい。ヤな野次馬だね。……身体や治療のことは?」  リンカの研究の協力者になっていると―きみから教えてもらったことを、そのまま告げる。詳しい内容までは知らないと付け加えると、主任は大きく二、三度頷いた。 「で? 何を訊きたいって」 「……二つ、質問があります」 「その臆さない探究心と明確な問題提起は素晴らしい。どうぞ?」  芝居がかった仕草で手の平を差し向けられる。少し腹立たしかったけれど、僕はその手に従った。 「まず一つ目ですけど。あいつのからだは治るのか、です。長いこと治療しているはずで、だけどまた悪化しているって聞きました。リンカのプロジェクトがあいつにとって良いものになっているのかどうか、今の治療が本当に効いているのかを知りたい」  主任は、目を閉じて天井を仰いでいる。 「……ふたつめは?」 「背中が痛む理由が空を飛びたいという気持ちにあるのだったら、矛盾が起きませんか」  これは、僕が最も訊きたいことだった。一つ目の質問がおまけに思えるくらい。 「症状の改善をあいつも望んでます。一方で、プロジェクトが進化や変化を扱うのであれば、あいつの飛ぶ能力やその可能性も重要視される。必要とされる飛ばないピーターは必要ないから。……痛みがあるから飛行が可能なのだとしたら。つまり、痛みが消えれば飛ぶ力もなくなってしまうとしたら。痛みは消えない方が好都合って、そんな風に考える人もいるんじゃないですか。もしそうなら、プロジェクトに協力する限り、あいつから痛みは消えない」 「……」 「……」 「……なるほどね。飛行を人間の進化の証左と捉え、その能力、可能性のトリガーとなっているであろう痛みを保存する向きがあるのでは、と。質問というより疑念か」  回りくどい答案を直されたようで居心地が悪かったけれど一応頷いた。 「ひとつめの質問から答えよう。身体を治す、ね……手術でもすれば絶対に治るような症状だったら話は早いがしかし」  意外なことに、声に感情は乗っていなかった。天井から落ちてきた視線が、僕を突きさす。 「前例がないから難しい。でもそれだけじゃない。あの子の身体が手術に耐えうる体力を備えているかどうか。正直、かなり判断が難しいよ……それ以外にもね。あんまし詳しくは言えないけど」 「―本当に?」 「しょーもない嘘なんかつくかい。……だからこそ、取れる策は限られてくる。こんな研究やってるとたまに忘れちゃうんだけどさ。医学……科学は万能じゃない。科学だって前時代的なカルト信仰と何ら変わらないんだ。確実なものなんて何一つ無い。……治す薬を創るためのサンプル供与者も、できた薬を使ったり治療法を試すのもあの子だ。それだけでも、この特殊性は分かろうというものだろう」  主任はだらしなく座っていた体勢を正し、睨みつける勢いの眼力を向けた。僕は背筋を伸ばして、それを真正面から受け止める。 「こっちだって率先してあの子の体を傷つけている訳じゃない。傷つけたいとも思ってない。これは研究者としてではなくて医者としての意見だけど、もしも治療をしてこなかったら今頃、立って歩くこともままならなかったはずだ」  分かっている。そんなこと、言われなくても。  僕は縋りたいだけだ。知りたくなかった事実―現実を、誰かのせいにしたくて、何とかしてほしいとさえ思っている。現実に甘えている。認めたくないけれど、子どもが振りかざす論理のままで。  下唇を噛み締める。薄くなっていた部分に、右の犬歯が刺さった。 「そしてふたつめの解答ね。―少なくとも僕は、そんなことを微塵も考えちゃいないよ」  教え諭すような響きも含めて主任は言う。 「僕は教育者で医者で、あの子は患者だ。痛くて泣いてる子がいるのに、どうしてそのまま放っておけるんだい。まぁあの子は泣かないけど」 「そう……ですね」 「うん。比喩だ。しかし―キミもよく聞いてきたね」  主任はわずかに眉を下げた。 「向こう見ずは若人の特権か。―今のはあくまでも僕個人の意見だよ。他の学科や他の研究施設のお偉いさん方がどう関わっているか、僕にも全容は知れない。キミが言うように、あの子が良くならんように願ってる奴も中にはいるかもな。ま、そんな最低な思考回路を持ってるクソ野郎は見つけ次第即刻プロジェクトから永久追放する気持ちでいるけど。既に何度か実行してるし」 「頼りがいがありますね……」 「そういう科学者の風上にも置けない連中は、キミの反面教師にしてもらうってことで! とにかくだ」  主任は膝を叩いて、声の表情を切り替える。無理やり話をまとめられた気がしなくもない。  だけど僕は主任に反駁できる意見を、まだ― 「ぶっちゃけた話、このプロジェクトがポシャったら僕ら研究員、全員無職に向かって一歩前進だからね。頑張らないと」 「―はあ?」 「いやあ、ほんとほんと」  笑っているけれど、この人、とんでもないことを言わなかったか。 「ただでさえ予算の振り分けが少ないのにお金かかるんだよー。前任者がどんな経緯でプロジェクトを立ち上げたのかは知らないけど―今更? これ僕が考えたんじゃないよ、こんなの―なのに変に期待されてるし。学長からのプレッシャーも結構キツいんだわ」  明らかにお茶目な風に言おうとしていたけれど、実際的な問題としてものすごく重い話だろ。  もしかすると僕はブラックな進路選択をしてしまったのかもしれない。かもしれないというか、確実にそうだ。 きみのことであっても、きみに直接関係ないところで様々な思惑が働いている、ということか。 「お話できて楽しかったよ、エギナルくん。そうだな、個人的に質問をしたからといって評点を上げたりはしないけど、おまけはあるよ」  デスクの脇で地層になっていた本とプリントのてっぺんあたりを漁って、主任は一枚のプリントを手渡してくる。 立ち上がって受け取ると、四隅どころか全体的にしわしわのぐちゃぐちゃになっていた。 「配属科が決まった時点で渡さないとだったんだけど、忙しくて抜けてたっぽい」 「おまけでも何でもないじゃないですか」 「細かいことは気にしちゃいけないって。実際に加入できるのは休みが明けての秋からだし、強制でもない。自主性を尊重しますよん」  参加申込書。  人体構造の進化と変化をテーマとしたプロジェクト。  プリントの一番上に書かれたその太字がゆらゆらと踊っているように見えた。 「最近じゃ生物科も人気あんまないしねぇ。特に四種は新しいのに、雑多すぎて訳分からんとか言われて既に閑古鳥だよ。だからプロジェクトも人手不足なんですなぁ。……大変だけど、良い経験になる」 「……あんな話をした後に渡すんですか」 「良いタイミングだろ。それともピーターの治療に加担するのは気が乗らなかい」 「そんな言い方―」  加担? 気が乗らない?  頭に血がのぼる。両手の平を爪が食い込むくらい握り込んだ。  あいつにそんな言葉を使うなよ、と声を荒げるのはたやすい。だけど主任の敢えての揶揄に引っ掛かるのも、八つ当たりをするのもナンセンスだ。 「あとね、コレ。特別招待券。あげる」  へらりとした笑い顔を引っこめて、主任は日程を書き込んだ付箋のメモをチラシにぺたりと貼る。 「あの子の検査日だよ」と、わざわざじっとりと目を合わせてきた。 「時間もあることだし。迷うなら見てから決めたら」 「迷う……と、いうか」 「迷ってないの? 僕もキミも聖人じゃあないんだから、内心、好奇心が湧いてるんじゃないの」 「―何にです」 「自分に訊いてみなよ。迷っただろ? 見に行くか行かないか。その迷いは一体何に起因するものなのかな? 知識欲や好奇心が旺盛なことは常に善とは限らないよ。猫をも殺す、とも言う。リンカの学生ならこの辺も習ったろ」 「そりゃあ―」  僕が、なぜ一も二もなく参加を決めないのか、なんて。 「―あなたが、胡散臭い雰囲気で話すからです」 「っふは、そうかい。じゃあこれもどうぞ」 更に主任は細長い紙切れを僕に握らせる。二枚ある、黄緑色の紙だ……何かのチケットのようだ。 「ゴミの押しつけですか」 「ひどいな、まだ有効だよ」  主任は僕の手の上でチケットを広げ直した。進化の足跡展、と、白抜きの大きな文字が目を引くデザインだ。 「生物科の先輩達も協力した企画展があるんだ。優待券が捌ききれないからあげる」  友達とでも行ってきたら、と、わざとらしく付け加えて。 「是非に。面白いと思うよん」  リンカの学生として。  もしくは、ピーターを知る人間の一人として。  どちらともとれる言葉に、僕は咄嗟の返しを紡げない。 「…………検討します。すみません、失礼します」  部屋を出ると既に他の皆は掃除を再開していた。慌てて持ち場に戻ろうとすると、先輩から真っ黒な雑巾を手渡される。 「エギはこれな。急げよ、懇親会に遅れちゃうぞ」 「あ―うん、済みません」  今日はそういえば、このまま懇親会があるんだっけ。夏休みに入る前の恒例行事とかいう。去年は欠席したんだった。  何かにつけて飲み食いできる、したがる人達の気持ちは分からないけれど、参加者に加えられている手前行くしかない。後から色々言われるより、数時間座っていたほうがまだましだ。  さっき手袋を発掘した部屋から隣の部屋へ机を移動させて、今日の作業はあらかた終わりらしい。 「静かに動かせよー」と、パイプ椅子を五、六脚運んでいた先輩は通路を挟んだ部屋を指差す。 「一応ここ、居るから。生き物。驚かしちゃかわいそうだ」  ここ、とは、主に二種が使う実験用の生物室だ。野生のものではなく、研究目的で工場生産されているマーカーが飼育されている。使うのは二種と三種の人たちだから、僕はその生物たちを目にしたことさえなかった。  生物科棟の入り口脇には小さな花壇があり、その奥には小さな慰霊碑もあることは所属初日に教えてもらっていた。その日以来、訪れることもなかったけれど。掃除が終わったらそこへ寄ろう。  何となく、そう思った。
/40ページ

最初のコメントを投稿しよう!