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01.プロローグ
海から押し寄せる山脈のように巨大な津波が、高層ビル群を次々と飲み込んでいく。街を飲み込んでも少しも勢いを落とすことのない巨大津波は、無情にも逃げ惑う大勢の人や車を次々と飲み込みながら、俺が立っている場所にも迫ってくる。
そして、ついには俺の目の前まで津波が迫り、圧倒的なスケールの津波を前にして、逃げる気も起きず、死を覚悟した。隣に立っていた誰かが俺の手を握った。俺は握られた手を強く握り返し、あと一瞬で津波に飲み込まれる、というところで目をつぶった瞬間...
「うわっ!」
目が覚めて ベッドから飛び起きた。
辺りを見回すと自分の部屋だった。寝起きで回らない思考のせいで、悪夢の余韻が続き、数分後にようやく夢で良かったとホッとすることができた。
枕元に置いてあったスマートフォンの時間を確認すると、午前10時を過ぎていた。
昨日は俺が宅地建物取引士に合格したお祝いをしてくれると言うので、【浅野 舞】と飲みに行った。お祝いしてくれたことは嬉しかったが、仕事が終わったのが遅くて、スタートが夜10時になったこともあり、結局二人で始発まで飲んでしまった。そして、眠たくてフラフラになりながらマンションに辿り着いたので、シャワーも浴びずにベッドに入った。
あれからまだ4時間しか経っていない。顔がむくんで、なかなか目も開かないし頭も痛い。今日は休日なので、このまま二度寝をしようかと思ったが、俺が起きたのに気が付いた【クロ】が散歩に行くためのリードを口に咥えて、ベッドの脇にお座りしている姿が目に入った。このまま目の前の従順な生き物をスルーできるほど豪気な性格ではないので、眠たい目を無理矢理こじ開けて起き上がった。起き上がったらさらに頭痛が酷くなった。クロは俺が立ち上がったことで、散歩に行けると察したようで、咥えたリードを引きずりながら、玄関に走って行った。
「クロ、わかった。ちょっと待ってて。すぐ準備するから。」
俺がジャージに着替えている様子を見て、クロのテンションが急上昇し、尻尾だけでは足りず、お尻までブンブン振って、玄関から俺を見つめている。嬉しさを抑えきれずに、たまにその場で回っている姿がまた可愛い。
クロは推定2歳半の雄のボーダーコリーで、俺と同居してからもう2年になる。『推定』というには事情がある。クロとの出会いは、現在の勤務先の不動産会社に入社してから、初めて自分が開拓したお客さんに戸建の販売を任されて、一人で物件の写真を撮りに行ったときだった。
物件の玄関の前にダンボールに入った子犬が捨てられているところを見つけた。兄弟と思われる子犬3匹が同じ段ボールに入っていたが、残念ながら俺が見つけた時には既に2匹は冷たくなっていた。しかし、1匹だけは弱々しくはあったが、まだ息があったので、仕事中にも関らず社用車に子犬を乗せて、近くのペットクリニックに連れて行った。
子犬を入院させて3日後には、子犬が元気になったと獣医さんから連絡があったので引き取に行った。せっかく助かった命を保健所に連れていくなんて論外、里親に出すことも考えたが、里親を探すのが面倒だったので、そのまま俺が飼うことにした。
あれから2年、あんなに小さかったクロも今では立派なフワッフワのボーダーコリーに育ち、毎日俺に癒しを与えてくれている。ちなみにクロという名前は、毛の色を名前にした。シンプルかつ呼びやすくて実に良いネーミングセンスだと思う。
外に出るためにパンイチからジャージに着替え、キャップを被り、自宅の鍵とスマートフォン、小銭入れ、それと、クロは外でトイレをしないが、念の為、折りたたんだビニール袋とポケットティッシュをジャージのポケットに入れて準備完了。ジャージのポケットがパンパンで見た目が悪いが、俺は鞄を持ち歩くことが好きじゃないので仕方ない。
クロが口に咥えていたため涎で少し湿ったリードを受け取り、ハーネスに装着すると、クロのテンションが最高潮に達した。クロは後ろ足で立ち上がって、前足で玄関のドアノブを下げようとしている。
「おいおい、少し落ち着こうぜ。鍵が掛かっているからそれじゃあ外に出られないよ。」
そう言ってリードを持ってない方の手でクロの首の周りをワシワシと撫でつけると、ドアノブに飛び付くのを止めてくれたので、急いでスニーカーを履いて外に出た。
部屋のカーテンを閉め切っていたので気が付かなかったが、マンション共用部分の廊下の窓から外を見ると、雲ひとつない青空が広がっていた。まだ太陽の光に目が慣れていないため、眩しくて目を細めてしまう。
マンションのエントランスから外に出ると、思っていたより寒い。スマートフォンで現在の杉並区の気温を確認すると10℃しかなかった。コートを着て来なかったことを少し後悔したが、今から部屋に戻るとクロが怒り出しそうなので、速歩きをして体を温めることにした。北海道出身の俺としては、雪がないと冬になった実感できず、ついつい薄着で外に出てしまう。
クロは軽快にいつもの散歩コースを歩き始めた。俺はクロと散歩をするときに最低限心掛けていることが3つある。
1つ目は、リードは短く持つこと。クロのリードは最初から30cm程度の短いものを使用しており、そもそも長めに持つことはできない。前を歩かせずに俺の真横で、膝に毛が触れるくらいの間隔で歩いている。よく長いリードで犬を自分より前に自由に歩かせている飼主を見るが、自転車やバイクが急に出てきたときに咄嗟に犬を庇うことができないし、先に歩かせるということは、主従関係がはっきりしなくなってしまう。
2つ目は、犬に車道側を歩かせないこと。これは万が一にも道路に犬が飛び出さないためである。「うちの子は賢いから大丈夫だよ。」と思う人もいるかもしれないが、いくら賢くて飼い主の言うことを聞く犬でも、人間と同じように完全に言葉を理解できるわけではないので、予測不能な行動をする可能性はある。自分の犬が大切なら油断してはいけない。
3つ目は電柱や道路標識などの匂いを嗅がせないこと。クロが他の犬の排泄物から、病気に感染しないようにこれは徹底している。
他には夏場だとアスファルトが高温になるので、夜間か早朝以外はアスファルトの上を歩かせないこと、クロが人を噛むことは想像できないが、万が一のことを考えて他人にクロを触らせないこと、道路にガラス片や釘等の危険物が落ちてないか気を付けて歩くこと、暑い日はクロにも水分補給させること等、飼い主として最低限気を付けなければいけないことはたくさんあるが、概ねこんなところだろう。犬を飼うというのは、意外と気を遣うことが多いのだ。
5分ほど住宅街を歩いたところで、散歩コースの分岐点に差し掛かった。俺達が普段散歩に使うコースは3コースある。平日の朝と夜の15分コース、休日のたっぷり1時間コース、クロサービスデイの2時間コース。分岐点で立ち止まると、休日コースのある右側に少しだけクロが傾いている。日中に散歩に行くときは決まって休日コースに行くので、もしかしたら覚えているのかもしれない。二日酔いで頭が痛いので、本当は短い方(平日の15分コース)にしたいのだが、散歩と食事くらいしか楽しいことのないクロに俺の都合で我慢させるのは申し訳ない。楽をしたい気持ちを抑えて、右の1時間コースに進むことにした。右の道に入るとクロの足取りもさっきより軽くなったように感じる。
散歩の帰りにコンビニで昼食を買って帰ろうと思ったが、1時間コースは帰りに商店街を通るルートなので、馴染みのお弁当箱屋さんに寄ることにした。
交通量が少ない住宅街を30分程度歩いてから、商店街に入った。お昼時や夕方は賑わっている商店街だが、今は水曜日の午前中なので、通りを歩いている人は疎らだ。これから行く馴染みのお弁当屋さんは午前10時半の開店だが、この辺の飲食店はだいたい午前11時か11時半に開店するので、11時を過ぎると徐々に人通りが多くなってくる。
弁当屋の前に着いたが、店頭には誰も立っていなかった。カウンター越しに厨房を覗くと店主の姿が見えたので声をかける。しかし、店主は一瞬だけこちらに目を動かすと、顔を向けようともせず、作業を続けながら「今日はなに?」と聞いてきたので、「唐揚げ弁当特盛で。」とだけ答えた。
5分ほど店先で待っていると、店主が唐揚げ弁当を持ってきた。唐揚げが弁当の容器から大幅にはみ出して、蓋が閉まっていない。容器の規格を完全に無視して、唐揚げの上に蓋を乗せて、輪ゴムで固定しているだけだ。白飯に至っては、容器1つに収まりきらず、容器が2段になっている。豪快な3段重弁当だ。
俺は店主に弁当の代金800円を渡した。金を受け取るときに店主がチラッとクロを見た。
「今日は犬も一緒か。少し待ってろ。」
店主は、受け取った代金をレジに入れると厨房に戻り、業務用冷蔵庫から、ビニール袋を取り出して俺に渡してくれた。
「昨日残った鶏のササミだ。」
このササミは店主がいつもくれるもので、犬用に味が付いてないからクロも食べられる。
「また用意してくれたのか。いつもありがとう。」
礼を言うと店主はクロに手を振って、厨房に戻って行った。クロは礼のつもりか分からないが、尻尾をブンブン振りながら「ワンっ」と一度だけ吠えた。
もう何度も同じやり取りをしているから、肉を貰ったということはたぶん理解しているのだろう。ちなみにこのお弁当屋さんには、鶏のササミを使用したメニューはない。
無愛想だが犬好きで気の良い店主の店を後にし、お弁当が冷めないように少し早歩きで自宅に戻った。
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