156人が本棚に入れています
本棚に追加
「いや、それは……」
俺は、言葉を濁した。そうせざるを得なかった。
青野と別れた一番の理由は、俺とこっちの俺が入れ替わったからだ。お前に恋をしていないのが、今の「星井夏樹」だ。だから、別れを選んだ──ただそれだけのこと。
でも、それをそのまま伝えたところで、こいつはきっと受け入れない。以前のように「また適当な言い訳をしている」と受け取られるのがオチだ。
しかも、現状「半年記念日の件とはまったく関係がない」とも言い切れない。
もしも「階段から飛び降りたことで入れ替わった」という仮説が正しかったとしたら、青野の疑問に対する答えは「イエス」だ。青野が、こっちの俺の提案を受け入れていれば、そもそもケンカが発生しない。つまり、こっちの俺は階段から飛び降りずに済んだのだ。
けれど、それを伝えて何になるのだろう。
青野の気は済むのか。納得できるのか。めちゃくちゃ後悔して、1ヶ月前の自分を責めることにはならないのか。
「どうして」
結局、俺の口からこぼれたのは中途半端な問いかけだ。
「どうしてそう思うんだ?」
青野は目を伏せた。答えに迷っているようにも、ためらっているようにも見えた。
しばらく沈黙が続いたあと、独り言のような頼りない声が届いた。
「あのときから、夏樹さんが変わってしまったような気がして」
そうだな、そのとおりだよ。
なにせ「星井夏樹」は中身ごと入れ替わっちまったんだ。お前が好きだった「俺」は、たぶん今は別世界にいるんだよ。
笑って、そう教えてやれたらよかった。
でも、そうしたところで信じてもらえないし、なにより今の俺にはその発言を笑顔で伝えられそうになかった。
ああ、くそ、わかっている。
青野は悪くない。
青野は、ただ自分の疑問を口にしただけだ。
けど俺は、俺自身を否定されたように感じた。「以前の星井夏樹が恋しい」「以前の星井夏樹に戻ってほしい」──青野自身は、決してそんなことを言っていないのに。
「ごめんな、変わっちまって」
「いえ、そういう意味では……」
「半年記念日のことだけど」
なんて答えるべきかやっぱり迷って、結局俺はこう口にした。
お前が好きになった俺じゃない「俺」なりの、精一杯の矜持を込めて。
「たしかに、別れる原因にはなったかもしれない。でも『今の俺』は、あのときのお前が俺の提案を拒んだ気持ちもよくわかるよ」
青野は「そうっすか」と呟いた。それから長いため息を吐くと、立てた膝に顔を埋めてしまった。
つむじ付近のくせ毛がぴょんと跳ねていた。その髪に手をのばしかけたものの、さっきみたいにわしゃわしゃとかき混ぜることはできなくて、俺の右手はただ宙を掴んだだけだった。
最初のコメントを投稿しよう!