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朱美は夢に夢中だったが、その夢は、起きている時ではなく、寝ている時のものだった。起きている時の夢なんて、彼女にはなかったし、興味も無かった。なんだったら、起きている時自体、彼女にとっては、退屈で、無刺激で、空虚なものだったのだ。
「あけちん!おっはよー!」
千夏だ。いつも通りのハイテンションとハイボリュームで、朱美の背中に抱き着いた。朱美はそれを、嬉しいとも、鬱陶しいとも思っていなかった。朱美にとっては、ただの習慣だった。友達という間柄における、毎朝の習慣に過ぎなかった。
「おはよう、ちな」
巧みな微笑を浮かべて返答する。これもまた、ただの習慣だった。
そんな習慣に、面白味なんてない。歯磨きが面倒と感じる人は割と居るかもしれないが、少なくとも、楽しいと感じてノリノリで取り組む人は、少数派に違いない。朱美は勿論、その多数派の方である。
つまり、習慣に面白味や刺激、目新しさなどないのである。
朱美にとっては、それこそが起きている時であり、そこに夢の匂いなど一切感じられなった。
だから、朱美は、夢に生まれたかった。現実に死んで、夢に転生したかった。
けど、異世界ものは物語の中だけ。朱美は現実を疎むが、リアリストだった。
微笑の奥を見透かせない千夏は、無遠慮に尋ねてくる。
「あけちんは、進路どうするの?大学に行くの?専門学校?それとも、就職?」
ああ、夢への大学、夢への専門学校、夢への就職……なんでもいい、寝ている時の夢に暮らせる選択肢さえあれば。
「けど、ないのよね」
「ないって、まだ進路決めてないの?」
「うん、まだ」
千夏はちょっとだけ心配そうな顔をしたが、すぐに、聞いて欲しそうな笑みを浮かべた。朱美はそれを敏感に感じ取った。
「進路決めたの?」
ほらね。千夏は嬉しそうに鼻を膨らました。
「あたしね、今の彼氏と結婚したいから、違う学部だけど同じ大学にするの。まあ、もし破局しても、大学に居ればまた新しい人に出会えるし、そのチャンスも多いしね!だからK大学に行くことにした!」
果たして、今の彼氏と本気で結婚したいのか、それともしたくないのか、分からない返答だったが、とにかく大学に行くという。その先は、恐らく専業主婦狙いだろう。朱美は専業主婦に、奇妙な魅力を感じた。
家の事を済ませれば、他の時間全てを夢に費やせるのではないか?
子どもさえ作らず、夫にさえある程度尽くしていれば。
「ね、あけちんも大学にいっとけば?」
「……考えとくわ」
神妙な顔でそう答えて、朱美は自分の席に着いた。
授業が始まる。朱美はいつも通り、どこからどう見ても授業を聞いている、という姿勢で愛しい世界に旅立った。眼を開けたまま、片頬をついて、立てた教科書の内側で敷いたノートに、力なくシャーペンを握った手を乗せて。
―――。
脳にチャイムの音が無遠慮に流れ込んできた所為で起きてしまった。
朱美にとって寝起きがいちばんの不幸タイムだった。生理よりも、機嫌が最悪になる。ああ、なんで起きてしまったんだ、と異常な、どうしようもない後悔に苛んでしまう。まあしょうがない、次の五十分でまた味わえばいい。
「朱美さん。さっきの授業、もしかしてまた寝てた?」
隣の席の新藤さんだった。彼女は目敏くも気づいていたらしい。
「いえ、先生に呼ばれなかったので、特に動かなかっただけ、かもしれないわよ?」
「ふふふっ。確かに。朱美さん、先生にさされるとちゃんと起きて答えるものね」
朱美には、睡眠をコントロールできる能力があった。
浅く寝て、その間、外の音を識別して必要な時は起きて、また浅く眠る。
朱美にとって、深い眠りなど不要だった。だって夢がみたいのだから。
その欲求が強くなり過ぎた結果なのか、こんな妙な特技を身に着けてしまったらしい。
けど、朱美にとっては人生最大最高の能力に違いなかった。
「けど、次の時間は残念ね。体育だから」
やはり、新藤さんはこの朱美の能力に気付いているに違いなかった。
「そうね。残念」
朱美は珍しくおどけたように笑ってみせた。
もしかしたら、こんな自分に気づいてくれた新藤さんに、多少の親しみを感じているのかもしれない。
二人はその流れで、一緒に女子更衣室へと向かった。
「朱美さんって、寝るのが好きなの?」
「寝るのが好きじゃない人って、いるかしら?」
「そうね……少なくとも、お風呂に入るよりも、人間にとっては面倒臭さはないかも。でも、」
「でも?」
新藤さんの顔が一瞬曇ったのを、朱美は見逃さなかった。
「私は寝るのが嫌いなのよ」
「……どうして?」
朱美にとってその感情は、絶対に証明できないパラドックスのように感じられた。
「寝る時間って、現実をどうこうすることができないじゃない?だから、嫌いなの。できれば、一生寝ないで過ごしたいくらい」
「眠くなったら、どうするの?」
「眠くなったら、そうね……、せめて1秒で睡眠充足できたらまだましってとこかな」
それでは、夢を見ることはできない。朱美には新藤さんの感覚が全く理解できなかった。
朱美はまた珍しく、怪訝そうな顔を出してしまった。
新藤さんの前だと、表情が割と素直でいられるように感じられたが、
「夢を、見たことないの?」
「夢、って寝てる時のやつ?」
「そう、その夢」
「普通にあるよ。でも、退屈ね。見なくていいわ。その分、起きる時間に費やしたい」
「退屈な夢ばかり見ているってこと?」
「やけに質問するわね。朱美さんって普段大人しいし、千夏と話しててもほとんど千夏の話しばかり聞いてるイメージだったから、意外だわ。そんなに寝ることが好きなのね。えっと、夢だったかしら?退屈な夢、というより、いろんな夢全てが退屈ってことよ」
やはり彼女を理解することは、受け入れることはできないと朱美は覚った。
「そうなんだ」
「だって、何一つ、起きた時には残っていないじゃない?リアルな感触が何一つ」
けどその点に関しては、向かう感情は真逆だが大いに共感できた。
「確かに。何一つ残っていないわね。その点が」
朱美と新藤さんは目を合わせると、
「残念」「退屈」
と同時に正反対の感想を口にした。
「もし、もしもね、夢の中で生きられたとしたら、新藤さんはそれをリアルにできる?」
質問の意図を図り切れていないように、眉間に皺を寄せる。
「うーん、その質問が、夢にリアルを感じるならってことなら、そしたら、夢に生きてもいいって思う。とにかく現実味が無くて、空虚な記憶が嫌だからさ。だから、」
新藤さんは一度逸らした視線をまた朱美に戻して、微笑んだ。
「朱美さんのように、夢が好きで、夢を見たがっていて、夢に夢中なのが、羨ましい。――ああ!そっか!」
そうね。朱美も胸中で同じように頷いた。
「新藤さんは、夢に夢中になりたいんだと思うわ。きっと」
「うん、私もそう思った。きっと、夢に夢中の朱美さんが羨ましいんだと思う。だから、次の進路面談の時に私の将来の夢を先生に聞かれたら、」
「ふふっ」
朱美は久しぶりに現実を楽しんでいた。新藤さんとの現実は、朱美にささやかな色味を与えて、ちょっぴりの喜びを与えてくれた。
「夢中毒者って答えるわ。それが私の夢だって」
「じゃあ、私もそう答えるわね」
「いや。既にそれ叶えてるでしょ?」
「バレてた?」
朱美は珍しく、新藤さんはいつも通り、二人は更衣室の扉の前で豪快に、そして楽し気に笑いあった。
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