第五話

1/1
前へ
/7ページ
次へ

第五話

 さらさらとした冷風に額をくすぐられ、私は瞳を開けた。  視界一面に広がる、深緑色の森。  甘く冷えた空気を吸い込み、短い草むらの上を裸足で歩いた。  天を仰ぐと、黒い夜の色に金の星の光が散らばっていて、思わず綺麗だな、と呟いた。  夜空を眺めながら視界を一周すると、私は目を見開いて、視線を一点に止めた。    ぼんやりとした雲がゆっくりと晴れ渡った先に────お父さんが、浮かんでいる。    まん丸い顔のお父さんが、囲まれた星よりもずっと大きいお父さんが、夜空に浮かんで微笑んでいる。  刹那、私は駆けた。  まん丸のお父さんに目がけて、夜の森を裸足で駆けた。  冷たい風に頬を打たれながらも、足がよろめいて転びそうになっても、無我夢中に駆けた。    お父さんがいる! お父さんに会える!  それだけの思考に染まって、友達との鬼ごっこの時よりも、運動会のかけっこの時よりも、ずっとずっと速い足取りで駆けたのだ。  だけど、いくら走っても、一緒についてくるようで、お父さんは遠くに浮かんでるだけ。  相変わらず笑いながら浮かんでるお父さんを見上げて、駆け足を少し止めて、ゆっくりと歩き出した。するとお父さんの動きも緩やかになって、まるで歩幅を合わせているようだった。  森の中を一周して、ふと、何かに類似したように思えた。  お月さまだ。お父さんは、お月さまになったんだ。 「お父さん、お月さまになっちゃうの?」  空を向いて問いかけると、お父さんはにかーっ、と歯を見せて笑って、   『そうだ、里帆(りほ)。お父さん、お月さまになるんだぞ』  その得意げな笑みが、声が、あまりにお父さんらしかったから、さまよう暗闇の中でやっと光を見つけたような、そんな高揚感が湧き上がった。 「もうお父さんには会えないの?」 『ごめんな。昔みたいには会えないよ』  むぐ、と下唇をかじった。 『でもな』  と、お父さんは天高いところで言葉を紡いだ。 『日が暮れて、暗くなって、夜になったら、お父さんはお月さまになって、お前を見に行くよ』  優しい声で、紡いだ。 『辛い夜になった時は、夜空を見上げて、お父さんを探してくれ。例え探してくれなくたって、お父さんはずっとずっと見守ってるぞ! 里帆に忘れられたって、お父さんは里帆を照らしてやるからな!』  溌剌な声で、紡いだ。  私は目から涙の雨を降らしながら、そんな眩しいお父さんを見つめ続けた。 「忘れないよ」  みっともない涙声で叫んだ。 「絶対に忘れないよ。探してあげるよ。一番星より先に、お父さんを見つけるよ。ねえ、約束だよ。お父さん、お月さまのまんまでいてね。見えないところにいかないでね。ねえお父さん、約束だよっ」  ああ、とお父さんは夜空の中でゆっくりと頷いた。  そんなお父さんの溶けてしまいそうな笑顔から、流れ星が降るようなキラキラとした煌めきが瞬いた。  金色(こんじき)の光に包まれて、お父さんは幸せそうだ。  眩しくて眩しくて、思わず瞳を閉じた。  いかないで。会いたいよ。もっともっと、会いたいよ。あの笑顔が見たいよ。あの声が聞きたいよ。手を伸ばしてだっこしてほしいよ。高く高くおんぶしてほしいよ。眠る前にキスをしてほしいよ。  だけど────さよならしなくちゃ。  お父さんは、お月さまになったんだから。  スーパーマンから、お月さまに昇格したんだから。  私以外のたくさんの人たちも、照らしてあげなくちゃいけないんだから。  だからお父さん、さようなら。  まん丸のお父さん、さようなら。  また夜空の中で、一番に私を見つけてね。  今度こそ、約束なんだから。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加