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 その後、言わずもがな遅刻してきた主任を迎えて人数が揃ったところで検査棟へと移動する。僕や他の学科の教授を含めた見学者は、先輩たちとは別行動になった。先輩は検査の補助を任されているという。記録係と装置の操作係は、プロジェクトに参加している学生の持ち回りだと教えてくれた。  検査棟は講義棟の長方形の左右に半円をくっつけたような外観をしていた。全体がかまぼこの断面の形だとすると、入り口は板の中央にあたる場所だ。 広い廊下やロビーは、大きめの病院のものに似ているようにも見える。しかし貸切状態になっているらしく、主任が受付カウンターに設置されている認識パネルに使用コードを入力するのみで受付は終了した。  ロビーから二階に上がり、廊下をやや進んだところにあるホールのような場所で待機する。壁に設置された大きなモニターには、無人の検査室の様子が映し出されていた。ここで……検査の様子を見る、ということか。  お前、大勢から見られながら受けたいと思う? と、面識がない方の先輩から聞かれて、僕は首を大きく横に振った。 「いつもはもっと小さな個室でやるんだ。元々そんなに公開してもいない……今回は見学希望者が多くて、こっちの検査室になったらしい」 「希望者を募っているんですか。外部から?」 「募ってっつか、向こうからお願いされるんだよ。主任は良く思ってないらしいけど、上から言われたら頷くしかないって。とは言え、最低限のプライバシーは守れって話だよな」  先輩は天井を見上げるように首を回す。 「検査の日程は学内の人間にしか知らされてない筈なんだ。どっかから情報が出ちゃってる」 「……誰かが、洩らしている?」 「さぁね。そんだけ、コレを見たがってる人間は多いって話。漏洩が暗黙の了解になってる。……ピーターをさ、ただの一人の人間だって思ってる奴がその中にどれだけいるかなんて、考えたくもないよ」 「先ぱ」 「だって」  先輩は僕を遮った。 「まるで実験動物か見世物小屋だ。見て喜ぶのは変態だけだろ」  検査室には、病院でよく見る診察用の医療器具や数台のコンピューターとその倍の数のモニターが並んでいるほか、灰色の簡易ベッドと大きめのソファがあった。僕はロビーの長椅子には座らず、奥の壁に凭れかかかる。座るようにと誰かが言ってくれたけれど断った。  そうして待っていると、白衣を着た検査員が入室してくる。全部で四人。四人目の主任が手招きすると、白衣より一回り小さな影が出てきた。きみだ。 検査員と挨拶を交わしてから、きみはベッドに腰掛けて無骨なヘッドセットを付けた。検査者たちはそれぞれ、機械の前に立って操作をしたり手元のファイルに数値を書き込んだりといった作業をしている。  至って普通の検査といった感じがする。普通の検査がどうかなんて、詳しくは知らないけれど。  その後も、血圧や脈拍を測ったり電極を体のあちこちに貼りつけたり、問診をしたりといった細々した作業が続いた。  先輩たちの態度から、もっと凄絶なものだと想像していたけれど、悪い方向に考えすぎていたのだろうか。そう僕が穿ち始めた頃、見学者たちがざわつきだした。それに釣られて改めてモニターを見る。見て―すぐに後悔した。見てしまったことにではなくて、大したことはないと一瞬でも思ったことに。  そこにあった光景は、先輩が言っていた通り―見た方が早いものだった。  きみが、ベッドにうつ伏せで横たわっている。 白衣の一人に右肩と上半身を押さえ付けられる。右手首を掴まれる。腕が上へ引っ張られて、その角度が徐々に大きくなる。きみは腕を動かすのさえ辛いと言っていなかったか? 腕が、肩が伸ばされて、きみの体が大きく跳ねた。拘束から抜け出そうとするように身を捩る。足が宙で跳ねる。頭が仰け反る。全身の軋む音が聞こえてきそうだ。呻くように口が少しだけ開く。痛みをこらえるような戦慄きは止まらない。動いたせいでばらばらになった髪に隠れて目元は見えない。腕の表面を、スキャナのような小さい機械の赤い光がなぞっていく。指先まで光が走って、右腕がようやく解放されたかと思うと、次は左腕が同様に固定された。  同じことが、同じように、時間が巻き戻ったみたいに、鏡写しのように、モニターに写し出される。  見学者の中には、途中で目を背けたり手荷物やハンカチで視界を遮ったりする人もいた。この様子を顔色一つ変えないで見ていられる方が異常だろう。流れるのが映像だけで良かった。音声まで、と思うとぞっとする。  モニター越しの白衣は、淡々と検査を―「作業」を進めている。その一人である主任が何を考えながら作業をしているのか、想像もつかなかった。同情しないように―と言っていた意味は、よく分かったけれど。  左腕の検査が終わり、きみはぐったりと全身をベッドに投げ出していた。横向きになると顔を隠していた髪がはがれ、頬が上気してうす赤くなっているのが見えた。額や首筋には髪の束が張り付いたままで、潤んだ目は、道端に打ち捨てられた動物に似た雰囲気を纏っていた。  と、検査員の一人の腕が、前触れもなくきみの肩甲骨に触れた。ぶつかった、のかもしれない。だけどやさしく触れただけだ。揺すったり、強く動かしたはしていない。  だけどきみは全身をびくりと震わせた。  一旦ぎゅっと瞑った目がゆっくりと開いて、唇が、僕のよく知るかたちに動いて、 「―あ」  ありもしない翼が見えた。  細かい羽が抜けた翼がぼんやりと光って、きみの背中を照らしている。  初めて見る姿ではなかった。夏祭りの日に見たものと同じだ。  それから―きみと飛んだあげくに落下していった夢で見たものと。  あれは僕の妄想に過ぎないのに、やけにリアルな情景を現実と誤解したまま、僕はここまで来てしまった。おとなの世界に辿り着く前に落ちて、墜ちていこうと、している。 必要以上の画素数を持たないモニターでは見えるはずのないものが、きみの瞳が、だけどどうしてこんなにくっきりと見えるのだろう。カメラ越しでは分かるわけがないのに、どうして視線が合った、なんて、思うのだろう。  うたかたの琥珀が、ぼくの目をとらえた。 「―………っ」  かくん、と膝と腰から力が抜けた。慌てて壁に片手をついたけれど間に合わず、床に片膝をつく。けっこう大きな音がした。  何事かとこちらを振り向いた見学者たちに僕は手を振って、何でもないですと小声で付け足した。  忘れたいと思えば思うほど、深く記憶に刻み込まれてしまう瞳に。  胸骨の中心を、射抜かれた。  数年来のあの感覚が、射抜かれたところから下へ下へ、どろりと広がっていく感じがした。 「大丈夫? 別室で休むか」  先輩が駆け寄ってくるのを手で制す。このひとを心配させてしまうのは嫌だった。……きみをひとりの人間として見てくれているのが嬉しかったからだと思う。 「いえ。すぐ良くなると思うので」  本当は全く大丈夫じゃない。  どこも、何も大丈夫じゃなかった。  無理やり笑って、その場を素早く抜け出し水場を探す。廊下から階段へ向かう途中、トイレの場所を示す表示板があった。躊躇わずに個室へ走り込んで鍵をかける。  便器の蓋を掴んで膝をつき、頭を突っ込んだ。 「……っ…………」  喉と口腔に広がる粘つく酸味は、今朝飲んだコーヒー飲料のものだろうか。いっそ清々しく、胃の中にあったもの全てが自分の中から抜けていく。まるで氷の上みたいに消化管をするすると滑っていく。脂汗も止まらない。指先が急速に冷えて感覚がなくなる。  駄目だと警鐘を鳴らす頭から、体は、行動は乖離していく。  すべて出して、空になってしまおうか。  何年か振りに、自分の指を喉に達する口の奥深くへ差し込んだ。もう片方の手にも力を籠める。指先が白くなるくらい力を入れて陶器を掴んでいても、上半身がぐらつく感じがした。  不気味な音と共に胃液を吐き出す自分をどこか遠くに認める。水音に紛れないその音を、他人事のように聞く。  己の全てを吐き出すことは、こんなに気持ち良いことだったのか。  落下音を水音で流しきって、残るのは全身のだるさだ。僕はしばらく体勢を崩さずにじっとしていた。やって来る人がいて怪しまれたらどうしようとも思ったけれど、杞憂みたいだ。ゆっくり、膝に手をついて立ち上がる。シャツに少し水飛沫がかかっていたけれど、着替えも持っていないので見なかったことにする。  手洗い場で口元を洗っていると上着のポケットに入れていた端末が震えた。検査の手伝いをしていた先輩からのメッセージだ。急いで手を拭いて廊下に出、テレビュー機能を起動させる。 「―すみません、今戻ります」 『え、いいよ具合悪いなら休んでろよ。すぐっつったのにお前、なかなか帰って来ないってりょーちゃんが心配してたぞ』  ちゃんと生きてるか気になって、と真顔で冗談を言われた。ていうかあっちの先輩、りょーちゃんって言うんだな。 『見学者も大体参ってたらしいから、まぁ』 「先輩は……何ともないんですね……」 『嫌なものでね。慣れてくる』  先輩は、それで? とこれまた無表情で尋ねる。 『取り敢えず検査は終了。どっかで休ませてもらった方が良い。主任たちが戻るにはまだかかるから』 「ええと……はい」  来た道を戻りつつあれこれ言葉を思い浮かべる。言いたいことなんて決まっているのに、どう言おうかどう納得してもらおうかと考えてしまうのだから厄介だ。  合流しようと思っていたのは先輩も同じだったらしく、見学者たちが待機している一階ロビーから階段を上ってくる姿が見えた。  通信を切って、「お願いがあって」と早口で切り出す。 「あいつに会うことって、できませんか」  ピーターに。  先輩は案の定眉をひそめた。 「……俺が判断できることじゃないね。せめて主任の許可が要る」  だから待て、と半ば強制的にそのへんのソファに座らせられた。すぐ隣に先輩が腰かけるとソファはいったん深く沈んで、ぽこりと戻る。 「何飲める? 水でいっか」 「お、お構いなく」 「構う構わないじゃなくって。会うにしてもその顔じゃ、逆に心配かける」 「……ですか」 「ですよ」  入口のすぐ外にある自動販売機で水を買ってくれたので、ありがたくいただくことにする。先輩は自分の炭酸飲料をぐいっと飲んで、僕の顔を見つめてきた。 「……変なものでも付いてます?」 「や。面白い奴だなー、と」 「人の顔を面白がるのはどうかと思いますけど」 「顔じゃない。存在がだ」  より奇妙な言い方をされた。 「これを見学するなんてどんな神経してんだ、って思ってたけど、アレだ、ユンが目ぇかけてる奴だって聞いてさ。変人に決まってるな、納得だわって俺たちで話してたのよ」 「付き合っているというか、付き合わされているというか……ですけどね」 「仲良いのは認めんのな。はは。この前の懇親会のときも介抱されてたしなあ」 「はは……」  あの懇親会の日、場酔いをした僕はユンさんに付き添われて帰路についた、ということになっていた。  というか、生物科中であのひとは変人扱いされているのか。先輩の話しぶりからは、ユンさんの謎っぷりが上級生からもそのまま受け入れられているように思えた。 「……あのユンがさ。お前が見学行くからって知らせてきたんだよ。面倒見てくれって。この前の懇親会のこともあるから、って」 「あぁ……」 「慣れないことして体調崩すと後々まで響くもんな」  絶妙な嘘と事実の混ざり具合に、ただ相槌を返すことしかできない。こんな風に罪悪感を持ちたくはないのに。 「後輩の面倒なんて一度も見たことないやつが、さ。だから面白いやつなんだろうなとは思ってたけど。面白いくらい難儀な……」  先輩は語尾をしぼませながら立ち上がる。検査員の一団がこちらへ向かってくるのが見えた。見学者たちのほうへ向かうかたまりから離れて、足早に主任がこちらへ近付いてくる。 「エギナル君。体調が悪くなったと聞いたけれど具合はどう」 「え、さっきよりはまし、です」 「そっかそれは良かった。君にご指名が来ていてね、クソッやられたよエギナル君! ピーターめ、まったく可愛いことをしてくれるじゃないか」 「な、何が?」  主任はオーバーな仕草で肩をすくめる。 「あの子が機械に強いのは分かってたんだよ、でも知ってた? あの子、僕らのデータベースから毎回見学者と検査員全員の名簿を抜き取ってたんだよ! ハッキングってやつ! 今回分は削除させたけど、あの返事だってホントかどうか分からないよ! あの子怖い! 上には黙っとこ!」 「……それはセキュリティが甘々だったからじゃないすかね。どうせオープンフォルダに突っ込みっぱなしになってたんでしょう。普通に主任のミスじゃないすか」  先輩の指摘に主任はぐっと黙る。まあ、中等部の頃にはメディカルボックスをわけなく弄くれていたきみだから、そのくらいは何でもない芸当だろう。  褒められた行為ではないけれど―とても、きみらしいと思ってしまった。相手に知られることのない宣戦布告でもしているような。こっちだって全員のことを知っているのだとでも言うような脅迫めいた行為は、とても、きみらしい。 「あぁそれで、エギナル君が見学に参加してるっていうのも知られちゃってね」 「ええ。……あ、もしかして来ちゃ駄目だった―」 「いーや? まだ居たら是非連れてきて欲しいってさ」  思わず先輩と顔を見合わせる。  一も二もなく、僕は頷いた。 「うん、一階の、そっちからぐるっと回ったところね。休憩室にいると思うから。黄色い扉の部屋。あとは現地解散だからその後はテキトーに帰っちゃって。ピーターにもそう言ってある」 「―はい。あの、ありがとうございます」 「別にぃ? 感謝されることをした覚えはないよ。ごめんね、素敵なランチのお店を用意してやれなくて」 「はぁ……?」 「情緒もへったくれもない、殺風景な逢瀬で悪いねって言ってんの」 「……」 「なんちゃってね」  主任を見つめる先輩の目が、僕以上に冷たかったのは言うまでもない。
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