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青野の目が小さく揺れた。
でも、それはほんの一瞬のことで、すぐにまた無表情に戻ってしまった。昨日のような「怒り」や「憤り」は、今の青野からは感じられない。
「つまり──」
青野の低い声が、俺の耳に届いた。
「あんたは、もう俺のことが好きじゃなくて──だから別れたい、と」
「──おう」
「やっぱり浮気ですか」
違う──と言いたいところだけど、そのほうが青野としては納得できるのかな。
「ええと、とりあえず……悪いのは全部俺だから! お前は何も悪くないから!」
「でしょうね、浮気なら」
「そう、そのとおり! 俺が浮気性で気が多くて、ええと……ビッチで?」
ああ、嫌だ、この言葉。でも今回ばかりはしょうがない。
「だから、その……お前は俺みたいな尻軽クソビッチとは付き合わないほうがいいっつーか、お前には他にもっといいヤツがいるっていうか……」
言えば言うほど、青野の眼差しが白々としたものに変わっていく。
くそ、わかってるよ、俺だって!
こんなの浮気したヤツの典型的な言い訳だ。まさか、自分がこんな言葉を口にする日がくるとは思ってもみなかった。だって俺、好きな子と付き合えたら絶対浮気しない自信があったし。
やがて、青野は大きく息を吐き出した。ため息というよりも、腹のあたりにため込んでいた怒りを、ようやく身体の外に排出した感じだった。
「もういいです。これ以上聞きたくない」
──そうだよな。ごめん、ほんとごめん。
「あんたがそこまで言うなら別れましょう。というか、俺も今日そう申し出るつもりでしたし」
え──じゃあ俺、わざわざこんな嘘つく必要なかったってこと?
「はっきりいって、ここ最近はずっとあんたにムカついていました。付き合う前はさんざん俺にまとわりついて『俺と付き合って』『俺のこと好きになって』ってうるさかったくせに、いざ付き合いはじめたら平気で他のヤツらに目を向けるし、肉体関係までもとうとするし」
そうらしいよな。
ほんとごめん、こっちの俺、ひどすぎるよな。
「あんたが浮気するたびに、俺は俺の存在意義について考えさせられました。なんなんだ、あんたにとって俺はどんな存在なんだって。けど……」
青野は、言葉を詰まらせた。
「それでも俺は、あんたのこと──」
そこまで口にしたところで、青野は深くうつむいた。
目線の先にある、跳ねた癖毛。背伸びすれば見えそうなつむじ。
やがて、青野の肩が小さく波打った。そこに、こいつの想いのすべてが込められているような気がして、俺はなんとも言えない気持ちになった。
「やっぱり、なんでもありません」
絞り出すように吐き出すと、青野は「どうぞ」とホームを示した。
「先に行ってください」
「いや、お前こそ……」
「いいから! あんたが先に行ってください」
まだ電車に乗りたい気分じゃないんで。
そう付け加えられてしまうと、俺としては引き下がらざるを得ない。
「わかった。じゃあな」
先に歩き出して、それでも青野のことが気になって、階段をのぼる手前でもう一度だけ振り向いた。
青野は、まだうなだれたままだった。
ぎゅうっ、と胸が絞られるようだった。
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