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第44話 長野
刑務作業で得た手当金は僅かだった。ホステスの姉ちゃんなら1週間で稼げそうな金額だが、頼る人間がいない俺にとっては有り難かった。
出所してすぐに町を出ると決めていた。舜や玉城会の組員と顔を合わせることはできない。この町から消えなければならない。彼らにとって、俺は疫病神みたいなもんだ。
向かったのは、駅だ。出所したら、すぐに美味いものを食うという発想はなかった。早くこの町から離れたかった。場所はどこでもいい。できれば、都会は避けたい。ヤマトに会いに東京へ行ったので、もう懲り懲りしていた。広島も都会だ。反対側の兵庫にしよう。兵庫へ向かう電車に乗ろう。
岡山駅に着くと、駅ビルの本屋に寄った。俺は本屋で経本と、文房具コーナーでノートとペンを買った。
案内カウンターで駅員に兵庫までの電車賃を尋ねた。少しでも安く済ませるまでに高速バスで行くことにした。
さて、バスの発車時間まで何をしよう。頭に浮かんだのは、ヤマトだった。久しぶりに友達の声が聞きたくなった。舜には会えない。斎藤もいない。誰かの声を聞いて、出所したことを実感したかった。刑務官に返された私物の携帯を取り出す。ご丁寧に充電された状態だった。だが、通話ができない。10年以上も電話代を払っていないのだ。止められるのは仕方がない。家族が代わりに銀行に入金してくれているはずもない。自動販売機の横のクズ籠に捨てようかと思ったが、ヤマトのアドレスが入っているので、ポケットに仕舞った。
高速バス乗り場を探していると、腹が減っていることに気づいた。バスの発車時間までは1時間以上あるし、乗ってから到着するまでも3時間ほどかかる。刑務所では飯の時間が決まっていたから、自分で食いに行くという感覚を忘れていた。娑婆に出てからの初めての飯だったが、立ち食い蕎麦で適当に済ませた。出汁が効いていて、味がしっかりしていた。多分、何を食っても美味いんだろう。今だったら、嫌いな海老も食えるかもしれない。
刑務所だったら食後に号令がかかり、点呼をしてから昼休憩になる。次に何をすればいいかわからない。ボケ老人のように呆けていると、口元が寂しくなってきた。タバコでも吸おう。このまま禁煙してしまえばいいのだが、思い出してしまったから仕方がない。キヨスクでタバコとライターを買うと、キヨスクのおばちゃんに喫煙所の場所を聞いた。タバコが少し値上がりをしていたことに驚いた。
喫煙所でひと口吸うと、頭がクラッとして目の前が歪んだ。目頭を押さえて、しばらくじっとしていると目眩はすぐに治った。こうやって徐々に娑婆を受け入れていくんだな、と感傷に浸った。
まだ発車時間までに時間があったが、バス乗り場に向かい列に並んだ。俺の前には3人ほど並んでいた。目の前のスーツの男が携帯で電話をしていた。男の携帯は、俺が持っているものより小さかった。今のところ時代から取り残されている浦島太郎状態だ。
30分以上経ってバスが到着した。立ちっぱなしで待っていたが、俺の後ろに並ぶ人間はいなかった。俺を含めた4人はノロノロとバスに乗り込む。新幹線と違い、家族連れの旅行客や忙しいビジネスマンといったわかりやすい風貌の者がいない。さっき携帯で電話していたスーツの男は、ビジネスマンと思いきや手ぶらで、いったいなんの目的で兵庫まで行くのか読めない。1番先頭にいた女はやたらに荷物を持っていて、もう1人はアフリカ系の外国人だった。みんなそれぞれの目的があるのだろうが、理由は俺と同じようなもんだろう。
乗車中、写経でもしようかとバックからノートとペン、そして経本を取り出したが、テーブルがないので書くスペースがない。暇潰しするのに何かないかとバックの中を覗いたが、出所時に返還された私物はバックと財布と、解約されている携帯だけだ。そこにさっき買ったノートとペンと経本、それが今の俺の中身だ。経本を開いたところで書かれてあることの意味がわからないから、ただの漢字の羅列だ。俺は、それを書き写したいのだ。それができなければ意味がない。
あとやれることは、眠くもないのに目を閉じてじっとしていることだけだ。
人間というものは、眠くなくても目を瞑っていると寝てしまうものだ。バスが停まり、プシュープシューと音がするので目が覚めた。それにしても、あのやたらにプシュープシューする音は、いったい何の音なのだ。
膀胱がパンパンになっていた。刑務所を出てから小便をしていない。バスから降りて、すぐに便所を探した。娑婆で初めての小便。しばらくの間は、いちいち「初めての何々」と思って生活するのだろう。こうやって、この「初めて」が少なくなっていくことで、日常に近づいていく。
便所を出ると、駅に備え付けのマガジンラックがあった。駅ビルのテナントのチラシや、旅行会社のパンフレットが陳列されている。その中に求人誌があったので、1冊手に取った。その場でペラペラと捲って求人を探す。アパレルやカフェのスタッフ募集が多い。その他に旅館の求人が目に付いた。観光地だからか、キヨスクには「六甲の何々」がやたらに販売されている。
公衆電話から何件か電話してみた。家がないという点で門前払いが多かった。そのうち1件から、他の旅館で住み込みで働けるところがある、と紹介された。そこに連絡すると、すぐに面接してくれるというので、場所を教えてもらいすぐに向かった。家族で切り盛りしている小さな民宿で、面接というよりは身の上話を聞かされた。俺も元服役者ということは伏せて、地元に居られなくなったために家族を捨てた、と嘘でも本当でもないことで乗り切り、採用してもらった。初めての就職だ。家主は、あまり細かいことは聞かないよ、と暖かい言葉をくれたが、2ヶ月後にどういう経緯か元服役者ということがバレて追い出された。また、住むところがなくなった。
兵庫県の中で場所を変えて職を転々としたが、どこへ行っても3ヶ月と保たずして服役していたことがバレて辞めさせられる。それが日常となった。
全く贅沢をしなかった。遊びに行く友達もいない。やることもないので週に1度だけ、あまり強くない酒を飲むことにした。そのくらいしないと生活にメリハリがない。あと、やることと言ったら写経だけ。買うのはノートとペンだけだ。あまり金のかからない趣味を手に入れたことが、刑務所生活での収穫だった。そして少し金ができたので、この町も出ることにした。
大阪や京都は都会なので、滋賀にした。安いアパートなら借りられたので、住み込みの仕事意外にも選択肢が増えた。けれど、結果は同じ。岐阜、長野と移り住んだ。長野では、段ボール製造工場で働いた。そこそこ大きい会社だったので、他の社員との密な接触は少なく、2年近く働くことができた。社員が大勢いると、割と他人に興味が湧かない。あまり話しかけられることもなく、目付きは悪いが真面目な作業員と思われていたと思う。
それでも2年も居れば、多少話す人間は出てくる。同じラインの班長も、俺の付き合いの悪さは人見知りが激しいからだと、個別で飲みに誘ってきた。あまり無碍に断るのも目立つので、数回は付き合った。その頃には酒を飲めるようになっていたが、酒の席に参加しないのは、下戸だということにして、班長の前ではソフトドリンクを飲んでいた。酒が入って調子に乗り、地が出てしまうことを避けるためでもある。班長は、俺の目つきが悪く、周りから避けられていることを心配していた。目付きが悪いのは、周りに避けてもらうためだ。
今までは、愛想を振りまいて周りに溶け込もうとしていたが、どんなに仲良くしていても服役がバレただけで周りは冷たくなる。そうなれば仕事を失う。仕事を失えば、また探さなければならない。そうしたことを避けるため、俺は周りと距離を置いていた。
長野の工場では、1人の女と出会った。周りを避けて、昼飯も1人で食べているというのに、やたらと話しかけてくる。会社の近くの安アパートに住んでいたのだが、近所だからとたまに夕飯のおかずとか持ってくる人だった。俺と同年代の女で、シングルマザーだった。小学1年生の息子と2人暮らし。顔は地味だが、胸の大きい女だった。
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