2-7

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 目が覚めると虫になっていた、ということはなく、僕はベッドに寝ていた。  ユンさんは繁華街から近い、実に良い感じのところに住んでいた。セキュリティも水回りの設備も、僕のアパートとは大違いだ。  よろよろと懇親会を早退し、ほうほうの体でシャワーを借り、ひと様のベッドを占領して今に至る。お泊りデートとか何とか言われたけれど、要するに僕が手厚く介抱されただけだ。枕元の時計の針は午前四時を示している。 「お、お早う。調子戻った?」  カーテンとサッシを開ける音がしたほうを向くと、薄ぼんやりとした空の色と共に人影が出てきた。片手に小さいじょうろ、脇には小さなザルを持っている。 「お早うございます……色々、ありがとうございました」 「いえいえ、かわいい後輩の面倒をみたまでよ」  可愛いとか言う人なのか、この人。案外茶目っ気を出す人なのかもしれない。 「……ベランダ、何かあるんですか?」  と、ポップな色合いの象のじょうろを指差す。ユンさんは少し考えるようにし、 「起きて良さそうなら見てみるかい。私の楽園」  ちょいちょいと手招きをして、一度閉めたカーテンを開けた。僕が横に来たのを確認すると、ほら、と足元近辺に象の鼻を向ける。 「夏野菜?」 「キュウリとかトマトね。自分で食べるには十分なくらい収穫できるよ。こんな小さいプランターでも」 「植物の種ってこの辺でも売ってるんですか? 値が張るって聞いたことが」  種から育てた野菜よりも商品として売られている野菜のほうがずっと安い。工業製品と同じように画一化された食べ物なんて、と不満を持つ人も昔はいたんだろうけれど、今はほとんどいないし。  僕の町でも、パッケージ化された材料セットが配達されてくるのが主流だったから、こうして実際に育てられているのを見るのはそうとう久し振りだ。実験用じゃないトマトの苗を見たのなんて、初等科以来かもしれない。 「そうだね。まーでも、娯楽の一つとして考えたら一石二鳥ってことだよ。研究に活かせることもあるし、美味しいし。それに思い出せるし」 「思い出せる?」 「人間は人間だけで生きてるわけじゃない、ってね。リンカに居ても忘れそうになるだろ、あんまり便利なものばっかだと。……植物の居場所やそのからだを、ちょっとずつ分けて貰って生きてることを、忘れないようにしたい」 「……可食植物生産の工業化とその変遷、ですっけ」  そんな感じの上級講義があったな、と思い出しつつ訊くと、なぜかユンさんはきょとんとした顔になる。 「いやいやぁ、そんな高尚なこと考えちゃいないよー」 「高尚って」 「てかその講義持ってる教授嫌いだから取ってない。細かいことは置いといてさ、折角の実りを美味しく食べるのが最優先だよ」  さっと立ち上がったユンさんはキッチンへ向かう。簡単な朝ご飯にしようか、と言うので、要らないとは言えずにテーブルについてしまった。  水音と電化製品のチープな音が止み、目の前にいくつかの料理が出される。料理というほどのものでもないのだろうけれど、いつも朝は食べない僕にとってはごちそうだ。  さっき収穫したトマトが乗っているサラダに炒り卵、味噌味のスープと白米にレーズンパン。この人は主食をおかずに主食が食べられるタイプか、と目を見張ったところに、細長いグラスが置かれた。 「はい、お茶。飲めるだろ? ご飯とパンは好きな方にしな」 「あ、そういう……ありがとうございます。僕、いつも朝は食べなくって」 「食べない派なんだ」 「はい」 「食べられない、じゃなくて?」 「……どちらでも同じです」 「エギナル君は小食なんだ。いや……小食とも違うのかな」 「……」 「はははっ。顔が怖い」  すみません、と小さく言ってお茶を含む。昨日も料理はユンさんに食べてもらっていたし、食べられないことだってひた隠しにしているつもりはないから、別にどう思われたって良いんだけど。 「……食べるのが苦手って言うと、なんか、生きるのが下手みたいじゃないですか」  みたい、というか。そう思う人は一定数いそうなものだ、と思う。  僕は今の状態に慣れきっているから、なんとも思わないだけで。 「―食べるのが好きな人が全員、生きるのが上手いとも限らないだろ」  ユンさんは、取り分けた卵にケチャップをかけつつ言う。 「生存に巧拙があるって考えはどうなんだろうねぇ。……君は、食べるのが苦手な自分が嫌いかい」 「どうとも思ってない、っていうのが近いですけど」 「じゃあ―それで良いじゃないか。物事を穿って見る連中もいるだろうが、そういう奴には好きにさせておけばいい。君がどう思うかは全くの別物なんだから」  あくまでも、とユンさんは付け足す。 「君の主観と客観と他者の視点は全て異なる、という前提の上に成り立つ理屈だけどね。これらを切り離せないとなかなか話も通じないってわけさ」 「哲学科みたいなこと言うんですね」 「リンカだもの、たまにはそれらしいことを言っておかないとね。……自分の価値観を他人に押し付けている自覚を持つのって、中々難しいだろ?」 「えーと、……まぁ」 「具体的には昨日の懇親会みたいな場を言うのかもね。無礼講とは言え、ああいう雰囲気は私も苦手だな」  やれやれ、と大げさに言うユンさんは、急にとても年齢が離れたひとのように見えた。年齢不詳だけど。 「あの、喋ってくれたこと、ですか」 「そ。好きなように、好きになったりならなかったりしたいよね」  大多数の感情と自分の感情との間に、溝があること。  そのことに自覚的でありながら、自分の考えを持ち続けること。  ユンさんが実行していることは、言葉にするよりもずっと難しく、厳しい。 「どれだけヒトの進化や多様性が説かれるようになっても、権威的なものとそうでないものとの差異はどんな分野にも生じるよ。たとえ色気づいたガキの恋愛トークでもね。あんなやつを好きになるなんて変だとか、どうして好きな人がいないのか、とか。市民権を獲得していない意見が平等な扱いを受けることはない、枠の外側にあるものはいくら攻撃したっていい、と思っている連中もいるらしい」  ユンさんが語る言葉には不自然な重みがない。自分が思っていることを、そのまま外へ放出しているだけ、といった雰囲気がある。  だから、その難しさすら意識の外へ抜け出てしまいそうになるのだけど。僕は一言たりとも手放したくなくて、無言で相槌だけを返した。 「友愛、敬愛、性愛、家族愛……単語だけ並べてみたって色々ある。恋愛だってこのうちのたかが一つだよ。少なくとも私は、そう思ってる」 「……僕は」  無意識に、腹部へ当てていた片手をテーブルに乗せる。お茶を勧められるままに飲むと、喉から胃へ、冷たい液体が通っていくのを感じた。 「―枠の外側が僕の場所だとするなら、大事にしたいです。悪いことをしているわけじゃないのに否定されるのはなんか、ちょっと違うじゃないですか」  ユンさんの言葉を受け取って、ほぐして咀嚼して、飲み下して。  昨日、消化不良を起こしてしまった地点に、立ち戻る。 「僕には僕の……他の人からすれば、おかしく見えるのかもしれないけど」  今、この人になら言っても良いだろうか、なんて烏滸がましくも考えながら、僕はゆっくり顔を上げた。  気のないふうな頷きと共に、それで、と促された。 「僕、もうずっと、好きな子がいて。友達で、相棒で。だけど、間違っても、その子からは好きになってほしくないんです」 「―そう」 「身勝手極まりない話ですけど……そういうかたちしか、僕にはなくて」  ああ、もう本当にこんな話、朝からするものじゃない。  いたたまれなくなってユンさんから顔を逸らす。少し温くなったお茶のグラスの水滴を拭うものを探すと、ユンさんの手がふきんを伸ばしてきた。  礼を述べるも、返事はない。  ユンさんは顎に片手を当て、考え込むようにテーブルの一点を見つめていた。 「ユンさん?」 「……うん。意外と君は素直だなぁと思って」 「意外と、って。ひねくれ者で悪かったですね」  なんだこの人。なんだこの人?  普通に恥ずかしい。八つ当たりにも似た気持ちで顔が熱い。  けれどユンさんから出てきた言葉は、予想もしないものだった。 「素直なことは美徳だよ。君が好いている子も、きっと、君と一緒にいて息がしやすいだろうね」  恋愛感情とは別物で、にんげんとして。  ユンさんは言って満足したのか、パリパリとサラダを食べ始めた。つられるように僕もパンを一切れもらうことにする。  息がしやすい。  ユンさんの言葉を胸の内で反すうする。  僕は、きみと一緒に飛ぶことはできなくとも。  息をする手伝いはまだ、できるのかもしれなかった。
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