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「―ということで、やはり基本に立ち返って実際に経験がある人からお話を聞いて……」
「だから今時ハウス栽培ならともかく露地でやってる人なんてそうそう居ないんですって。採算取れないから。しかも季節! 季節が全然違う!」
「こっちが十四日目で、こっちが二十一日目。ね、上手く撮れてるだろ」
「うわ本当だ。今度撮り方教えてくれない?」
「勿論。その代わり来週の実習だけどさ……」
帰りたい。
繁華街の中でもちょっと良い部類に入る居酒屋だとかシメのご飯が美味しいだとか全部どうでもよくなっていた。
取り分けられた料理を次々に脇へ押しやる。ただでさえ少ない四種の面々は各テーブルに散り散りになっているし、目の前では名前も知らない先輩たちが何やら熱く語りあっている。最初のうちはこちらを気遣ってか話を振ってくれていたけど、いざアルコールが入ると同時にスイッチも入ってしまったらしい。白湯をちびちび飲む僕など見えていないかのように、各々の研究分野についての議論は白熱していくばかりだ。
酒の勢いに押されてか、和気あいあいとした会話は止まない。だけど僕はそろそろ飽きがきていた。応酬に圧倒されて、ニコニコ相槌を打つ元気すらない。
「エギナル君、暇なら注文入れてくれる? あとそこのソースも取って」
「……どうぞ。次は何を呑むんですか」
「カクテル。炭酸ならどれでも。ビール以外」
などと、手と口を動かしながらも唯一話しかけてくるのはユンさんだった。
ユンさんは僕の隣に陣取ると、次々と山をなす料理の消費も買って出てくれた。「食べたばかりでお腹が空いていない」という言い訳を疑わないでくれたのはありがたかった。ありがたかったけれど、良い人というのは果たして人を顎で使うものなのかどうか。
「これもどうぞ。この天ぷらっぽいの」
咀嚼したままユンさんはこくりと頷く。「ユンは今日も良い食いっぷりだねぇ」と向かい側に座った先輩の一人が苦笑した。
「ごめんね、後輩くん。こっちだけで盛り上がっちゃって」
「いえ、全然……」
「会話しよう会話! せっかくのこういう席なんだしさ!」
別の先輩が体ごと割り込んでくる。酔いで紅潮した頬が照明でてらてらと光っていた。
「ってあれ、君、四種の? この前、可愛い子と歩いてた?」
「え? あ、あー……」
もしかしてきみのことか。
空いたコマや休み時間に会うこともあるので、准教授と同じくどこかで見ていたのだろう。きみは結構目立つみたいだし。
しかし主任といい、どうして皆、話題の振り方が同じなんだ。
「どっかで見たことあるなーと思ってたけど、そっか、うちの後輩だったのか。中々隅に置けないね」
何が隅に置けないのか謎だったものの、とりあえず「はぁ」と返事はしておく。
そうだ、この先輩も―他の先輩でも良いんだけど―くだんのプロジェクトに参加しているだろうか。だとすれば、何か話を聞いて―
「出身が同じとか? あの子、生物科じゃないだろ。どこで出会ったの」
「ではない、というか、まあ、知り合いなので合ってるけど合ってなくて……え? ピーターですよ。先輩方もご存じでしょう」
途端、先輩はきょとんとした顔になる。隣で相槌を打っていた先輩もだ。
相変わらずもぐもぐ食べているユンさんの、皿と箸がぶつかる音が大きく聞こえた。
「……そうなんだ?」
「は?」
「ほらオレら、協力してくれる人たちと会ったことも見たこともないから」
雑用係だよ、と彼は言う。周りも否定しないので、どうやらその認識は一致しているようだった。
「手伝いって言っても検査の準備とかデータの入力、検証とかだし」
「そう。プロジェクトのメンバーって言っても……話は教授から聞いたんだよね? 学生にできる作業なんて限られてんだよ」
「理論研究するなら役立てられるかもしれないけど、分野によっちゃぁ、なあ」
「そのせいで万年人手不足なんだろ。仕方ないっちゃ仕方なくね? 得るもんが無いっつか」
「やりがいもあんまりないし……」
何だ、それ。
「でもエギナル君の知人なら別かなー」
「一回だけ! 一回でいいから私らも会ってみたいな。その、ピーターに。すっごい可愛いって話はよく聞くし」
何だそれ。
あいつは数値でもデータの集合体でもない。ひとりの人間だ。
僕が一人で突っ走ってただけなのか。楽観的すぎたのか? 生身のあいつを知らない人にしてみれば、プロジェクトへの参加だって自分の研究の妨げになるお荷物でしかないと、どうして気付かなかった。
どうして勝手に惨めな気持ちになって、悔しくなっているんだ。
「……いえ。あいつも、自分の勉強で忙しいと思うので」
「とか言って、」
一人がにっこり微笑みながら続ける。
「ホントは独り占めしたいんじゃない。私達に会わせるのも勿体ないってこと?」
「いや、違―」
「あーなるほど、そういうことだったか。やっぱりそういう……失礼なこと言っちゃったなぁ」
「あの」
「んだよ、恋人だってんなら最初からそう言ってくれよな。邪魔しないからさ」
「付き合ってどれくらいになんの?」
「それとも他に付き合ってる子、いるんだっけ」
「いいえ……」
「え、どういう子が好きなのー?」
「好みのタイプ、生物科にいる?」
「好きとか嫌いとか、そういう……あまり、気にしないというか、じゃなくて」
「あっ、そういう感じか。でもきっとまだ良い人に会えてないだけだって」
「そうそう。そのうちこの人だ! って思える人に出会えるよ」
何の話をしているのか、理解ができないままぐるぐると言葉が渦になって襲い掛かってくる。
リンカのプロジェクトの、きみの治療の、協力している、きみのための、なのにどうしてこの人たちは笑っているんだろう。雑用だとしてもそれはきみのためにやれることで、手助けしたくて、痛いや辛いなんて聞きたくないなんてのは僕だけで、他の人からすれば何のこともなくて、恋人、付き合って、良い人、そのうち、何の話をしているんだ、何の、
「―やばい。呑み過ぎた」
だん、とジョッキを勢いよくテーブルに置いたのはユンさんだった。
箸も叩きつけるように置いて、僕の腕を強く掴み立ち上がらせる。
「ごめんよ、ちょっと風に当たってくる。まだ時間大丈夫だよね」
「え? あっあぁ、多分……」
「了解。こいつもちょっと借りてく。おたくらも飲むだけじゃなくってちゃんと食べなね。皿減ってないよ。作ってくれた人に失礼だ」
一方的に会話を切り、ユンさんは僕を引きずるように出入口へ向かう。自分で歩けると申し出ても、腕を外してくれなかった。
「ちょっと、離してください」
「無理」
「僕戻りますんで」
「やめときな。どっちかっつうと君のほうが具合悪そうだもの」
「え」
「無自覚ときたか」
「僕ですか?」
「他に誰がいるんだよ、僕ですよ。顔、真っ青だよ」
自動ドアを出てすぐ隣のベンチに腰掛ける。入店したときとはうって変わって、目の前の大通りは通行人でひしめいていた。ハウリングしているみたいな喧騒の中にはさっきよりも、チラシや何かを配る人たちが増えていた。
ビル風が気持ち良い。やっぱり具合が悪かったのか。
「……こういう話、苦手なら無理しちゃいけない」
気だるげに端末を弄りながら、ユンさんは言葉を投げてくる。
こういう話とは。まるで見当がつけられないでいると、ユンさんの目だけがこちらを見た。
「誰が誰を好きとか嫌いとか愛してるとか憎んでるとか何とか、そういう話」
「別……に、苦手ってほどじゃないです。興味はないけど、ありがちな話なんでしょうこういう場では」
「よくある話を聞くたびに自分が俎上にのせられるたびに、君はじゃあ吐きそうになるの」
「それとこれとは―」
「別? 本当に? 本当に関係ないなら私はお節介かな」
端末がしまわれる。ユンさんはベンチに深く座り直して、声を一段低くした。
「少なくとも私は苦手だし、ちょっと怖くもある。未知のものに対する恐怖心さ」
「……未知?」
「あの人たちと私とで、好きがたぶん違うから」
お気に入りの食べ物や色を伝える軽さと開き直った笑い顔で、ユンさんは言う。
「好きって色々あるでしょ。私の好きは、付き合うとかお互いに同じ気持ちでいるとかやることやって、とかじゃないんだわ」
抽象的で掴みどころはなくても、さっきの会話とは正反対の言葉だった。押し付けがましさが一切ない、涼やかな口振りだ。
「あ、別に、君がどうなのかを言って欲しいわけじゃないから、念のため。こんな奴もいるんだしそんな真っ青になるなら止しなよ、ってな年長者からのアドバイス」
「そんなの、」
「分からないって言うなら私は傍目八目という素敵な言葉を教えよう」
「……」
「まったく、ここに鏡がないのが惜しい限りだなぁ」
かち、かちという聞き慣れない音に伏せた目を上げると、ユンさんはクラシックな細めの紙製の煙草を右手に挿していた。今時、電子型すらほとんど見かけなくなっているのに。主任は別だけど。
「あ、ごめん、煙そっち行ってる?」
「いえ……。意外ですね。吸うんですか」
「ふっふ、格好良いでしょ。バニラの香りもお洒落でしょう」
「かっこつけるために嬉々として金を払って肺を汚す感覚が分からないです」
「何を言う、お洒落は取捨選択の上に成り立つものだよ」
「真っ先に健康を捨てに行くのはちょっと」
「良いじゃないか私が良いと思っているんだから。それにこれも植物由来だからね。私にぴったりだ」
「……そう、ですか」
「どんなハッパも私は好きなんだ」
「どうしてわざわざ誤解を招く言い方にしたんですか?」
顔に出ていないだけで、ユンさんもけっこう酔っているのかもしれなかった。
「植物が好きなのは本当。じゃあここで質問だ。……エギナル君がもし、私のように植物が好きだったとして。好きっていうこの気持ちに別の名前を付けろと言われたら、どんな名前にする?」
「別の……? 興味……好奇心、とか、ですかね」
「そうだね。私も同じような単語を選ぶかな。ここで恋愛や家族愛を想起する人間はあまり居ない」
「……おそらく」
「うん。私の世界では皆が植物だ、って言えばイメージもつくかな? エギナル君も生物科の皆も赤の他人も、私にとっては植物と同じで、植物が同じなんだ」
この人が植物へ向ける感情は、知識欲や好奇心でしかない。
生きていても生きていなくても、ペットを家族同然だと思っている人は多いらしいけれど、ユンさんにとっての植物は、決してそうではない。
と同時に、人間も。ユンさんの前では、植物に等しいということか。
好きを―好奇心を、情、という型枠に入れ込むのは難しいだろう。
恋愛、という名前のついた型枠は、なおさら。
ぱき、と。
僕の中で、
何かが嵌まる音がした。
胃がぎゅうと捩れて、身体に入っているもの全てが絞られるように上へ上へと押し出される感覚が、明確な気持ち悪さになって全身に広がっていく。
「……あの……」
「うん。どした、また吐きそうなツラになってるけど。時間差?」
「と、いうか……すごい、全部がぐるぐるしてて……」
気持ち悪さが胸の奥に収斂してずしりと重くなる。水を吸った服を脱がずに動こうとしているみたいに、手足もぎちぎちになっていく。
一度経験したことがある重さだった。
あの花火の日。
きみと一緒に飛びそこなった日が、胸の中心に居座っている。
途端、視界が一段階暗くなったように感じた。手足どころか瞼まで重い。次こそ本当に色々と出てきそうで、上半身を曲げた姿勢で顔を上げられなくなる。
ユンさんが肩を軽く揺すってくるので、片手を上げて問題ない、とジェスチャーをすると、「飲み物もらってくるわ」と彼は立ち上がったようだった。
お菓子のような甘い残り香の中で、葉を一枚ずつ毟るように、僕は記憶を開く。
夏の匂いが、葉の隙間から漏れ出してくる。うだるような暑さの校庭も、草いきれにまみれた森林公園も、花火の色も夕焼けの色もきみの手が冷たかったことも、数日前の出来事のように思い出せる。奇しくも今の僕も、夏休みに入ろうとしているところだ。
あの日は、僕がきみとの差異を明確に認識した日で―
「はいお茶! 少しでも飲んでた方が良いよ」
隣に人影が落ちる。覗き込んでくるユンさんからコップを受け取り、お茶を口に含んだ。
つもりだった。
「お、お茶じゃなくないですか、これ」
「嘘、水かお茶って頼んだのに」
ユンさんは引ったくるようにコップを取る。茶色い液体を舐めるや否や片眉を上げて、
「ごめ、アルコールだね。アレルギーある?」
「いいえ……」
そもそも飲酒していい年齢にまだ足りない。
というか酒って不味くないか。
驚くほど口に合わない。僕の味覚がガキすぎるのか。そもそも苦いってこの味のことを言うんだっけ。舌に味が残る感じが気持ち悪い。普段ものをあまり食べないせいで形容する言葉に不安があるけど、うん、苦い。
「……申し訳なさで三点倒立したいね。きみの具合も悪化してるし。帰る?」
「僕、悪化してますか」
「今度は真っ白だね。ええと、きみのとこ……」
賃貸の住所を告げると、ユンさんは「遠いな」と一言呟いた。
「なんなら私のとこに泊まる? 近いよ」
「とまる?」
「お泊まりデートしよう、エギナル君」
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